第18話 環状線都市-2

「香織!」


 千里さんが危惧していた通り、香織はそこにいた。

 いつもの活気のある表情でなく、魂が抜けてしまったような、と表現するのが似合う虚ろな表情だ。

 電車何両分もある広くて長いホームでたった一人、いつかホームに訪れる環状線の電車を待って、ぼうっと直立している。


「香織! 一緒にこよう! 駄目だよこんなとこで電車待ってたら、連れてかれちゃう!」


 ホームは静寂に包まれ、階段の下から聞こえる微かな声と金属音の他に音は無い。

 電車が来る気配はまだ無かったが、多分きっと遠からず、来てしまう。

 わたしは握りしめられた香織の手を取って、切符を持たせるために無理にでも指を開かせようとする。


 だけど香織の指はとても硬く固定されて、わたしの指の力くらいではびくともしない。

 香織の皮膚の温かさも指の柔らかさも感じるのに、石かコンクリートのような強度で硬く握られているのだ。


「香織、香織ってば!」


 わたしは必死になって呼びかけるが、虚ろな表情は変わらない。



「別にいいんじゃないの? 乗せちゃって」



 香織でも千里さんでもない、無感動な女の子の声が突如わたしの背後から響いた。


 声のする方を振り向くと、ホームの屋根の柱に寄りかかっていた、その声の主らしい女の子の影があった。

 彼女はわたしが自分に気づいたとわかると、こちらに緩慢に歩き出す。

 こつん、かつん、とわざとらしくコンクリートのホームに残る靴音。

 それが反響する度に、ホームの屋根の影に女の子の姿は少しずつ鮮明になってゆく。


 わたしや香織が着ているのと全く同じ学校の制服。右の手の中にはステンレスのくすんだ銀灰色をした、女の子の手で掴みきれないと思うくらいの大きな拳銃。


「香織はもう友達じゃないって自分から言ったし、貴女も反論しなかったんだから」


 どこまでも聞き覚えのある少女の声。


 最初それが誰の声なのだかわからなかったが、最後まで見えなかった彼女の顔が夕陽のもとに露わになった瞬間、その子の声が誰の物なのかを完全に把握できた。


「それに、香織といるのは『正しくない』んだもの」


 女の子の顔は表情の欠けた、とてもぼんやりした百瀬灯理の顔だった。


「誰!?」


「わたし?」

 彼女は眉根を少し動かしてから、大儀そうに答える。

「百瀬灯理よ。より『正しく』生きるように務めた貴女」


 わたしの顔をした、わたしと同じ背丈と格好の女の子は、とろんとした眼差しをわたしに向けて、拳銃を持った右の手をひらひらと翻す。

 とても重そうなはずの拳銃なのに、重みがないようにゆらゆらと揺れる。


「貴女だって香織のことは疎ましく思ってたものね。わたしの事情も、気持ちも汲まない。一方的に話しかけてきたり、なんにも知らないで約束してみたり……それでも無理に合わせようとして、結局わたしは――貴女は何一つ『正しく』無くなって、人を傷つけ続ける」


「違う!」


「何にも違わない。思っていた。疎ましいとも、香織といると誰かを傷つけてるとも」


 わたしに向けられた彼女の瞳は、コンタクトレンズがリングバーンの煤けた夕陽を照り返しているせいなのか、おかしな白みが混じった濁った色をしている。


「香織の勝手な約束とお母さんの『正しさ』の板挟みになってわたし自身も何度も傷ついた。お母さんだって何度も傷ついた。香織はわたしのことなんて何も考えてないから何が『正しい』のかも知らない。なのに親友面し続けて、『正しい』ことを簡単に否定する。挙げ句の果てが勘違いの上の逆ギレ。まあ、当たり前よね。何も考えてないんだもん」


「違う! 違う違う違う!」


 必死に違う、と連呼する。その全てを否定することは出来ないのに。


「違う違うって、何が違うの」


 わたしの虚勢を見透かすが如く無感動な口調で聞き返す彼女。


「何にも違わない。香織の親友面が面倒くさいのも、香織が言ったようにわたし自身が誰も失望させない『良い子でいたい』のも……。大丈夫。香織にはわたしから言ってあげたから。貴女は今まで通り……ううん、今までより『正しく』生きて、変わらなくていい。そうすれば結果的に香織も、お母さんも、周りのみんなも幸せになれる。だからさ、これ以上香織を傷つけないためにも、環状線の電車に乗せてあげようよ」


 少女は低く沈んだ声で、わたしにそう諭してくる。

 虚ろでぼんやりした、表情の欠けた女の子の顔。蛍光灯の反射した白みがかった瞳。地下鉄のドアガラス越しに何度も見た姿。


 あの時香織を追いかけていった、わたしに憑いた市獣。


わたしは怒りと共に自分を奮い立たせるように、スカートのポケットの中で車掌鋏をより強く、思いっきり握った。


 彼女はぼそりと、低く呟く。


「それとも、やっぱり貴女――わたし自身が環状線に乗る方がいいかな。誰かを失望させ続ける『正しくない』わたしなんて、誰にも必要ない。いなくなった方がみーんな幸せ」


 わたしの顔をした市獣は、わたしたちに拳銃から飛び出た筒先を向ける。


「ねえ。どうする。百瀬灯里」


 市獣は目を細め、わたしと香織、どちらかを狙う銃口をゆらゆらと揺らす。灰色の筒がくすんだ橙色の光を不気味に反射している。


 市獣は銃口を急に下げたと思うと、ちょん、と引き金を引く。


 どばあぁぁぁん! と大げさすぎる破裂音の後に、コンクリートのホームの床が、溶けかけのバターにナイフを入れたみたいに抉れる。


「言っておくけど、逃げるのとデタラメで返すのはナシ。そうしたらこの場でわたしが貴女たちを食べる。わたしも完全な心をリングバーンに食べさせたいから、ちゃんと選んで」


 ぼんやりとした顔が放った警告の一撃と言葉に、背に寒気が走る。


 万事休す、というより、投了寸前。

 こいつは香織かわたしを、環状線に乗せて、リングバーンに食わせるつもりなのだ。


「答えて。香織を環状線に乗せて誰も失望させずに『正しく』生きていくか、それとも誰かを失望させ続けないように、貴女が環状線に乗るか……電車はすぐに来るよ」


 彼女が告げる。何もできないわたしのことを責めるように。

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