第8話 誘いの列車-3

 わたし達はやがて一番後ろ側の車両にたどり着いた。

 千里さんは手慣れた様子で電車のお尻側にある運転席の扉を開け、中に入る。

 どうやったら元に戻れるのか気になったわたしも彼女に続いて入った。


 薄暗い運転席の中、運転士の椅子に、さっき見た黒いものに似た生き物が鎮座していた。

 さっきの真っ黒なドーベルマンと違って、タヌキぐらいの大きさと見た目で、黒みがかったほのかな赤色をした生き物みたいな、だけどたぶん違うもの。

 そいつはまあるい頭の上に古ぼけた黄土色の円筒帽を乗せ、時折「ぷきゅゆ、ぷきゅゆ」と電車のレールを渡る音に合わせるように奇妙な鳴き声を上げ、左右に揺れていた。


「これは倒さなくていいんですか?」


 わたしは恐る恐る千里さんに確認する。


「別にいい。そいつはウロって言って、市獣と違って危害は加えてこないから」


 千里さんはぷきゅぷきゅ声を上げるウロと反対の方向で、天井から伸びた紐みたいなものを、思いっきり引っ張る。

 途端、暴力的なぐらい耳障りな金属音を伴って電車が揺れ、スピードを落としていく。


「な、何したんですか?」


「非常ブレーキをかけただけ。電車に乗ってるままだと元の世界に帰れない仕組みなんだ」


 やがて電車は完全に停車する。まだぷきゅぷきゅ機嫌良さそうに揺れるウロをよそに、千里さんは慣れた手付きではしごを出して、線路に降りる準備をしていた。

 電車を止める手付きから何から、もう何度も経験していると思うくらい鮮やかだ。


 今まで妙な噂の多い変わった女の子くらいに思っていた彼女だが、この電車に乗ってから本当に謎は深まるばかりだ。


 しかし彼女の謎を知るための疑問などよりももっと先にわたしには彼女に言わなければならないことがある。


「千里さん、あの、助けてもらったり、失礼なこと言ったり……色々ごめんなさい」


 口ごもりがちになってしまった感謝と謝罪のないまぜの言葉に、すぐに「いい」とやはり素っ気なく返してきた。


「なんで君が迷い込んだかはわからないけど、ぼくの目の前で死なれても後味が悪かったから助けただけ。恩を売ったとか、そういうのじゃないから」


 千里さん、自分のことをぼくなんて言うんだ。

 凄い意外だ。


 わたしははしごを降り、千里さんもそれに続いて降りてきて、すぐにスカートのポケットの中から何かを取って、わたしに「はいこれ」と手渡してきた。

 それは厚紙で出来た、古い映画に出てくるような古風な切符だった。

 さっきまで目にしていた車内の文字と違って、ちゃんと読める漢字で『市内四拾銭』と大きく書かれた橙色の切符を、千里さんはわたしの手に握らせる。


「君。心を殺されたくなかったら、ここに迷い込んだこともぼくのことも、変な夢を見たと思ってすぐ忘れた方がいい。それに次から現実で電車に乗る時は、周りが見えなくなるほど考え事をしながら乗らないで」


「なんでですか?」


「詳しくは言わないけど」

 千里さんは少し間をおいてから、また口を開いた。

「考えすぎて心が良くない方向に傾いたり、ここを強く意識すると、またこの電車に乗せられるかもしれないし、あの男みたいのが君を追いかけてくるから」


 それならそうしたい。

 もうあんな怖い思いなんてしたくない。


はさみで切符を切ったら、向こうに帰れるから」

 千里さんはもう一度ポケットに手を入れてペンチみたいなもの――多分それが千里さんの言うハサミなのだろう――を取り出し、わたしが握っている切符の先端を挟む。

 その時、わたしは千里さんの腕の付け根近くには大きな切り傷があるのに気づいた。

 赤のマントの影になっていたけど、ブラウスを裂いて一閃の傷が走り、滴った血が電車から漏れる光を受けてより鮮烈で痛々しい赤に見える。


 千里さんの血の色、マントの色、背後に止まる電車の色。

 幾つもの強烈な赤が目に残ったまま、ぱちん、と切符が切られた音と共に、わたしの意識は途切れた。



「あの、あなた?」


「……え?」


 次に目を開けた時、わたしはどこかのホームで何かに背を預けて立っていた。眼の前にはパンツスーツ姿の女性がわたしを心配そうに見ている。


「学生さん? 疲れてるのはわかるけど、こんなとこで立ったままうたた寝なんかしてたら危ないから。今は元気だして、帰ってからぐっすり寝た方がいいよ」


 ホームの照明に照らされる、わたしを心配するお姉さんの頬は赤みがかかっている。

 それを見ただけで不思議な電車から脱出できたんだと、やっと実感が湧いた。

 とりあえずわたしは「はい」と簡潔に答える。

 まさか変な世界に迷い込んでた、なんて言っても信じてもらえるはずがないし、わたしもあれが夢か現実なのか、まだはっきり判断がつかなかった。


「あの、ここは」


「新宿。気をつけて帰ってね」


 お姉さんに軽く会釈して、わたしはいつの間にか両手で抱えていた鞄を抱きしめる。


 ひゅう、と風を伴って、右側の線路に入ってきたのは、緑と銀の山手線の電車。

 頭上を見上げると、案内板でそこが山手線の内回りと東京行きの総武線のホームだとわかった。

 なんで丸の内線に乗ってたのに山手線のホームにいるのか、もうわけがわからない。

 あの謎の電車も、死んだ肌の乗客も、突如やってきた火焔放射器を持ったスーツ男も、千里さんも。

 全ては夢遊病にでもかかったわたしが見た突拍子もない夢なのか。

 それとも別世界に迷い込んでしまったわたしが体験した突拍子もない現実なのか。

 そんなわたしの興奮と混乱は、頭上の電光掲示板の『21:19 渋谷・品川方面』の文字を目にした瞬間、冷水を浴びせかけられたみたいに覚まされた。


「……嫌だなあ。お母さん、明日絶対心配するじゃん」


 どこかで軽やかな発車メロディが鳴り響く中、わたしは明日のお母さんの過剰反応を思って、一人ホームの隅っこで頭を抱えたのだった。

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