第24話 扉。

 二階堂さんが家へ来てから体感、三時間が経った。


 明らかに、窓の外が暗くなり、夜の帳が下っている。


 流石に、私は喉が我慢の限界でのそのそと立ち上がり、足音を立てずに近づく。もう、多分、帰ってるよね。音が軋まないので、そう思った。


 だけど、もしいた場合、開けて今の汚い私をみられるのはごめんだった。


 コンコンとノックをしてみる。


 そしたら、間を少し開けて、ドアが開き、左手がペットボトルをヒョイっと床に置いて、直ぐに閉じた。


 私は、それを持って直ぐにベットへ飛び戻った。

 多分、怯えた猫みたいに颯爽と逃げた。


「ごめん、緩くなってるかも」


「……」卑怯な私は、ぐびぐびと一気に喉へ流し込んだ。

 息が切れてしまうほどに飲んだ。

 口元からオレンジの香りが垂れる。

 コンビニの前で笑いながら飲んだ匂いだ。

 彼に『飲みます? 美味しいですよ?』ってペットボトルを差し出した時の苦笑いした彼の声が聞こえた。


 あぁ、ダメだ。私。ペットボトルを足下に置いた。


 近寄った、彼に。


 ドアに両手をついて、勢いを殺し、ドアノブに手を掛けようとするも、その前に……と思った。


「……あ……あの、二階堂さん」ドアに凭れ掛かかって座り込んだ。

 多分、背中がほんのりと温かいのは彼がいるからだろうね。


「………うん」


「私は、優しくなくて汚い女の子なんです……それに」

「違うよ、暁さんは、そんな子じゃない」


 私が紡ごうとした自己憐憫を一刀両断してくる。頭の辺りが外からゴロッと音がする。頭の付近に温もりが宿る。


「理想ですよ……二階堂さんが祀りたてた、偽物の私です」

「僕は、暁さんをお姫様や天使様なんて思った事ないよ。それこそ、暁さん、自分に酔ってるんじゃない?」語気に微笑を含ませて話す。私は、ほんのりと頬に熱が篭るのを感じた。


「……酔ってない」

「酔ってるから、優しくないだの、汚いだの言うんだよ。等しく人間てのは、優しくなくて、汚いんだから。僕だって、暁さんと会うまでは他人の汚い所に目が入っては、人の醜さに辟易してた」性悪説が彼の根本にあるのだろうか……ってえっ?


「会うまで……?」引っ掛かった言葉が口に出る。

「うん……なんてこの人は他人に理解がある人なんだろうって思った」


「……」初めて本音を晒してくれた。私がそんな風に見えてたって事?


「話す内に、暁さんが本を結構読むって聞いて、それも小説をね。それか、って思った」

「小説?」


「うん……僕は、高校受験の為に現代文対策で小説を読む事はあっても、どこか機械的に文章を追ってたんだ。登場人物に感情移入もせず、どんなに暗く底へ落ちても、興味がなかった」


「……」ハッとした。自分の今の状況を間接的に言っているんだ。


「でも、暁さんは違った。子供の頃から大量に本を読んで、そのキャラクターに寄り添って、色んな事に考えを巡らせているのを知って、だからか、と理解したんだ」


「……?」


「人の弱さに触れて、人は強くなるんだって、人は優しくなれるんだって」

 弱さに触れる? 優しくなれる?


