44話 先輩の背中は大きい


 一区の先輩が走り始めたのを見送って、私はひとり五区のスタート地点へ向かう。五区の近くにトイレはあるようだが、私は、ここから一切水分を摂らない。


 口の中は程よい水分で覆われているし、アップした体内温度を下げたく無いってのが理由だと思う。これは、幾度も出た大会でどのコンディションだとパーフォマンスが上がるかを実験して出した経験則。


 まぁ、顧問兼監督の新木あらき先生には水分補給しろって再三言われたがタイムを見て今ではダンマリとなった。

 その新木先生は、私が高校初めての公式大会で、先輩達も大事になる大会、だから、各々が繋ぐ襷に全力をかけろ。走り抜けろ。と熱い言葉がその後も続き、私達はその言葉に触発されて『はいっ!』と声を上げた。


 それは、新木先生からの襷だったのだと思う。

 そっと、目を閉じて真っ黄色の襷を頭に浮かべた。

 襷には、先輩達と私の名前が刻み込まれている。

 油性マジックで書かれた五人の名前。

 その一番下が私。

 

 先輩達が一年間、二年間かけて作り上げた成果を私がゴールまで届けるという素敵な役目。必ずやり遂げなければならない。先輩達四人だけじゃない、監督もレギュラーになれなかった皆んなの為にも決して負けれない戦いなのだ。


 その為に私は、今日。今日まで、必死に走り続けた。


 何の為にやり始めた長距離とかを忘れて、彼女達先輩たちの想いを、努力が、無駄だったと否定されない為に、私は走り続けた。


 私は、ただ、誰かの襷をゴールという結果に届けるそんな役目なのだ。


 自分が持っている古びて湿った襷は、ポケットにしまった。

 湿っている理由も、しまった理由も、関係ない。

 

 綺麗な襷を私は、届けるだけだ。

 おでこに巻いた黄色の鉢巻を絞った。

 


 五区のスタート地点へ着くまでの間、走るルートを頭の中で思い浮かべる。

 間違ったコースを走ると、失格になるからだ。

 それに、私が先頭になった場合、後ろ姿を付いていくことができなくなるかも知れないという理由もある。……って私、一位しか見えてないのかも。


 その自信家な自分にふっと笑いが漏れる。

 

 ぼんやりと考えながら歩いていたので、危ないかと思い、視線を前へ向けると、五区の走者だろうか家族と手を握りながら応援されていた。他の走者達も恋人や家族から励ましの言葉をもらっている。


 これが、絆や愛っていうものだろうか、と思う。


 いつもは、見えない結晶や線が、ハッキリと映し出されていた。

 いつもはかけることが出来なかった言葉が、すらすらと出るのだろう。

 

 『頑張れ』

 『応援してる』


 そんな言葉は、毎日いらないのだ。

 ここ一番の勝負所で、欲しい言葉なのだ。

 

 その投げかけてくれた言葉が、その日ばかりは色濃く輝き、自分を奮い立たせる。それはまるで、ミカンの絞りで出た汁を筆で描き、熱を加えて炙ると、文字が浮かび上がるように胸が温まる色味だ。

 今まで自分が接してこられた、全部をそこに凝縮したような想いが、押し目もなく降り注ぐ。

 

 それは、私達、長距離をする者には大きく結果を左右する。


 温かい家族の言葉が、しんどくなっている自分の一歩に変わる。

 ここまで来てくれた想いが、自分の『もう少し、もう少し頑張れ、私』に変わる。

 照れくさい応援の叫びが、腕を前へと振り上げる。

 

 走る中で頭を過ぎる、自分を応援する人達の表情と応援で、私達は、駆け抜けるのだ。


 やっぱり、この空間は、素敵だな。

 そう思いながら、自分の近くを見る。


 空っぽだ。


 両親は、今頃、悠々自適に休日を謳歌しているのだと思う。

 別に家族仲が悪いって訳ではなく、ただ、無関心なんだ。

 

