第12話


         ※


 そんなこんなで、僕たちは朝食の席に着いた。四人掛けのテーブルの一辺ごとに、一人が座る。ちょっと隣から遠い気がするんだよな……。でもそれは、このテーブルでの会食に自分が慣れていないだけなのかもしれない。


 それはそうだ。今までこのテーブルは、僕だけのものだったのだから。弦さんは別室で食事を摂っていたし。

 今日は珍客の相手をすべく、僕の向かいに座っているけれど。


「弦さん、今日の僕らはどうしたらいいですか?」

「単純に考えれば摩耶様と美耶様を鬼羅鬼羅通りにお送りし、お帰り願うところですが――」

「えーっ? マジで? 久々にシャバに出られたのに、もう帰されちゃうのかよ!」

「シャバって言うな! ヤクザかお前は!」

「きゃん!」

「そして頭を引っ叩いたくらいで変な声を出すな! まったく……」


 文句を言いながらも、僕は弦さんの十八番料理・ビーフシチューに口をつけた。ほんとにいっつも美味しいな、これ。どうして弦さんが料理人を目指さなかったのか。朔家における大いなる謎の一つである。


 僕が舌鼓を打っていると、ぴょこん、と美耶が椅子から下り立った。まだビーフシチューは残っている。どうしたんだ? 僕が美耶に出会ったのはほんの昨日のことだが、いかに彼女が礼儀正しいかは分かっているつもり。

 そんな美耶が食事中に席を立つとは、何事だ? じっと見ていると、美耶はぐるりとテーブルを回り込んで、僕のそばに立った。直立不動の姿勢である。


「ど、どうしたんだ、美耶?」

「私にもお願いします」

「お願いって……何を?」

「頭を撫でてください」

「うぐっ!?」


 なんじゃそりゃ? 確かにたった今、僕は摩耶の頭部を軽く叩いたが……。あれを自分にも食らわせろ、と言いたいのか?


 俺の心を読んだかのように、美耶はうんうんと頷く。僕はぱっくり口を開けて、美耶の言動の『何故?』を探ろうとした。さっぱり見当もつかなかったけれど。


「さあ柊也さん。スプーンを置いて、私の頭を撫でてください」

「あー……」


 そういうことか。さっきの摩耶に対する掌攻撃を、美耶は『撫でる』という表現している。

 姉である摩耶のみならず、自分のことも同様に可愛がってくれ、と?


「ふむ……」


 僕はそんなに『兄貴らしい』ことをしただろうか? いや、兄貴と言わずとも、年上らしい責任ある行動を取っただろうか?

 ……そんなわけないよな。


 体感時間は一分半といったところだろうか。僕は目を閉じて、脳内整理に励んでいたが、それもようやく答えを弾き出すに至った。


 ひとまず今は美耶の言う通りにしてやれ、である。


「いいか美耶? 撫でるぞ」


 ぐいっと頷く美耶。その頭頂部に掌を寄せ、僕は不器用に手を動かした。

 さらさらで健康的な髪の繊維に僕の指が沈み込み、控えめでありながら品のいいシャンプーの香りが漂い出す。こんないいシャンプー、うちにあったっけ? まあいいや。


 その間美耶は目を閉じて、僕の手にされるがままになっていた。

 ってマズいな。美耶のあどけない顔が赤く染まりつつある。もしかしたら、僕も似たような状態かもしれない。鼻血噴出の危険性があるということだ。


 僕は慌てて手を引っ込め、手拭いを掌に挟んでよく揉んだ。そして美耶に『満足したか?』と訊いてみた。

 すると美耶は、顔をキラキラさせながら『ありがとうございます!』と言って軽く頭を下げた。そして席に戻り、何事もなかったかのように冷めたビーフシチューを食べきった。随分食欲があるんだな。


