ほらぁ

あおいそこの

導入


「なぁ!夏といえば!?」

大声で聞いてきた元気はつらつな笑顔が魅力的なフウはハヤミの中学校から高校と同じ腐れ縁。今では大学まで一緒の幼なじみみたいなもの。腹を空かせた大学生が集まるカフェテリアでの会話だった。

「えー、海でしょ。プール、花火、俺は彼女」

「うぜぇ」

「ウケる」

「違うだろ、もっと。あるだろ」

「はぁー?知らねぇよ」

「き・も・だ・め・し」

「言い方がうざい、却下」

「さてはミヤ怖いんだなぁ!?」

「違ぇよ!」

ミヤ、とフウが呼んだ相手はハヤミ。ハヤミがフウ、と呼んだ相手はフウ。ハヤミは名字みたいだが下の名前。フウも同じく下の名前。しかしカエデが本名。フウはカタカナと漢字が(というか文字全般)が苦手らしくふりがながふってあるカタカナ表記の名前をハヤミではなく、ミヤハ、と読んだらしい。そこからハヤミの名前はミヤになった。

他の同級生や友達、知り合いはミヤではなく、ハヤミとちゃんと呼ぶ。フウという呼び方が定着しているのは中学校の時に女の子かと思っていたら疑いようがないまでに男で強い印象を初対面で喰らわされたからだ。紛らわしいな、と心の中で思っていたしフウも女みたいでやだ、とよく言っているからフウと呼べと謎の上から目線でよく言われているのだった。

「なに騒いでんの?」

「ハネコじゃん、乙~」

「ハネコじゃねよ。ハネで止まればいいんだよ」

「漢字だったら矛盾だね」

「ふっ、そうだな。ハヤミ。それで何の話?俺が入っても大丈夫なやつ?」

「もっちろん!ハネコも来るだろ?肝試しするってなったら」

「当たり前だろ。ホラー映画で表情筋動かさな過ぎて一時期は口が悪いアンドロイドとも呼ばれていた俺だぞ?」

「誰が呼んでたんだよ」

「俺だな」

ハネはフウと最初に友達になり、それの繋がりでハヤミまで仲良くなった。よく分からない出会いと本人たちは言っている。

ハネの主張があって、フウがツッコミを入れて、それをうどんをすすりながら見ていたハヤミがツボに入ってうどんを吐き出すという汚い芸が完成した。フウやハネにひとしきり汚ぇな、と言われて傷ついたふりをすればごめんごめん、と笑いながら謝られた。よくあることだ。

「男三人はムサいな」

「じゃあハネコは女の子連れてこれるわけ?」

「無理だろ。ハネは女の子枠で女子も見てるぞ」

「ふざけんな。あるモンはあるわ」

「ハネコの場合童貞捨てるよりケツ掘られそうで怖い」

「はぁん?お前のケツ掘ってやろうか、このクソガキ」

「キャーけだもの!」

フウが自分の体に腕を巻き付けて甲高い悲鳴を上げても誰にもなにも言われないくらいカフェテリアはにぎわっている。同じうどんを頼んでいる人を見てちょっとした運命を感じたハヤミ。でも顔が好きではなかった。それに男だった。掘る趣味も掘られる趣味もないハヤミは意識をうどんに向けた。

フウや、ハヤミが言っている抱きたいはもちろん本気ではない。その疑惑浮上のハネはこの世の罵詈雑言を煮詰めたくらい口が悪いが、ものすごくに可愛い顔をしている。同じ学部でレポートのことで何度か関わりがあった女子は話したことがないハネのことを子猫のように見えていると言っていた。それを聞いたハヤミとフウは腹がつるくらい笑った。

子猫なわけがなかった。ライオンみたいなものだ。力強いし、酒豪だし。口は悪いし、男の名誉もまぁデカい。ただピュアなところはあるようで未だ経験はゼロらしい。女子とも話すのが苦手だと言っていた。そういうところが子猫と言えばそうなのかもしれない。あと単純な話、身長が低かった。

