第3話

 毎日、あまりにも見慣れている建築物だ。僕はゆっくりと我が家の外観を思い返してみた。


 この閑静な住宅地でも、結構目立つ方だと思う。

 平屋で広めの庭を有し、木製の門から母屋の玄関まではそこそこ距離がある。

 母屋もほぼ完全な木造建築。床面積は庭と同じくらい、すなわち敷地の半分くらいはあるだろうか。

 地方中枢都市の幹線道路から、一本入ったところの広大な敷地。ベッドタウンにこれだけの土地を有しているのが異常なのかもしれない。高校のグラウンドくらいの庭と母屋。


 奇妙なのは、これだけの広さを有する邸宅に僕と弦さんしか居住していない、ということだろう。

 以前、それを先輩に言ってみたら、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をされた。広すぎだって言う話だろうな、うん。


 こればっかりは仕方がないのだ。引きこもりにとって、プライバシーの死守は最優先事項。

 かといって、他人が邪魔なのかと言われると返答に窮してしまう。

 誰か保護者枠に入るような人にいてほしい。そんな感情が湧かない引きこもりは、少なからずいる。


 そういえば。

 僕は弦さんに、こう尋ねたことがあった。


《どうして弦さんは、こんなにいろいろお手伝いしてくれるの?》

《それはね、柊也坊ちゃま。わたくしがあなたのお父様に命を救っていただいたからですよ》


 どういうことだろう。十年前に家族を亡くした僕には、その意味するところはさっぱりだった。安易に踏み込んでいいような、軽い話題でもないだろうし。


         ※


「さっくん、大丈夫?」

「あっ、はい!」

「まったく、返事だけはいいんだから!」


 そう言って鞄を抱え直す瑞樹先輩。慌てて周囲を見回すと、そこは大学の正門前だった。


「すみません、考えるのに没頭して、その、お話あんまりできなくて」

「いいよ、さっくんにとってはいつものことだからね」


 そこに嫌味ニュアンスが含まれていないことを察し、僕は密かに胸を撫でおろした。


「それじゃ、集合時間と活動場所を勘違いしないように!」

「了解です! ありがとうございます!」

「じゃあね!」


 太陽よりも明るく穏やかな表情で、先輩は僕を見つめた。

 軽く手を振り、振り返ってからまた手を振る。

 僕は魂が抜け出てしまったかのように、しばらくそこで、ぼうっ、と突っ立っていた。


         ※


 再び歩み出した時、僕の足は思わぬ方向へと自らを運んでいた。考えに熱中しすぎた脳みそからの信号を受信した結果だ。

 薄手のスラックスのポケットに両手を突っ込み、地面の石質タイルの上を行く。

 回りの歩行者にぶつからずに済んだのは奇跡と言っていい。そこそこ都市化が進んでいる昨今、人口もじわじわと増えつつある。


 サラリーマンとか、子連れのママさんとか、群れで移動する学生たちなどだ。

 彼らは怖くないのだろうか? この社会や世の中というものが。

 精神安定剤がなくても平気なんだろうか。なんだかとても変な気分。


 それはともあれ。

 問題は、僕自身が今日の外出、というかリハビリがてらの散歩の目的地を決めていなかったことだ。

 たかが散歩、疲れたら帰ればいいだけ。しかし、そんな単純な事実に至った時、僕はもう後引きならない状況に陥っていた。


「おい」

「……」

「おいってば」

「……」

「てめえだよ、この野郎!」


 背後から怒号を浴びせられ、僕は肩を竦めた。さっきからうるさいな、と思っていたが、それが僕を呼びつけるために発せられている叫び声だったとは。


 はっとして、自分の周囲を見渡す。――どこだ、ここ?

 まったく知らない土地だ。こんなに狭くて暗い路地、見たことがない。


 いや待てよ。そう遠くには来ていないな。

 壁面に、うちの近所の心療内科の看板が貼りつけられている。僕が通っているクリニックとは違うけれど、大学からそう離れていなかったはずだ。

 折り返して五〇〇メートル先……? やっぱりこの路地は、とりわけ遠くにあるものではないらしい。


 どうして近所にこんな場所があるのに、その記憶がないのだろう。いや、記憶はあっても考えを詰め込みすぎて気づかなかったのかもしれない。


 いずれにせよ、自分が望ましくない場所に踏み込んでしまったことは確かだ。嫌な寒気が背後から迫ってくる。そんな簡単な事実に、僕は全く気づかなかった。

 いや、気づけなかった、と言うべきか。相手は飽くまで堂々としている。足音からして二人組。殺意はないようだが、相当キレている。拳をパキポキ鳴らしているのは聞こえてくるし。

 

 僕は今、何らかのトラブルに巻き込まれ、攻撃されそうになっている。

 それも、相手はこの裏通りに入る路地の出入口側から迫ってきている。

 前に進めば何があるか分かったものではないし、後ろに進んでも正体不明の敵に襲われる。


 僕は無意識のうちに戦闘体勢に入っていた。十年間のブランクがあったためか、さっと顔の高さに拳を持ち上げるのに丸二秒はかかった。


 こういう時は――明るい方向へ。妨害勢力との戦闘は可能な限り回避。

 というわけで、僕はぐるり、と足首を捻るようにして踵を返し、『妨害勢力』を視界の中央に捕捉した。


 若い男が二人。片方が長身痩躯で、もう片方は短足の肥満体型。二人共似たようなパーカーを羽織り、ガムをくちゃくちゃ鳴らしながら、悠々と迫ってくる。

 僕は二人の間をすり抜けるようにして、猛ダッシュでここから脱出するつもりだった。


 どん、と思いっきりアスファルトを踏みしめ、一瞬で加速。さっきのボクシングの構えを解除し、必要なら鉄拳も使えるよう、腕は振らずに腰元へ引いておく。そして二人の中間地点、さらにその中心めがけてさらに足に力を込めて――!


