第19章 心字池の鏡
今日は久しぶりに休みだった。天気が良く心地よい風も感じられたので、朝からカメラを持って京都の街を歩きたくなった。
あかねは、「美しいものを美しい」と飾ることなく言葉を織りなすように表現できる人だった。僕はそんな才能に欠けていたが、写真なら儚くも美しいものを残せると信じていた。だから、もう一度初夏の美しい景色を彼女と歩きたかったのだ。
病室から見えた五重の塔に心を奪われた僕は、京都にはもっと美しいものがあるのではないかと思い始めた。季節ごとに移りゆく風景を写真に収めたいという思いが強くなり、ネットで色々と検索してみた。
八坂の塔の優美な姿や、快慶の作ったお不動さんの迫力ある表情、貴船の涼やかな川床など、名所は次々と目に飛び込んできた。
でも、ネットで見る美しい風景には、あかねの笑顔が浮かばなかった。彼女は目が見えなくても、心で美しいものに惹かれる人だった。それは、彼女の感性が、僕には考えられない優れものだったからだ。
先斗町であかねと出会ってから、そう僕の心に響いていた。だから、彼女と一緒に音や香りで感じられる場所に行きたかった。鐘の音やせせらぎの音や鳥の声、初夏に咲く花の香りなど、五感で感じられるものを探して、僕は自分で歩いてみた。
やがて、南禅寺にたどり着いた。そこは蹴上インクラインに近いところにあり、落ち着いた雰囲気の寺で、参拝客も少なかった。
境内に一歩入ると、目に飛び込んできたのは水路閣だった。それは水路橋とも呼ばれる木造の架け橋で、その下を流れるせせらぎの水音が心地よく聞こえた。
水路閣から見渡せる景色は素晴らしく、青もみじが風にそよぐ美しい新緑の季節に心を揺さぶられた。木漏れ日が水面に映り込みキラキラと輝き、陽だまりには可愛らしい花が咲いていた。
僕はしばらく立ち止まり、水音や鳥のさえずりに耳を傾けた。この場所ならあかねも喜んでくれるだろうか……。彼女が隣にいてくれたらどんなに良かっただろう。
いや、もうすでに僕の心のそばに彼女が寄り添って、「えらい素晴らしいとこや。早う連れていっとぉくれやす」とこの景色を楽しんでいたのかもしれない。そう思うと胸が痛んだ。
水路閣を後にして、近場を散策した。本堂や方丈など見どころは多かったが、あまり興味を持てなかった。ただひたすらあかねと歩ける緩やかな道を探した。
途中で出会った猫に話しかけたり、おみくじを引いてみたりしたが、それも気分転換にしかならなかった。
やがて、南禅寺の裏山にある「哲学の道」にたどり着いた。そこは桜や紅葉の名所として知られる道で、哲学者の西田幾多郎氏がよく散歩したことからその名が付いたという。哲学の道は平安神宮から銀閣寺まで続く約2キロメートルの道で、途中には多くの寺院や茶店があった。
哲学の道を奥へと歩き始めた。道沿いに咲く花々や新緑の木々が目を楽しませた。ときおり、風が吹くと花びらが舞い上がり、甘い香りが漂った。深呼吸をして、その香りを嗅いだ。あかねならどんな花が好きだろうか。彼女の好きな色は何だろうか。そんなことを考えながら歩いた。
あかねの笑顔が忘れられなかった。彼女の笑顔は、僕の心に暖かな光を灯してくれた。でも、今は彼女の姿が見えず、声も聞こえず、手も触れられなかった。そんな現実に、僕は胸が苦しくなった。
道すがらに高台寺や永観堂などの古刹を巡ったが、どこも心に響かなかった。ただひとつ、例外があった。白い半夏生の花が咲き誇り、石灯籠や石仏が顔を覗かせる、優雅な雰囲気が漂う心字池には惹かれた。
池のほとりに腰を下ろし、しばらく見入っていた。その名前の由来は、「心」の字をかたどった池からだという。
じっと見つめていると、心の字に似ていた。そう不思議な気持ちとなり、カメラのシャッターを切った。いつしか、僕はあかねへの想いを心字池に重ねていた。
彼女の心も、この池のように見えればいいのに。彼女がどんなことを考えているのか、どんなことに悩んでいるのか、見通せるようになりたかった。
携帯電話を取り出して、あかねにメールを送った。今日見た寺や道のこと、心字池のことなどを書いた。そして、週末に会えることを楽しみにしていると伝えた。メールを送信すると、すぐに返信が来た。
「悠斗はん、こんにちは。メールおおきに。京都の寺や哲学の道のこと、えらい興味深う読んださかい。とりわけ心字池のことは素敵やった。うちもいっぺん見てみとおす。悠斗はんに会えること楽しみにしてます。今日もお疲れやす」
あかねはメールも京都弁で綴ってくれた。それを読んで、僕は嬉しくなった。彼女も僕と同じ気持ちでいてくれるのが嬉しかった。僕はすぐに返信した。
「あかねさん、こんにちは。メールありがとう。心字池は本当に不思議な池でしたよ。一緒に見に行きましょう。僕もあかねさんに会えることを楽しみにしています。今日もお大事に」
メールを送ると、またすぐに返事が来た。
「悠斗はん、心字池に一緒にはよう行きたい。うちも会えること楽しみにしてます。今日もおやすみなさい」
夜更けになっても、終わらないメールのやりとり。僕らは「おやすみなさい」と言っても、まだ話したいことがあるという気持ちでいっぱいだった。どんなに些細なことでも、あかねと共有できると嬉しかった。
あかねのメールには可愛らしい京都弁が溢れていて、それが僕の心を和ませてくれた。彼女との再会はもうすぐだ。僕はその日を心待ちにしながら、眠りに沈んだ。
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