「んでさ、誰誘う?俺女は呼べない。ハヤミは?彼女連れて来いよ」

「さっき堂々と俺は彼女とか言っておきながらなんですが今浮気疑惑かかってるので嫌です。ガチ別れ検討中」

「マジ?あんなに仲良かったのに?」

「んー、アイツね、いい子だし、超タイプなんだけどちょっとビッチ癖があるっぽいんよね。決定的な証拠はないけどサークルで噂がまーまー立ってて。正直別れたい」

「すぐ冷めるもんなーそういう文言聞いただけで。で、ミヤ自身は浮気一切しない。優良物件かは怪しいよねー」

「失礼な奴だな」

ハヤミは嘘を吐かない。最近一緒にいて全く面白くないと思っていた。そう感じたというだけでハヤミが単純なのか、人間という生物の性なのかは謎だが相手への好意の総量が減っていく。最初の方はあんなに…って比べてしまうのが原因でもある。そう思っている時でもちょっといいことがあれば簡単に手の平返して愛し合っちゃうのは間違いなくハヤミだから、ではなく人間の性だ。

「あ、朗報でーす。俺の知り合いに声かけたら面白そうって行きてえって奴が2人」

「いいじゃんいいじゃん!車で行くべ?」

「免許持ちそこまでいないよねな。俺は持ってるけど、フウは持ってないでしょ?」

「俺様は免許を取らない方がいいと言われてもはや伝説になりそうな子だからね。マニュアル全部覚えてるのに」

「そっちの方が珍しいだろ。時代はオートマ。2人はお前らも知ってると思う。ユウキとヒナ。ヒナタだけど。ユウキは確か免許持ってる。ヒナは今年の夏取りたいとか、言ってたな」

「よっしゃー!3人もいればなんとかなるよね!ミヤと、フウと、ユウキくん。運転おなしゃーす!!」

「ハンドルの回し方から覚え始めた方がいいよ。フウは」

「てへぺろ?」

「きっしょ」

「きっしょ」

ハヤミのきっしょと、ハネのきっしょが綺麗にハモった。

食べ終わったうどんの器が冷め始めてきた。

「ヒナタって俺あんまり覚えてないんだけど」

「えー!ミヤと飲んだことある子だよー!?ヒナタくん!」

「俺が弱いの忘れたか」

「あ、そうだった。合コン行ってつまんなかった時に男だけの二次会やろって言った時にいた子。覚えてない?」

「あー、うっすらあるわ。めっちゃ長身のイケメン?」

ハヤミ脳内に浮かんだヒナタという男の像は神様が己の性癖全開で作ったんじゃないかと思うくらいの美形で、長身。薄い記憶の中では声までかっこよかった。それに学部がめちゃくちゃ頭いいところだった気がする。

「そうそう。ハネコにガチ恋してる子ー」

「いらん情報やめろ。俺は男に興味はねえ」

「しょっぱな肝試しで大丈夫なんかな」

「ユウキはホラー映画見てもビクともしない。ヒナはどうか分かんねえけど女と一緒にどっかのお化け屋敷行った時は怖くなさ過ぎて拍子抜けしたって言ってたな」

「おー大丈夫そうじゃん。俺さっそくよさそうな所探すね!」

肝試し、つまりはどういうところをカエデは探すのだろうと考えていた。

「心スポってこと?」

「まあそうじゃない?怖い噂がある旅館とかだったら別だけど。そんなのわざわざ公表するとも思えないし。YouTuberとかしか泊まれなそうじゃない?そんなことないのかもしれないけど」

「確かにな。夏の旅行ってクチになってるから泊まりがいい、俺」

「俺もそのつもりで探すよー車で行ける範囲で避暑地みたいなところがいいよね。温泉もあったら嬉しいけど夏だし」

「温泉は年中楽しめるから。是非温泉があるところにしよう!フウ!」

温泉好きのハヤミとしてはいつでもどこでも温泉に入っていたい。心霊スポットで無駄にひやひやして固まった体を宿の温泉でほぐす。素晴らしいプランだと内心ではしゃいでいた。その未来が脳内で確定したのフウが見つけてくる場所はいつもはずれがないからだ。スマホに触っている時間が長いだけあるな、と分かりながらも素で驚くリサーチ能力。

「あっ、こことか良さそう!」

「どこ?グループ作ったから後でいろんな情報送っといて」

「りょーかい!んっとね、ベタだけどトンネル。話?伝説?元ネタ?としては山にそれを掘る時、近くの村の人たちがすごい反対したんだって。神様伝説があるような神聖な山だからしいんだけど。村の人たちが全員、どのくらい反対しているか分からせてやる!って死んじゃったんだとか。その怨念が残ってるとかなんとか。近くの旅館もちょっといわくつきらしくて、温泉の効能は確かだし、めっちゃ評判いいけど明らかに泊まりに来てる感じじゃない座敷童が見えたりした人もいるとか」