 ネグレクト……なんて大層な言葉で括るのではなく、お互いが干渉し合わないように生活している。

 ママは、昔からアイドルグループが好きでそのグループの応援に勤しんでいる。グッズやDVDなどを買ったり、コンサートに行ったりして。

 パパは、アニメにのめり込んでおり、一日中アニメを見ては、自分のお小遣いの範囲で色々と収集している。


 ……何でそんなに買うの? ってふたりに別々で聞いたことがあったけど、二人は笑いながら同じ答えを言った。


『応援したいから』


 その時、私は初めて、応援されていないのだと悟った。


 一度だって、私が走る所も観に来なかったし。

 高校受験も、私ひとり寒い中で挑んだ。


 県大会で優勝。全国でベスト八を取って、家に帰ってから報告したのだ。

 合格発表も、一人で見に行って、報告したのだ。


 その報告に、ふたりは『よかった』とだけ呟いた。



 なに、それ。

 もっとよろこんでよ。


 ってひとり机の上に突っ伏して泣いたのを思い出した。


 首を横に振り、ツマラナイ邪念を消し去る。

 

 視線を少し落としながら、ようやく、ハナミズキの一本道へとやってくる。

 ひらひらと宙を飛ぶハナミズキの花弁が目の前を通り抜けたので、視界を広げる。


 二、三度、車道ではなく歩道でジョギングしてみたが、気持ちの良い道だ。

 こんな中を走れるんだから、楽しまないとっ。


 晴れやかな気持ちに少し戻り、スタート地点へ向くと、今朝会った明智先輩が突っ立ていた。


 くふふ。

 そんなに私の事応援したいんですね、くふふ。


 内心で変な笑い方をする私は、置いといて。

 私は、ちょっかいをかける後輩のように背後から手を当てた。

 先輩が振り返ろうとする刹那、私は逡巡する。


 やっぱり、明智先輩大きいな。

 身長差がありすぎて、私は子どもみたいだ。

 兄が居たら、こんな感じなのかも知れない。

 

 面倒くさそうにしながら、私を応援する為に来る兄。

 きっとそれに私は、ツンツンするんだろう、な。

 あんまり、素直じゃ無いから。


 でも、それに私は嬉しくなって、走っている最中、頭の中で応援された言葉をリピートすると思う。若干頬を緩めながら。


 くふふ。

 やっぱり、あり得ない、な。


 私が、先輩を異性の対象として見るの。


 私が明智先輩に恋をする未来、なんてのは。


 くふふ。

 どうしても、先輩か兄、でしか想像できない。


 振り返ったその明智先輩は、何故かぎこちない顔をした。

 その瞬間に、ラズベリーの甘い匂いと足音が私を通り過ぎた。


「へっ?」

 振り返ろうとしたが、明智先輩は『じゅっ、じゅんび大丈夫か?』と慌てた様子で声をかけてくるので振り返れなかった。


「はっ、はい。まぁ、なんとか」

「……そっか」

「今、さっき誰かいましたよ、ね」そこで私は振り返るも人混みもあって誰がココにさっき居たのか分からなかった。


「…………」沈黙する明智先輩の口元は丸みを帯びており、晴れやかだった。


「……まぁ、いいです」私は、左手の手首につけてある腕時計を確認する。

 もうそろそろ、集合しない、と。

「じゃあ、先輩。走ってきます」頭近くで右手を軽く振って先輩を通り過ぎようとした。


「なぁ、橘っ」

「はい……どうしたんです?」

「……いや、なんでもない」

「……さっきの人が関係しているんでしょうが、まぁいいです。先輩がココにきてくれただけで嬉しいですから」

「……橘」


 多分その時の私は、笑ったのだと思う。


 初めて、自分が仲間以外の誰かの応援を貰っていることが嬉しかったから。

 先輩の落ち着かせてくれるほんのりとした笑みを頭に刻み込ませた。

 その顔を走っている時に、思い出す為に。


 自分の顔を忘れた。


「先輩たちの為に私は、走ります。駆け抜けます」ハナミズキが先輩の頭にちょんと乗っかって『可愛いな』なんて思いながら、言葉を続けた。


「だから、みててください」

「あぁ、みてる」


「見逃し厳禁ですよ?」

「橘、早すぎるから無理かもな」


「諦めるの早すぎです」

「諦めない精神の重要性を説いているのだ」


「なんですか、それ」

「ほんと、な」


 ふたりで肩を上下させていると、ハナミズキは、舞い上がった。

 まるで、私の中で初めて舞い上がった、喜びの感情を祝福しているかのように。

 明智先輩は、いつもみたいに意味ありげで少し抜けた言葉で私を勇気づけてくれた。


 だから、期待に応えるため、私は、スタートラインへと向かった。

 いつもよりスタートラインが、煌めいていた。

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