第15話 貴重書架2

別館の鍵を開け、重い扉を開いた。


開架がない時でも、週に一度は空気を通しているが、大量の書物のせいで中はとても乾燥しており、紙や皮の匂いが溢れて出てくる。

明かりをつけた館内は、本館のような華やかさは全くない。

古い書物特有の背表紙の暗さと相まって、かなり薄暗く感じる。

でも、俺は小さい頃からこの場所が大好きだ。


ふと見ると、アレシアが手を広げて深呼吸をしていた。はぁぁーと感嘆の声まで上げている。

目が合うと恥ずかしそうに肩をすくめた。


「わたくしこの古い本の匂いが大好きで、書庫に来るとつい吸い込んじゃうんです。お父様には怒られちゃうんですけどね」

「私も同じですよ。小さい頃からここの匂いが大好きでした」

「まあ嬉しい! たまらないですよね」


子供のように目をキラキラさせたアレシアは、声が大きくなっている。

印象が違う……なんだろう、少しだけリュシエンヌに似た感じだ……。いやいや、仲良くなる必要はない、会話も最低限にしたほうがいい。


突然、目の前をアレシアが駆けて行った。お目当ての鉱物関連書架を見つけたようだ。


「あああ、こんなにたくさん! さいっこうです……あ、失礼いたしました」


アレシアはずっと興奮しっぱなしだ。

見た目から受けていた王女のイメージとは違い、同世代の友人達と一緒にいるように感じる。

これが、本来の彼女の姿なのだろうか?


「いえ、構いませんよ。本が好きな方が最初にここに来たときはそうなります。手が届かない本は取るので言ってください」

「はい、ありがとうございます!」


彼女は書架に向かい、一番上を見上げると数冊を指さした。

折りたたまれた三段脚立を開き、指定された本を取る。他には、重さが想定できないくらいの分厚い本、取り扱いづらい革製の本を机まで運んだ。


その間アレシアは、書架をくるくると見回り、色々な場所で感嘆の声をあげていた。

棚から数冊の本を抜き取り、少し考えて一冊以外を元に戻している姿が見えた。


「一冊だけで大丈夫ですか?」

「はい……子爵にここの開架予約をお願いしたら、午前中だけにしていると言われて」


貴重書架の本は、もちろん持ち出しが禁じられている。

閲覧希望者も、エルンスト家に取次ぎをして簡単な審査の後でないと入館ができない。

利用時間の規則はないが、希望者のほとんどは、朝一番から閉館までを予約する。

そういえば、時間は午前中のみと指定を受けていた。


「ああ、そうだったんですね……」

「はい。わたくしがいつも午前中だけ図書館を利用しているので、子爵が気を遣ってくださったんだと思います……次は、一日まるごとお願いしますね!」


アレシアはくしゃっとした笑顔をこちらに向け、机に座ると、一番分厚い建築の歴史本を開いて読み始めた。

なんだろう……モヤモヤした感情が胸に渦巻く。

アレシアに対して、なぜか後ろめたいような気持になっている。

一方的に避けようとしていた罪悪感なのだろうか……。


変に意識してしまうのも良くない。俺も何か本を読もう。

そういえばここには、天文に準じた神話の本があったはず。リュシエンヌの話を聞いているうちに、自分も読むようになっていた。あれなら時間が過ぎるのがあっという間だろう。


神話と民俗学の棚から、数冊を選んで机へ向かう。

アレシアの前を通るとき、俺の手元を見て「あっ」と小さな声をあげた。


「ん? なにか?」

「あの、ルドウィクさん。それってもしかして、星女神の神話の原本ですか?」


彼女の方には背表紙しか見えていない。これだけで分かったのか、相当な本好きだ。


「よくご存じですね、これは原著です。保存がいいので挿絵の発色も綺麗なまま、流通している本には収録されていない話も載ってますよ」

「まあ! なんて素敵なの」


席を立ったアレシアは、さっき以上に瞳を輝かせている。

あの表情、明らかに見たそうだ。すこし背伸びまでしているじゃないか……。

さっき沸き上がった罪悪感を消すつもりではないが、アレシアの机まで行き、持っていた本を机の上に置いた。


「わっ! これ開いても?」

「もちろん、どうぞ」


俺が手を差し出すと同時に、そうっと表紙を開き、目次を確認し始めた。

大きな瞳が瞬きさえ忘れている、まるで子供みたいだ。

お目当てのものを見つけたのか、一枚の挿画でページを捲る手が止まった。


「この版画なんて素晴らしい。細かい線までしっかりと表現されていて繊細だわ。こんなに美しかったのね……わたくし、この二番目のお話が大好きなんです」

「二番目……ああ! これはリュ……」


あぶない、つい普通にリュシエンヌの話をしてしまうところだった。

アレシアが話しやすくて会話に乗せられて仕舞う。やはり近づくべきではなかった……。

もう、この本は読まなくていい。ここに置いて早く席を離れよう。


「よろしければ、この本はお読みください」

「はい……あの、リュシエンヌさん? 挨拶しかしたことがないけど、ルドウィクさんの婚約者なのよね?」


アレシアが、リュシエンヌの名前を口にした。


挨拶というのは、彼女が初めてここに来た時のことを言っているのだろうか。

あの時は言葉を交わしても居ないはずだ。なぜ名前を憶えているんだ?


