第40章 新たな試練


 翌日、僕はあかねの手を引いて、京都の撮影の旅として、北白川の水車小屋の近くにある蹴上のインクラインへと向かった。


 北白川は、情緒溢れる水路が織りなす風景と、古き良き時代を感じさせる水車小屋が点在し、その美しさは四季折々の風情を映し出している。一方、蹴上の里もまた、その静けさと素朴な風情が魅力となっている。 


 桜の花が咲き誇る春には、多くの人々がこれらの街の美しさに惹かれて訪れる。しかし、秋が深まり冬がくると、人々の足音は少なくなり、静けさが広がる。その寂しげな風景の中にも、冬ならではの美しさがある。そんな季節に、蹴上の街の魅力を探しに来る人は少ないかもしれないが、その美しさは一見の価値がある。

 

 昨冬に僕がひとりで訪れた蹴上のインクラインは、僕の心に深く刻まれた思い出の場所だ。今回はあかねをモデルにして、写真を撮りたかった。それは、僕にとって、まさに「リメンバーインクライン」 となる新たなチャレンジだった。


 今回のコンテストは、前回の新人コンクールよりもずっとレベルが高い。全国のプロカメラマンが参加しているから、優秀作品に選ばれるのは大変だろう。アルバイト先の社長や結衣からは、常に励ましとアドバイスを受けていた。特に、社長の大和田からは、「おまえならやれる。このチャンスを絶対に逃すな!」という力強い後押しを受けていた。


 昨年に訪れた時のことを思い起こす。


 僕は雪で白く染まった線路の景色に目を奪われ、写真の構図すら忘れ、誰もいない静寂な場所でぽつんと立ち尽くしていた。その美しさは、言葉では表現できないほどだった。雪に覆われた大地からは静けさと清らかさが感じられ、寒さに耐える生き物たちの姿は勇気と希望を与えてくれた。

 一方で、人々は冬景色の世界において、小さな存在であり、季節外れの蛍のようなものだったかもしれない。


 しかし、僕はここに存在している。自分の生命の鼓動を感じ、自由に羽ばたける瞬間を愛し、その感動を静止画に切り取っている。それは、僕自身の存在を確認する一種の証明だ。


 あの時、凍りつくような世界で、一歩ずつ冬から春への道筋を描いていたのだろうか。真っ白に昇華する風紋の舞を目の前に、「何と美しいだろう」と思わずつぶやいていたのだろうか……。 

 

 冬の訪れは、恋する若者たちにとって大切な季節だったはず。なぜかしら、心が温かくなり、感情が深まる季節だった。けれど、僕はひとりで、風紋の舞を見つめ、自分の感情を写真に残そうとしていた。


 雪の結晶は六角形の天使たちに昇華していく。彼らは輝かしいフラッシュの光に照らされて、静かに見つめ合い、ささやき合う。雪が放置された線路に白い絨毯を敷いて、淡雪の花がひっそりと咲く。清らかで凛とする空気はキラキラと輝き、風花は永遠の時間を刻むように、空へと舞い上がる。          


 思わず空を見上げると、しんしんと降る雪の音色が耳に届いた。凍えるような寒さでも、耳を澄ますだけで、感動の渦に包まれて心は暖かくなった。我を忘れて、カメラを向けたまま立ち尽くした。    

 やがて、空から降り注ぐ光が雪の結晶を包み込み、音をシャラシャラと響かせた。それはまるで天使たちが鳴らす鈴のようだった。心にそこはかとなく響き渡る音だった。その音色に耳を傾けると、大自然の中で自分の儚さと小さな存在に気づいた。 


 僕は、雪景色のインクラインに心を奪われた。その美しさ、静寂さ、そして純粋さが、僕の心に深く響き、感動を呼び起こすのだ。 


 しかし、草木が実るひとときにも、目を見張るような美しさがあった。季節が深まり、空気が冷え込むと、京都の秋の風物詩となる「いろはもみじ」の葉色が、鮮やかな深紅に染まる。その小ぶりな葉が空に舞う姿は、まるで一枚の絵画のようだ。今日は、その美しい葉をモチーフに、新たな作品を創り出すつもりだ。


 僕は期待を膨らませて、あかねと一緒に蹴上インクラインの地へ足を踏み入れた。そこには森の神さまが見守ってくれているかのように、僕たちの撮影に邪魔する人影はなかった。彼女に笑顔で声をかけた。 


「線路の上を自然な表情で歩いてみて」


 あかねは、まるで春の天使が舞い降りたかのような、純粋で輝く笑顔を浮かべながら線路を歩き始めた。その姿からはあざとさなど微塵たりとも感じられない。無邪気で自然な微笑みが彼女らしくて、とても可愛らしかった。

