41話 泡に包まれた日々

 

「ふはっ! …………やっやっべっ、今何時だっ?!」

 机の上に置いてあったスマホは、八時一五分を指している。

 目の前には、パソコンが真っ白の画面でつきっぱなしだった。

「マジかよっ! 遅刻するじゃねぇか!」

 オレは、汚い涎が口から出て机の上に水溜りを作って眠りこけっていた。

 学生服姿で後は学校に向かうだけの状態なのが不幸中の幸いと言えるが……ティッシュをパパッと拭って拭き取り、ゴミ箱へ捨てる。パソコンを閉じるなり、鞄を持ち上げて、階段を降りていく。


 玄関で靴を履き替えていると母さんが『まだいたの!? 時間大丈夫?!』と真面目な息子に心配そうな声をあげる。

「こっから、ダッシュすれば八分で着くから大丈夫だと思う」

「そう、車や歩行者に気をつけてね?」

「あぁ、母さんこそ、仕事頑張ってな。じゃ、行ってくる」

「いってらっしゃいっ。…………あっ、かみのけ」

 最後になんかお母さんが言った気もするがオレは、玄関を閉め、全速力で走り出した。いつもよりネクタイを緩め、脇っパラに鞄を掴みながら加速する。


 もちろん、車や歩行者などには最大限警戒して。

 

 走りながら、寝ていた事に少し反省をする。

 今日は、早起きをしてパソコンと睨めっこに励んでいたんだけどな。

 いつの間にか、視界が霞んで記憶が飛んでいた。


 もう、一週間と三日しかねぇのに…………。


 頭を悩ませるのは、構わない。でも、文字を打ち出していこうと勇気づけたのに、バックスペースへ無意識に指が伸びて、世界を真っ白にさせてしまった。


 並木道を抜けて、校門をくぐると、一人の女子生徒が玄関前でぽつんと立って、コッチを見ていた。

 目が合うとオレは、視線を靴に向ける。

 こけそうな程に走ったからか、少し、白のスニーカーが燻んでいた。

 横を通り抜けようとしたら、『おはようございます。遅刻しますよ?』と遥の声が届くので、オレは薄らと微笑んで、『そうだな。おはよう』と告げる。

 

 顔を合わせない、卑怯なオレを許してくれ、と心で念じながら下駄箱で靴を脱ぎ、履き替える。


「あっ、ちょっと、ジッとして」オレは声の鳴る方へ身体を向けた。

「へっ?」間抜けな声を漏らすと同時にオレの髪の毛を柔らかな手が包み込んだ。その際に、清潔感の塊である石鹸の匂いがした。


「ちょっちょっと、何してんだよ」あの頃よりも身長が高くなったから、オレがかがまずとも、頭をぐしゃぐしゃ触れている。其の何気ない事が、あの頃から進んでいるのだな、と思う。


「寝癖ついてるんだもん。さては、寝坊したな?」

 頭が自然に前へ寄せられてしまうので、彼女の胸元へ近づく。

「まぁ……そんなとこ」そうオレが言うと、手を止めて、オレへ真正面にまんまるの眼を向ける。

「また、無理してるの?」

「……また、って」

「……してないなら、いいよ。…………はい、これでよし」オレの前髪を最後に手で整えてくれる。まるでオレの散らかった脳を整理するかのように、さっきまで耽っていた雑念がどっかへ飛んでいった。

