episode2

32話 人生の半分を捧げる

 人生は、約七十万時間しかないらしい。


 男性の平均年齢が八十歳というので、その年齢を参考に今ほど計算してみた。

 概ね、自分が死ぬ日もそこに近いのだろうと思う。


 勿論、人生は何が起こるか分からない。

 明日急に息を引き取るかもしれないし、ウチの婆ちゃんみたいに大往生だいおうじょうを迎えるかもしれない。


 ただ、そんな事は分かるはずもない。


 だから、知る必要がある。


 人生で使える時間というのを。七十万時間だった。


 なぜ、こんな湿っぽい事を考えてしまったかというと、手元にある一冊の本がキッカケだった。少し埃っぽくて本棚から引っこ抜いた時若干咽せたほどに読みたくないタイトルである。


『ジャネーの法則』


 そこには、年を重ねるにつれて時間の経過は体感として早くなるという内容だった。時間は誰しもが平等にある、それ自体に変わりない。


 アインシュタインは、相対性理論等を後々に語り継がれる『奇跡の年』と呼ばれた1905年に発表した。

 重力が大きくなればなるほど、時間の進みが遅くなる。加速す……光速に近づけば、時間の進みが遅くなる。平たく言うと……大雑把に言うとこんな理屈だと思う。

 まぁ、文系のオレにはこのぐらいの理解しかできない……。理系の奴らすげぇな。


 であれば、地球から離れず同じ重力を毎日受けているオレたちには、極々普通の速さで生きるオレたちには、関係ない話である。


 時間とは人間が逃れられない、逆らえない感覚。

 色のない時間を我々は体の一部で感じ取ることはできなく、時計や太陽・季節の移り変わりでそれを把握しているに過ぎない。

 時間という概念は、我々人間が作ったのだ。


 しんと静まり返った誰もいない図書室の一席にいたオレは、頬杖をやめて古びた本をぱたんと閉じた。表紙は傷んでおり、焦茶色に染まっている。

 長細い木目調のテーブル、その右側で熱を帯びていた一角を見る。

 窓の外側から内側にかけて、眠気を誘う橙色の夕日が差し込んでいた。

 帰りなさいと言っているのだ。


 オレは、本能からだろうか、のっそりと立ち上がり本を元へ戻そうとする。


 綺麗に敷き詰められた本棚に一箇所穴があった。自分が取り出したのである。

 そこへ埋める前に再度表紙を見た。


『ジャネーの法則』


 帰る前にもう一度見ようと、一節が書かれた箇所を栞紐しおりひもで挟んでいた。栞紐を軽く引っ張ってページを開ける。鮮やかな黄色の栞紐がページに挟まれており、真っ白のコンクリートの間で生きる花みたいだなと思いつつ、文字に目を遣る。


『体感では、十九歳で人生の半分が終わる』


 やはり、見返してもそう書いてある。この本を長々と読んで理解した。

 両親や時々会う親戚が一年過ぎるのがあっという間だったと毎年のように口遊んでおり、そうなのだろうなと思う。


 主観的な時間は、年齢を重ねるにつれて早まるのだ。


 だが、受け止めたくない恐怖みたいなものがあった。


 オレは、今、十六歳。


 八十歳まで生きると考えて、残り二十四年で人生の折り返し地点だと思っていた。

 だけど、本当は、残り三年しかないのだ。


 高校生活が終われば、もうすぐ半分なのだ。


 そうと知れば、今の永遠に続くかと思うようなこの時間を大切に生きようと思うのが自然なのだろう。多くの大人が『今の内に大いに青春を謳歌しろ!』とご高説を述べてきそうである。


 だとしても、


 この三年を犠牲にしても得ることができる半生もあるんだ。

 その三年に十数年の重みがあろうとも。


 多くの成功者が幼少期に大量の時間を費やして、残りの半生で後世に残る栄誉を生み出したように、オレにも遣るべきことがある。


 だから、


 パタンと本を閉じ、その一節を必要とする者の為に栞紐をそのままにしておいた。

 これを見る学生には、存分に有効活用してほしいと思う。


 人生は、約七十万時間しかないのだから。

 強い意志を持ち、何を代償にするかを今の内から見定めた方が効率的だ。


 学生とは、残りの半分をどういう風に過ごすかの指針を決める大事な時期なのだから。

 オレは、図書室の先生に頭を下げて通り過ぎた。


 高校を卒業する頃には、死のゴールテープを半分切ってしまう……やはり、早々にケリをつけないとな。




 図書室のドアをゆっくり閉めると、丁度十八時を知らせるチャイムがキーンコーンカーコンと校内を響かせ始めた。

 

 家路に向かうため、往来が皆無の校内をトボトボと歩く。

 であるからして、隣には、当然誰もいない。


 今日は、五月の中旬という事で中間テストの最終日だった。

 午前中で筆記試験が終わり、午後は各自帰宅となる。部活動がある生徒も今日は全部活動須く休みで、今頃学生は英気を養っているだろう。


 文芸部も例外ではなく、二階堂や暁さんも一緒に帰っていった。

 聞いた話によると、暁さんの兄貴の退院が今日の夕方のようで二階堂は律儀にも石鹸とタオルを退院祝いとして渡すのだとか。


 オレは、あの日以降ちょくちょくLONEで連絡を取ってくるので、体調が良いのを知っていた。まぁ、心身ともに無事に良くなったのは、一重ひとえに暁さんの献身さ故だろうと伝えた。