「暁さんが感受性豊かで誰よりも本を読んで感じた、その慈しみが今の暁さんを作っているんだよ。僕は、人と関わりもせず、本も読まなかった。周りの弱さを傍観し、触れることをせずにいたから、こんな僕が出来上がった。


 だから、僕は、暁さんみたいに物語の登場人物の弱さに触れて、君と共に過ごして、少しずつ……いや、ほんのりだけど、僕は、優しくなっているんだと思う。だからさ、だからさ、暁さんは僕の恩人であり、大事な人なんだ」


 いつの間にか、お姉さん座りからが体育座りになっていた。突き出した膝を抱え、私は、おでこをつけて、今巻き上がった感情と想いを抑える為に下を向いた。


 上を向くと、君の元へこの激情を伝えてしまうから。


 その言葉を終えると、二階堂さんは、黙った。

 多分、恥ずかしくて悶えながら頬を赤らめてるんだと思う。

 その様子を見ようと思えば思えるのに、できずにいた。


 小説の一節が読み思えるくらいの時間が経つぐらいで私から言葉にした。


「小説は、弱さに触れれる媒体なのですね」そんな風に本を読んだ事はなかった。五年間、病院で過ごした灰色の日々は、乾いていなかったのだ。


「うん。悲惨な事件も過酷な生い立ちも、逃げられない現実も、踠き苦む世界に翻弄される登場人物を見て理解して、解釈して、文章から滲み出る辛さと弱さを感じ取って……読者は現実に目を向ける」


 二階堂さんが作っている作品を思い出す。


「それは、小説よりも辛いかもしれない楽しい世界かもしれない。でも、世の中には、弱い人も悲しく苦しんでいる人もいる。そう感じて読者はちょっぴり人に優しくなり、強くなるんだ」


「で……も、二階堂さんの作品みたく優しさや強さを間違った方向へ使ってしまう人もいますよね?」


 彼の作品の犯人も最愛の人を亡くして復讐のため、殺人に手を染めてしまった。それは、彼が彼女と接する中でできた綺麗な感情が歪み、起きた凄惨な事件だ。弱さに触れても人は、過ちをしてしまう。


 寧ろ、一人の人に過剰なまでの優しさを注ぎ込むとその方向性が狂気的な結果を齎してしまうのだろう。


「だから、僕たちが小説を書くんだ」

「あっ………」そうか、そうなんだ。

 だから、二階堂さんは、残虐な連続殺人を書いたんだ。


「弱さに触れ、成長できた読者に向けて、歩んではいけない道を見せる。それも、きっと大事な事。まぁ、僕の小説は素人が書き上げた稚拙なモノだろうけどね」


「………私よりも、小説を理解しているのですね」


「ううん、それは暁さんにとって当たり前だったんでしょ。ただ、僕は言語化しただけ」

「……」


「此処に来たのは僕がきっと……って思ったから」


 私は、その瞬間、扉を開けた。

 衝動的な行動ではなく、彼に逢いたかったから。

 近くに居るはずなのに側で笑っていたかったから。


「うわぁっ!」


 二階堂さんは、ドアが引かれて頭を床に軽く打ちそうになったので、私は咄嗟に頭を両手でホールドすると、振り子みたいに勢いよく前に体が出る。


 彼の顔を私の顔が覆い被さって、瞳が交叉こうさする。

 その時に生まれた表情は、きっと優しくなる時のエキスみたいな無邪気な微笑みだった。


「ありがとう、二階堂さん」多分、お姫様でも無ければ、天使様でもない、普通の女の子の笑顔だったのだと思う。


「やっぱその顔の方が暁さんには似合うよ」


 お互いの顔がお互いの顔で影を作ったから、紅色は表れなかった。


 だけど、色が付いた事はお互いが一番理解していた。


 激しく揺れる胸の高鳴りが彼に聞こえてもいいや、と観念してしまったから。



『人間に優しさや強さなんて無い。あるのは、脆弱ぜいじゃくで不安定に様変わりする心しかない。自分に白羽の矢が立たないように周りへ懐柔し、周囲だけでも良くしようという争いの火種を産みかねない浅はかな欲望……独善的な野望の塊こそ人間の本質だよ』


 

 禍々しい一節が何処かから聞こえた。


 人間の弱さに取り憑かれた女の人の声。


 知っているような声の気がしたけど、多分違う。


 一元的にしか物事を見ずに、光を自分から消し去った悲しい声だったから。


『……』

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