「なんて名前?」

「えっと、咢珠(おどろだま)、咢珠温泉としての方が有名だね。シーズンかは分かんないけどあんまり混んでる印象もないかなー。知る人ぞ知るって感じ」

「いいじゃん!俺は賛成!」

「俺も。ヒナタとユウキも賛成だって」

「連絡はっや」

「あとは日程だな。夏とはいえど有名な温泉旅館なら予約が埋まるかもしれないからさ。俺はお盆の期間は休む役立たずバイトだから基本いつでもいいよ」

「俺はラッシュ避けるために前か後にばあちゃんの家帰る。いとこたちに挨拶しろって母さんがうるせえんだよな」

「あんま用事はないけど、ないわ!」

「言うと思った」

「ヒナタくんと、ユウキくんは用事どうだろうね。近いうちにみんなで集まってなんかしようよ!予定決めるのも合わせて」

「そうだな。あ、俺今日バイトだった!ごめん、行ってくる!」

「いってらっしゃーい」

「シフト調節しろよー」

「分かった!」

綺麗さっぱり抜けていた用事をスマホのカレンダーを見て思い出し、大学から近いところを選んだ自分を褒め称えたハヤミ。大学の東門から出て歩いて十分、走ったら四、五分ってところのファミレス。店長は嫌味だけど、ここら辺の求人の中では一番時給がよさそうだったから選んだ。高校生の時に飲食店の経験あり、って言ったら即日採用されるくらい人員不足なんだろうな、という感想を毎日抱えるがそこまで忙しくない。

仕事内容はもう全て頭に入っているから適度にサボる方法も覚えている。楽しいことが待っている分忍耐力は強くなっていくばかり。

「ハヤミくん、時間ぴったり、だね」

嫌味な店長。今日の苦言に関しては完全にハヤミの不注意なので素直にすんません、と言う。

「社会人としての自覚」だの。「信用が」どうのこうの。「必ず改善しなければいけない」とか。

言われていることは理解しているし、一回くらいいいじゃないか、が社会で通用しないことも分かっている。けれどこう何度も言われると正直うざかった。

(お、そろそろ終わりかな。分かってますよ。)

これからはちゃんと

「これからはちゃんと」

気を引き締めて

「気を引き締めて」

「頑張ります!すんませんっした。以後気を付けます。ホール出ます」

制服に着替えて、タッチパネル式の注文。運ぶ猫耳と表情のついた機械。ハヤミが取ったのは昼食は遅めのランチ。時間帯的にそこまで人もいないから仕事内容はほぼ立っているだけ。迷惑な客に対応すること。レジで割引や、クーポンの支払い方が分からない人のヘルプをしたり、ただそれだけ。

「あ、ハヤミ。お疲れ。じゃあ交代お願い。アタシ、休憩だから」

「うす」

無駄がない先輩。単調な言葉遣いの先輩。ファミレスに入ってすぐに研修期間にいろいろなことを教えてもらった先輩。ほとんどメイクが施されていない先輩。男として見られていないんだろうなという先輩。乱れなく髪がまとめられていて触覚が生えていない先輩。無機質な先輩。

笑ったりしているのを見たことがなかった。仕事は心を無くしてやるもんだし。作業だし。金のためだし。そう思っていると先輩の全くもって隙を見せない行動は正しいと評価していた。

仕事で起こる嬉しい出来事を嬉しいと感じることの多くを人はやりがいと呼ぶ。それを求めて職を探す。学生にはその選び方は贅沢だ。やりがいなんてなくたって、好きなことのために。やりたいことのために。割きたい場所に割くために。金が必要。しなければいけないからする、それが仕事だ。やりがいは後からついてくる。最初からそれを求めていたって見つかるわけがない。

扉が開く。俺の足は自然と入り口のドアへ向かう。

あれ?ベルは鳴ってたっけ?