 すると、自分の妹の可愛過ぎるエピソード集をLONEで伝えてくるので、日課かのような鼻血祭りと化してしまった。鼻血がティッシュを染め上げ、ゴミ箱へ大量に捨てられているので、母さんにグラビア本の存在がバレそうで心配したが……杞憂に終わる事を願おう。鼻血が出るのは漫画の中のみだと、解釈して欲しいものだ。


 静寂に包まれた校内を出て、きもちほどだが生暖かい空の下を帰宅する。


 ここに来るまで誰一人会わなかった。


 だからだろうか、時が進まないミニチュアの世界に入ってしまったのではと錯覚してしまいそうになる。いや、展示物や周辺環境が緻密に作り上げられたジオラマの方が正しいかも知れない。


 その中にオレが巨人に襟を掴まれて、ぽとんと落とされたように、眼前に広がる光景は色彩豊かで何時間でも見て回れそうなほどである。空色の大気を怪しげな薄紫色が食べようとしている最中だ。敷地内の外枠を綺麗に建てられた木々が鬱蒼うっそうとし、さやさやと揺れている。

 オレは、城・遺産等の模型にすこぶる興味があるわけではないが、隅から隅まで見るタイプなのだ。


 そんな人影もない世界を一人で堪能していく。

 車のエンジン音が全くなく、小鳥達のさえずりさえ聞こえない。


 そんな美術館巡りのような境地に人知れず浸っていたオレの背後に、慌てたような足音がした。美術館の監視員に『すみません、お静かに』と小声で注意されるだろう。


 余韻とかが足音に吸い込まれて、無になってしまったので、仏頂面で振り返った。その音を鳴らしていた絶世の少女はオレが振り返るなり、コチラの顔へ向けて特徴的な笑みを浮かべる。

 今にも『へへへぇっへへぇ』と聞こえきそうだ。


 一見すれば照れ隠しの笑いに聞こえるが、粘土みたいに歪んだ丸い口元を見ればオレの感傷に浸っていたムードをぶち壊して喜ぶ、子供そのものだ。陰湿な嫌がらせをするところからしてマセたガキである。


 粘土で精巧に造られたジオラマを子供が握りつぶしながら、壊し回るようにすら見える。叫び声は、言わずもがな『へへへぇっへへぇ』だ。


「世界を精密に再現したジオラマに怪獣が現れる。その非現実さに人は胸を躍らせるのさ。へへへぇっへへぇ」首を少し縦に揺らして笑う。怪獣がそこにいた。


「怪獣さん。謎の宇宙人に殴られて、帰ってくださいよ」

「カップ麺が作れる三分しか戦えない雑魚に負けるかっ!」戦闘体制に入ったのか、身構えてくる。今にも尻尾でオレの首根っこを掴んできそうだ。

「……毎度、三分で負ける癖に」ボソッと呟いて、肩を竦める。


「怪獣の力で、一発で壊してもいいのかい? この世界を」

 脱力した身体で真顔になり、そう問いかけてくる。


「……ジオラマを造ってくれてありがとうございます!! 怪獣さん!」怪獣劇を作る為にジオラマは人間の手で造られているのだ。


 本気で、この神様が筆を投げそうな勢いを瞳に宿していたので、速攻で深々と頭を下げた。わかりきっているが、ジオラマとは、比喩でこの世界を指している。

 だから、オレは、この世界を作り上げた本人へ謝る。


 彼女の考え次第で、この世界に一寸も許さない闇夜が訪れる得るのだ。


 彼女は、神様であり、オレの作者だ。

 こんなポンコツそうなのに……


 足元に見えた彼女の影の濃さが増した気がした。


 ……ってのは冗談で、賢くて、可憐で、ユーモア溢れる作者なのだ。


「顔をあげぇい!」

 その声と同時に顔を上げると、メガネが少しズレたのでブリッジに人差し指を当てて元へ戻す。

 

 バサっと黒髪を右手で払うと、見計ったように風光る。

 その首元に涼しい風を感じると同時に、目の前の神様の髪の毛がさやさやと靡いた。


 綺麗な黒髪が、風の影響か、薄紫色の陽光からだろうか、芸術品的な美しさを放っていた。それは、夕暮れの水面を走る光と流水が混じり合ったのような色気さえ含んでいた。


「帰ろっか、圭吾けいご


 オレの横に寄ってきて、耳元で囁く。

 そんな事をされては、先程までの横行さもチャラになってしまうほどに蠱惑的だった。頬の火照りを感じる。


「ざーこ」

 妖艶な笑みを浮かべて、オレの男心が陥落したのを察知し、追撃してきた。


 前言撤回。許すまじ。


 と思いつつ、その楽しげに前を歩く怪獣の後を渋々ついて行った。

 怪獣は、愉快そうに肩を揺らしながらいつもの独特な嗤いを轟かせる。


 その図は、怪獣に屈服され、やり返すことができない謎の宇宙人という構図であった。

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