 あかねの眼差しは、蝶のようにひらひらと舞う一枚のいろはもみじの葉に向けられていた。そのとき、おもむろにあかねが驚いたように口を開いた。


「あっ、ほんまもんの蝶やろか」


 彼女を見ると、和風姿の襟足からアカタテハの蝶が空に舞っていた。翅に鮮やかな模様があり、まるで赤く染まった葉が二枚開いたまま羽ばたいているかのようだ。


「そのまま、そのまま……。動かないでいてほしい」


 心の中でそっとつぶやいた。


 花札ではないが、「蝶と紅葉と和風の舞子姿」それは、絵になりそうだ。でも、カメラのピント合わせはあくまでもあかねが中心だった。その三点セットの光景は凍てつく冬の季節には見られないものだ。僕はつぶらな瞳で驚いたように、立ち振る舞うあかねの姿を一枚の写真に切り取った。


「可愛らしゅう撮ってな。少しだけ、舞うてみるさかい」


 あかねは舞妓の見習いで踊りの練習にも励んでいた。続いて、彼女の襟足から可愛らしいうなじを見せてくれた瞬間に、レンズを向け、続けてシャッターを切った。一枚、二枚、三枚。カメラのシャッター音が響き渡った。彼女らしい品と共に色気を感じられ、僕の心をくすぐってきた。


 写真の背景には、「いろはもみじ」が美しく映し出されていた。その七つの切れ込みが星の輝きを思わせ、真紅に色づいた葉が一面に広がり、秋の風に揺れていた。清らかな空気がキラキラと輝き、もみじが風車のようにくるくる回り、空へと舞い上がっていく。

 彼女が歩く線路の行く末には、赤や黄色の絨毯じゅうたんが敷かれ、カラフルな色合いが競っているように見えた。その光景は、まるで自然が描き出す一幅の絵画のようだった。


 その日、僕らは心に深く刻まれる思い出を作り、また一枚の感動的な写真を生み出した。それは、僕とあかねが共に過ごす京都の日々における、新たな章の幕開けとなったのだ。


「あかね、見てみて。これは君の美しさを捉えた最高の写真だよ」


「ほんまや。こないに美しゅう撮れてるなんて、まるで別人みたい」


 あかねは、僕が撮った一枚の写真をとりわけ気に入ってくれたようだ。彼女は満面の笑みを浮かべながら、液晶モニターをじっと覗き込んでいた。  

 そのとき、突然、ふたりの楽しい時間をさえぎるように、あかねの携帯から着信音が鳴り響いた。彼女はその音に「あーあ。あかんやん。がっかりやな!」とすぐに首をすくめてぼやいた。


「これ、知らない番号だけど……」


 彼女は眉をひそめながら、僕に向かってそう口にした。もしかしたら、何かの知らせかもしれない。僕は電話に出るように勧めた。あかねは、突然の着信に戸惑いつつも、僕のアドバイスに従った。 


「もしもし……。なんやぁ、おばちゃんやってん」


「あかねちゃん、大変やで。あんたのおかんが……」


 電話の向こう側には、隣に住むおばさんの声が聞こえてきた。あかねの母親がまた心臓の発作に襲われたという。昨夜から寒い中あかねを自転車で探し回っていたらしい。すぐに病院へ向かうように指示された。


「悠斗、おかんおかんが……。倒れたの。どないしよう」


 あかねの顔は青ざめたものとなり、動揺の色を隠せなかった。けれど、どうもこうもなかった。できる限り早くふたりで病院に駆けつけるしかないだろう。


「あかね、大丈夫だよ。怖いよね。でも、ひとりじゃないよ。僕がついてるから。君がどんなに怖がっても、僕がそばにいて支えるよ」


 僕はそう言って、彼女の手を握りしめた。彼女の目には涙が溢れていた。彼女を抱きしめ、背中を優しく撫でた。あかねは僕の胸に顔を埋め、すすり泣くように涙を流した。その涙声は僕の心を締めつけた。


「お母さんは強い人だよ。だから、きっと大丈夫だから。僕たちは信じて待つしかないんだ」


 僕はもう一度言葉を探して、彼女を励ました。そうして、ふたりで病院へと向かった。その日、僕らは新たな試練に立ち向かうことになった。人生には、それぞれ異なる物語があるのだろうか……。あかねにも、そして僕にも。


 しかし、今はその試練をふたりで力を合わせて乗り越えるしかなかった。そうすることで、きっと僕らの絆はさらに深まっていくのだろう。僕はそれをしっかりと心に刻み、忘れないようにした。


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