 そこでできる彼女の無邪気な笑顔が、ヘリウムの入った風船のようにぷかぷかと雑念を空へ舞い上がらせてくれたのだと悟った。


「す、すまん」

「遅刻するよ。まぁ、私もだけど」


 オレと遥は、顔をそこで見合わせて肩をくつくつと揺らした。

 彼女の肩を揺らせた意味が、いつもこんな意味であったならな、と思いながら、階段を一緒に登っていく。


「なんで、あそこに居たんだ?」

「そりゃあ、挨拶週間だから?」

「……?」小首をかしげると、直様答えを出してくる。


「ウチの高校の学生が一人だけ来なかったから?」

「……」

「お寝坊した鈍臭い子を待ってたから?」

「」

「目を合わせずに挨拶する友人に挨拶したかったから?」


 若干ご機嫌な様子で語気をあげる彼女に、オレは何も返せなかった。

 ただ、それで良いと思った。


 彼女の声も顔も、匂いも優しさも、今だけは、浸っていたかったから。


「もうさ……目を合わせないのは、やめて欲しいな」


 その言葉がオレの胃やら心臓やらを握った。キツく。

 潤んだ瞳で、切なそうに呟く彼女に、オレは目を見て頭を下げて謝った。


「………………ごめん」


 生徒会長に言った謝罪の言葉みたいに遥にも無価値な言葉なのだろう、か。

 また熊谷先輩に言われたみたいに、切り捨てられる。そう思っていた。


「ぷっ……ダメだっ、はははっ……あぁ、もうぅおかしぃ……もう笑わせないでよ……ふふっふふっ」腹を抱えて笑い転げる遥に頭を上げて、階段の踊り場で立ち止まった。


 その意味が分からない光景にキョトンとしていると、口角を上げて目を細めた。


「いやさ、昔こうやって、謝ったなぁ〜〜って。私達が中学で色んな事してたから学校で目立って、学年主任の毒蛇に絡まれた時。偶々、通りかかった圭が深々と頭を下げたなって。丁度、踊り場だったし」


 毒蛇のように、鋭い目つきと生徒に塒を巻くような些細な間違えにすら粘着する事から、オレ達の学年では、毒蛇と呼ばれていた学年主任のおばちゃん先生がいた。

 まぁ、その粘着された時の嫌味さと面倒さは折り紙付きで、全身に毒が回るまで逃さないのだ。要するに、反省の色を浮かべるまで離さない。


 そういえば、そんな面倒事もあったな、なんて思い出して『あった、あった』と声に出して笑う。


「毒蛇、遥の事、不純異性交友でみっともないって生徒の前でマシンガントーク…… ならぬマシンガンスピークしてたからな」

「そこに来て、異性である圭が頭を下げるもんだから、圭まで巻き添えになって、二十分拘束されてて、『バカだな〜』って思ったよ」

「まぁ、あの時は、オレも頭が回ってなかったからな」

「……なんで、頭回ってなかったの?」

「……」


 言えるかよ、お前がしょんぼりしてた顔を見たくなかったから、何も考えずに謝ったなんて。



「ふっ、昔の視界が鬼狭くなる圭は、可愛かったけどね?」

 鬼狭いってなんだよ。相変わらず、友人状態の遥は、言葉が少し彼奴らの言葉になる時がある。


「うっせ」


 顔を横に背けて、また一緒に階段を歩く。


 こんな時間でよかった。

 こんな時間が欲しかった。


 煌めく太陽光が真っ白の階段を照らし上げ、泡のように綺麗な光がオレ達を包み込む。その泡は、昔のおとぎ話のような笑いに満ち溢れた世界を映し出していた。


 そんな当たり前の日常が好きだった。

 彼女の横にオレが居たかった。

 謝る時でさえ、一緒に謝りたかった。

 一緒な感情も、後悔も、経験も、共有したかった。

 彼女と同じ出来事を胸に刻みたかった。

 

 この恋が、初恋だと、知っていたから。


 この恋が、最後になれば良いなと思っていたから。


 

「おーい、そこのカップル、遅刻するぞ〜」若桜先生がオレ達二年のフロアの踊り場から見下ろして、呼びかける。


「す、すみません」軽く頭を下げながら遥が階段を上りあげる。


「あっ」

 その遠ざかる背中を見て少しだけ声が漏れた。ほんと小さな声。


 それを聞こえてか、若桜先生が表情を微かに緩めた。


「じゃあ、圭、待たね」

「ぁあ、また」軽く手を振って先を行く友人をオレは見送った。


 オレも階段を上り上げて、若桜先生に頭を下げる。

「ねぇ少し聞いて良い?」

「はい……?」上の踊り場に出たオレは、先生に顔を向けて疑問符を浮かべた。


「二股かけてるの? それとも三角関係?」

 先生から聞こえるべきでないセリフが聞こえたので、眉間を右指で揉みながら、目を見据えた。寝過ぎてか、頭痛もする。

「いっ今、なんて言いました?」

 若桜先生は、顔を左右に揺らして答えた。


「ううん、いいわ。国語教員として自分の考えた思考を大事にする立場なのに、真っ先に答えを聞くのはダメよね」


 そう謎すぎる言葉をボソリと呟いては廊下を歩き始めたので、呆気に取られながら自分の教室へと向かった。

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