 転んだ。

 それはそれは見事に転んだ。

 なんのことはない、痩せ気味の不良に爪先を引っかけられたのだ。


「うあ!?」


 問題は、そんな簡単な引っかけに自ら飛び込んでしまったこと。流石に十年のブランクがあっては、瞬発力も回避能力も落ちて当然か。


「てめえ……。ここがどこだか分かってんのか? あぁ?」

「ここが、どこかって……?」


 いや、知らないよ。そう答えてやれれば、さぞすっきりしたことだろう。本音だし。

 だが、今のままでは僕はどんな扱いを受けるか分からない。僕は素直に首を横に振った。


「バーカ、鬼羅鬼羅通りだよ。聞いたことがねえとは言わせねえぜ?」


 短足が、僕の肩に軽く蹴りを入れながら模範解答を述べた。

 と同時に合点がいった。ここは確かに鬼羅鬼羅通り――悪名高き不良たちのたまり場なのだと。


 そういえば、と僕は考えを巡らせる。そんな地名があって奇妙に思ったことが確かにあった。

 鬼羅鬼羅通りというのは、仇名や単なる自称ではない。この街の地図に掲載されている、きちんとした名称なのだ。聞いたところによれば、その歴史は室町時代くらいにまで遡るとか。


歴代の地図製作者の正気を疑いたくもなるが、現代の測量技術を有する国土地理院が認めているのだから仕方がない。


 だが実際のところ、この通りはキラキラとはしていなかった。両脇を雑居ビルに挟まれ、煤だか灰だかで両側面が汚らしくなっている。

 日光がまともに差すような角度でもないのだろう。暗くてじめじめした、黒くて暗い壁面が続いている。


 足元、頭上、または壁面に貼りつくようにして、大小様々な金属のパイプが走っている。

 これもやはり、外敵の存在を意識して、ということだろうか。一気に突入されることを防いでいるのか。


 僕があたりを眺めているうちに、脇腹に激痛が走った。思わず悲鳴を上げてしまう。やはり身体が鈍っている。格段にだ。

 しかし、不良たちは僕を嘲笑するより、僕に怒りをぶつける方を選んだ。


「いいか坊ちゃん? 俺たちは社会のはぐれものだ。親に捨てられ、施設にぶち込まれ、親戚をたらい回しにされた、何の役にも立たねえ畜生だ。ここは――鬼羅鬼羅通りは、そんな俺たちの最後の砦なんだ」

「えっ……」


 突然の、しかも初対面でのカミングアウトに、僕は呆気に取られた。

 今語っていたのは長身の方で、次にずいっと前に出たのは短足の方。


「お前みたいな出来のいいお坊ちゃんには、絶対に分からねえだろうなあ……。家族に蔑ろにされて、口減らしにされて、食い物を追いかけてたらぶん殴られて、拘置所にぶち込まれて……! そんな俺たちを救ってくれたのが――」

「待て。それ以上言うな。上層部の面が割れちまうかもしれねえ」

「あ、ああ、そうだな」


 ふーーーっ、と荒い息をついて、短足は引き下がった。

 しかし、彼を止めた長身の不良は何を言おうとしたんだろう? 上層部って言ったようだけど、不良たちにも階級があるのだろうか。


「で、どうするんだ、コイツ?」


 僕を指さす短足の横で、長身は腰に腕を遣った。


「ふむ……。お偉方の手を煩わせたくはねえからな。気絶させて、暗くなったらそのへんのゴミ箱にでも突っ込むか」

「そうだな。悪いな、学生さんよ。気絶するまでボロボロになってもらうぜ」


 そう言う二人の前で、僕はゆっくりと立ち上がった。

 膝はガクガク震えてばかりで、壁に手をつかなければ全身を支えられない。

 とても勇敢な姿には見えなかったはずだ。でも、これだけはきっぱり言っておかなければ。


「僕だって……ぼ、僕だって……。僕だってニートだよ!!」


 その一言を聞いた途端、不良二人は目を丸くした。僕がニートなのだと、信じられなかったのだろう。そもそも外出している時点で、ニートの定義からは離れてしまうのかもしれないけれど。


 すると長身が大股で僕に近づき、フック気味の鉄拳を僕に見舞った。


「てめえに何が分かるってんだ! こんないい服着て、頭よさそうなツラしやがって!」


 それからしばし、僕は二人の暴行に晒されることとなった。

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