 肩が凝りそうな時間が、しばし流れた。精々、摩耶ががちゃがちゃとビーフシチューを掻っ込む時の、食器の触れ合う音くらいか。


「はーい! ごっつぁんでーす!」


 唇に付いたシチューをぺろりと舐めながら、摩耶が声を上げた。


「おお、お粗末様でございました」

「何言ってんだよ、弦さん! めっちゃ美味かったぜ!」

「光栄です、摩耶様。ああ、只今水をお持ち致します」

「あざーす!」


 軽い足音と共に、弦さんはキッチンへ引っ込んでいく。その隙を狙っていたのだろう、摩耶はずいっと身を乗り出して、美耶を睨みつけた。


「おい美耶、どういうことだよ?」

「なっ、何? お姉ちゃん、怖い顔して……」

「お前、頭を撫でてもらうなんてガキのやることだぜ? なんでそんなこと、柊也に頼んでるんだよ?」


 すると一瞬で、美耶の顔が真っ赤になった。ざざざざっ、と真っ赤な海水が引いては寄せてくる。まるで、美耶の首のあたりが波打ち際になっているかのようだ。


 って待て待て待て待て。

 どうして僕が話題になっているんだ? なんだか槍玉に挙げられているようじゃないか。


「おいおい、なんで僕が――」


 と言いかけて、片腕が締められた。柔道技をかけられたとかではなく、握られて動けなくなったのだ。


「ちょっ、痛いよ美耶! どうしたんだ?」


 美耶は答えない。だがその無言の圧力こそが、美耶の決意の強さを露わにしているようだ。

 それを見て、摩耶は露骨に舌打ち。

 ううむ、ここは年長者が仲裁に入らざるを得まい。


「お前までキレるなよ、摩耶。っていうかお前らさあ、どうして僕に拘るんだ? 何かあったのか?」


 昨日出会ったばかりの二人と僕の間には、何も特別なイベントなんて起こっていないのに――あ。

 そうか。タイミングはズレていたものの、こいつらは夜中に俺の部屋を強襲してきたのだ。

 あれが、イベント……? どういうことなのか、未だに僕にはサッパリだ。

 っていうか弦さん、どこまで水を取りに行ったんだろう。気まずいから早く帰ってきてくれ。


 そう念じつつ、僕は会話に割り込むことにした。


「なあ、摩耶、美耶。お前らにとって、僕って何なんだ?」

「相棒だ」


 と即答したのは摩耶である。


「相棒? どういう意味だ? 重かれ軽かれ、犯罪の片棒を担ぐのはご免だぞ」

「そんな意味じゃねえよ! ガチで格闘訓練をしたら、あたいがあんたとタッグを組んで銀行強盗を――」

「だからそりゃ思いっきり犯罪だろうが!」


 酷い話だな。


「お前はどうなんだ、美耶?」

「お兄ちゃん」

「!?」


 僕はその威力にのけ反った。思いがけないタイミングで発せられたこの言葉。口を閉じてからも、じっと僕を見つめる瞳。

 その二つが自分の頭部に、心を抉るようにして突き刺さっている。

 条件は整ったと言わんばかりに、僕の鼻腔内の毛細血管が振動した。


「ぶふっ!」


 手で鼻を押さえ込む隙すら与えられなかった。テーブルに鮮血が滴り、広がって、床へと流れ落ちていく。


「あっ、おい! 大丈夫か!?」


 摩耶が慌てて立ち上がり、テーブルにあったティッシュボックスを僕に投擲。なんとかキャッチして中身をむしり取り、ぐっと鼻先に押し当てる。


「ふが……、もごもご……」


 ああ、やっと止まった。まったく、これではこの先やっていけないな。見ず知らずの相手と話をするのに、致命的な問題となるかもしれない。

 兄呼ばわりされる度に話し相手を血塗れにしてしまっては、話せるものも話せなくなってしまう。


 そこから先の月野姉妹の迅速な行動たるや、目を瞠るものがあった。


「美耶、キッチンからタオルを持ってこい!」

「分かった! お姉ちゃんは柊也さんの鼻を押さえて! 離さないでね!」

「任せろ! 柊也、ちっと我慢しろよ!」

「が、我慢? むがっ!」


 摩耶は僕の背後に回り込み、首を絞めるのと同じ要領で僕の鼻を押さえつけた。柔道の絞め技みたいだな。――などと考え込む余裕は与えられなかった。


「いってぇ! 馬鹿! お前は僕の顔面を捻り潰す気か!?」

「んなわけねえだろうが! 昨日一緒に寝た仲なんだから!」

「バッ、馬鹿馬鹿馬鹿! 誤解を生むようなこと言うな! 無理やりお前が添い寝してきただけじゃんか!」


 鼻を押さえられて、滑稽な声音で僕は言う。その視界の隅で、何かが不自然に動くのを僕は捉えた。


「あっ、美耶! タオルを摩耶に渡してくれ!」

「そ、そうだな! あたいに任せろ! 美耶はあと……氷水! 冷凍庫から持って来てくれ!」


 しかし、である。

 美耶はその場で固まって、一向に動こうとしなかった。そして僕はようやく気づいた。今、不自然に動いて見えたのは、美耶が持ってきたタオルの真っ白な生地がフローリングに落ちたから。


 加えて――というよりこっちの方が大問題なのだが――、美耶が蒼白な顔をしてこちらを見つめている。何か不吉な事態が起ころうとしているような気にさせられてしまう。


「やめとけ、美耶。クナイなしじゃ、あんたはあたいに勝てないよ」

「そんなこと、やってみなくちゃ分からないじゃない!」

「柊也の前で、か? 部外者を巻き込むな。弦さんだっていつ戻ってくるか分からねえのに」


 黙ってこくこくと頷く僕。その頭部を中心にして対峙する摩耶と美耶。

 ……なんで喧嘩してるんだ、こいつらは?

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