「はい、婚約者です」


彼女と話したくない。いや、これ以上話をしてはいけない。


「わたくし、セレーネとお友達になったの。彼女からよく、ルドウィクさんとリュシエンヌさんの名前を聞くものだから」

「そうですか……」


ああ、セレーネからか。そういえばさっきも手を振っていた。

一番最初にできた友達がセレーナなのだろう。こればかりはどうしようもないことだ。


「そうだ! わたくしセレーナ(ネ)に、あの後のこと聞くのを忘れてたわ!」

「あの後?」

「ええ一昨日。ルドウィクさんもいらしたわよね、ヴェーバー邸の噴水で……」

「ああ、あの日。セレーナ(ネ)は大丈夫だと言っていましたよ」

「……婚約者のリュシエンヌさんは大丈夫でした?」


ドンッと心臓が跳ねる。

アレシアの口から発せられるリュシエンヌの名前に、つい顔を見てしまった。

彼女は真っ直ぐ、睫毛さえ動かさずにこちらを見ていた。


「リュシエンヌさんもあの場所に居ましたよね? 真っ青な顔をしていたように見えたのですが、大丈夫でしたか?」


あの日見たアレシアの無表情な顔を思い出す。

全身が嫌な感情に包まれていく。


あんなに離れた場所にいたリュシエンヌを心配する意味は? 顔色なんてわからないだろ?

彼女に対して表現できない罪悪感のようなものを感じていたが、もう構わない。

やはり彼女には何かがある、これ以上反応しては駄目だ。


「さて、アレシアさん。雑談はこれくらいにしておかないと、本を読む時間が無くなりますよ」

「あ、そうだわ! わたくしったら」


アレシアは肩を少し上げ、神話の本を俺に返すと、開いていた建築の歴史本を読み始めた。

頭を下げて自分の机に戻る。時計は9時30分を指していた。

あと2時間半の辛抱か……。

二人きりの館内。乾いた空気と古書の甘い香りの中、アレシアがページをめくり、何かを書く音がだけ聞こえる。


神話の本を目の前に置くが、読む気になれない。

リュシエンヌの好きな本をアレシアも好きとは皮肉な話だ。仲良くなっていた前回は、そんな話もしたのだろうか。

にこにことして愛想が良いアレシア。王女という素性を知っているからこそ、なおさら好意的に感じてしまう。


しかし、彼女の真意がまったく掴めない。

これも、リュシエンヌの前回のことを知らなければ、気づかなかったのか……だって、俺はリュシエンヌだけが知っている世界で、彼女に恋をしている……。


館内に設置されたからくり時計が、カタカタと動き始めた。

色々考えている間に12時になっていたのか。


アレシアに目をやると、名残惜しそうな表情で本を閉じ、広げていた紙や筆記具を片付けている。

やっと二人だけの時間から解放される。

書架の鍵を手にして「本はそのままでいいです」と、声を掛けながらアレシアの机に向かった。

アレシアは机の横に立ち、ぺこりと頭を下げた。


「ありがとうございました。あっという間の時間でした」

「10日前からご連絡いただければ、一日解放することも可能です。いつでも申し付けてください」


一応こうは言っておくが、次にカトラン子爵家から開架の予約があったときは、書棚の整理という名目で使用人に同行してもらおう。二人っきりは今日限りにしたい。


「一日ここに居られるなんて最高です。あ! それでしたら、18日は大丈夫かしら? その日はまだ何の予定もないんです」


ん、18日? なにかあった気がする、今月の18日というと休日か……。

あっ……この日は毎月定例のお茶会の日だ。

皆で作成したはずの案内状がアレシアの手元に届かず、彼女一人がお茶会に出席しなかったという、不可解な日……。


そうか、そういうことか……。

リュシエンヌは、自分に起こった事、見た事しかわからない。

もしかして俺は、18日に二人きりでアレシアと会っていたのではないだろうか。

背中がざわっと粟立つのを感じた。


「ルドウィクさん?」


アレシアが不思議そうな顔で、首を傾げる。


「ああ失礼しました。たしか、18日はお茶会があるはずです。参加希望に名前を記入しておくと、案内状が届くようになっています」

「まあ素敵。私まだお友達と呼べる人がほとんどいないの。参加してもいいのかしら?」

「もちろんです。人は結構集まると思いますよ……まあそういう事なので、他の日を考えておいてください」

「はい!」


嬉しそうに微笑むアレシア。

人が集まるのは君のせいだよと言いたいが、そんなことはどうでもいい。こっちは出席さえしてくれればいいんだ。

書棚を整理している間に、アレシアは持ってきた荷物を両手に持ち、すぐに別館を出られるように待っていた。


「では、参りましょうか」

「はい」


入り口の重い扉を開き、アレシアが出るのを確認してから明かりを消す。

来た時と同じ、ガラス張りの渡り廊下に出ると、言いようのない安心感に全身が包まれた。

本館へ戻り、見慣れた司書達の姿や利用者の話し声に、更に体が緩む。

大きく伸びをしたい気持ちを我慢していると、アレシアがこちらにくるりと向き直った。


「ルドウィクさん。今日は突然だったのに、本当にありがとう」

「いいえ、とんでもございません。図書館は当家で管理しておりますので、お気になさらず」

「はい。今度はリュシエンヌさんとお話がしたいです」


アレシアはそう言うと、口の両端をあげ、美しいカーテシーをした。


またリュシエンヌだ……これは考えすぎではない、何かが不自然だ。


返答することができず、黙ったままでいると「眉間の皺凄いですよ、では失礼いたします」と、目を細め、アレシアは本館の中央廊下へと歩いていった。

透き通るようなオレンジ色の髪を揺らす彼女の背中を、ただ、見つめることしかできなかった。

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