旅ノ巻 箱根の先へ 6

 翌朝。まだ日も昇っていない暗がりで、旅装束の一九は、蔦屋と向かい合っていた。


「はい。これは、あたしからの餞別せんべつだよ」


 蔦屋は路銀ろぎんの入った袋を一九の手の上に落とした。あまりの重さに一九は目をひんく。


「え? い、いいんですか⁉ こんなにたくさん……」

「また行き倒れでもしたら、大変だからね」


 からからと笑う蔦屋に、一九は苦虫にがむしつぶしたような顔をする。あんなひもじい思いは二度とごめんだと思っているからだ。


「じゃあ、気をつけて行っといで。話のネタを拾ってくるまで、帰ってくるんじゃないよ!」

「えぇ!? そりゃないですよ、重三郎さん!」

「いいから早く行きな!」


 蔦屋に追い立てられ、一九は渋々しぶしぶと足を動かして出発した。


 日本橋までやってくると、一九と同じように地方へ旅立つ者たちの姿が、見え始める。


「なぁ、そこのあんた。どこまで行くんだい?」


 ふと声をかけられ、一九が振り返ると、背中に箱を背負った男がいた。


「私は、箱根までです」

「おっ! なら東海道だな。よければ、箱根まで一緒に行かないか? 俺は京の方まで行くんだ」

「構いませんよ。元々一人旅の予定でしたから」


 一九の言葉に、男はにっと歯を見せて笑う。


「そうこなくっちゃ。旅は道連れ世は情けってな! 俺は弥次郎やじろう。あんたは?」

「一九と申します。よろしく頼みます、弥次郎殿」

「止せよ! 殿なんてむずがゆい! 弥次郎でいいさ」

「なら私のことも、一九とお呼びください」


 こうして、一九は旅のお供を得た。2人は日本橋から東海道を目指して歩き出す。


「一九、あんた足に自信はあるか?」

「どこまで歩けるかということですか? そうですねぇ。私としても今日中には保土ヶ谷ほどがや、いや戸塚まで行けたらいいんですが」

「急ぎなのか?」

「まぁ急ぎといえば、急ぎですかね。ちょっと物語を書くように、依頼をされていまして。それの取材旅行なんですよ」

「へえ! あんた、作家先生か! こりゃたまげた」


 弥次郎の反応に、一九は苦笑する。


「そんな大層な者ではありません。昔は浄瑠璃を書いていたんですが、人気はなくて……」

「浄瑠璃!? 一九は知識人なんだなぁ。でもまぁ、人気が出なかったのはしょうがねぇ。江戸は娯楽ごらくであふれてるからよ!」


 深々とため息をつく一九の背中を弥次郎が、ばしばしとたたいた。


「げほっごほっ!」

「おっと。こいつはすまねぇ!」


 むせる一九に、弥次郎は軽く謝る。


 それから2人は、互いのことを話しながら、ひとまず戸塚宿に向かうことにした。


「弥次郎さんは、密陀絵みつだえをやっていらっしゃるんですか。ちょっと意外です」

「意外ってなんだよ! まぁやっぱり、俺みたいな豪快ごうかいな奴がやる仕事とは思えねぇか」


 密陀絵とは、密陀油に顔料を混ぜて描いた油絵の一種。漆器しっき装飾そうしょくになどにもちいられる。人によるが、弥次郎の場合は自分で器を作り、絵も描いていた。


「器に絵なんて、私には難しすぎて、無理ですね」

「慣れだよ、慣れ。細かい作業だから、神経は使うがな」

「今回の旅は、それを売りに?」

「おう。といっても、俺は知名度がねぇからな。宣伝用に引き札を描こうにも、うまくいかなくてよ。口上こうじょうでなんとかするしかねぇかなって思ってる」

「では、私が引き札を描きましょうか?」

「本当か!? 一九は物語だけじゃなく、絵も描けるのか!?」

「え、えぇ。重三郎さんのもとで、挿し絵描きの仕事をもらっているので」

「重三郎? もしかして、『この世に妖怪がいるとしたら、それは蔦屋重三郎だ』と言われてる、その蔦屋か?」

「はい。私の恩人なんです」


 一九はにこやかに笑った。

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