「いらっしゃいませ。何名様ですか?」

「今は1人です。後から、もう1人来るかもしれないんですけど」

「テーブル席ご案内します。こちらへどうぞ」

二人掛け用の机に案内した。

「あの、申し訳ないんですけどあっちの大きい方でもいいですか?」

「あ、はい!大丈夫です。では、こちらの席をお使いください」

「すいません、ありがとうございます」

「いえ、大丈夫です。ご注文はタッチパネルの方からお願いいたします」

「分かりました」

「失礼します」

ぺこりと控えめなお辞儀をする色白の客。接客業で働くと礼儀正しい人と、礼儀正しくない人を見るようになる。客は神だというが、こちらにも信教の自由がある。屁理屈をわざわざ押し通す気も、実際にそれを言うだけの勇気もないけど。

日本では八百万の神々が信じられているわけだが、それは実際に八百万体もの神がいるわけではない。どんなものにも神が宿っている、という比喩的表現である。だからきっと道端に吐き出されたゲロにだって神がいるはず。それを敬え、というのか。無理な話だ。

そう思えばグチグチ自分が神だと思ってありがたいお言葉を吐いている神様(仮)にも愛着が湧いた。手を上げられなければそれでいい。言葉でいくら言われても、心に響くことはない。やりがい、も無ければ人間として最低限のプライドと尊厳を守ればいいと思っているから馬鹿にされたところでどうだっていい。

カランコロン

鳴ったベルに反射で歩いて行く。

「何名様ですか…ってなんで来たんだよ」

「いっやぁヒナタくんとユウキくんに偶然会ったからー」

「こいつら昼食ってないって言うし、カフェテリアでも良かったんだけどなあー」

「どうせなら知り合いがいるところにしようかってなって。久しぶりハヤミ」

「4人ですね。こちらへどうぞ!」

長身でイケメンで、笑顔すら騒いでいる三人の後ろに立って微笑ましそうに見ている人がヒナタ。どことなく記憶の中の顔が被る。さっき確認したら連絡先の友達リストにはちゃんといた。けれど飲み会の日からトークはしていないようだった。

「ご注文はタッチパネルでどうぞ。お水はセルフです」

「はいはーい!」

「うるさくするなよ」

思わずタメ語になって注意をしていた。馬鹿と思われることがとかではなく隣り合っている席に一人の客がいる。本を読みながらサイドメニューのポテトをつまんでいる。読書が一応の趣味でもあって邪魔されることにハヤミは不快感を覚えるからその感情を渡したくなかった。

「分かってるって。ミヤ頑張れー」

「うるせ」

立っているのを見られるのがしんどくてキッチンの方に戻った。

「あれ?ハヤミくん、何してるの?」

「店長。知り合いが来たもんで席に案内して避難っす。すぐ戻ります」

「いいわよ、キッチンにいても。分かるわー、私も学生時代にそうやって友達が来てはからかわれたりしたもの」

まさかの返事に間抜けな顔をする。ただの嫌味な人から、嫌味な部分もある人に昇格した。


あの人

パスタ頼んでるんだ


各席の注文履歴を眺めて腰ぐらいのところにあるテーブルに寄りかかる。

一応の業務上であることはちゃんと分かった上での押しかけ。来店だったからか声をかけられたり旅行のことを話題に出されることもなかった。たまにキッチンから顔をのぞかせたけれど最後まで騒いでいる様子はなかった。俺が何を気にしているかも伝わっていたよう。

テンションが上がって声が大きくなることくらいはよくあること。でもその度にヒナタが静かに、と何度も言っていたおかげで迷惑にはなっていなかったと思う。

会計の前にドリンクバーで粘っているあいつらが騒いでいたのは流石に注意しに行こうと思った。けれど俺はキッチンに立っていた。周りに人がいないからあのくらいは許容範囲だったから。レジのところであしらいながら各々の予定へと向かわせた。

「あの子ら帰ったんだ。ハヤミくん、ホール。頑張れ」

「うぃっす」

「シロタちゃん休憩からそろそろ戻るから。まあ、この時間帯二人もいらないと思うけど」

「はい」

シロタというのはさっきの無機質先輩だ。真っ白くて薄い空気だから名前と合ってるな、と最初は思った。けれど無機質すぎて、何にも染まらない裁判官の色な気がするようになっていた。

店長の言った通り会話から五分も経たない間に一時間の休憩が終わって再びホールへと舞い降りた無機質先輩。カラスみたいだった。制服は赤色だけど。血まみれのカラス。

何考えてるんだ。頭を振りながら席を片付けに向かう。

シロタ無機質先輩がカエデたちの使っていたテーブルを片付ける。その隣の机を俺は片付けた。パスタの皿。ケチャップの跡があるサイドメニュー用の重たいガラス皿。くしゃりと丸められたナプキン。綺麗に皿に並べられて終了を知らせているカトラリー。水の残っていないコップ。

「あれ、誰だ?ここ使ってたの」

キッチンの中にいたとはいえ、誰かが会計へと動き出したら一応目で追っている。不正はしようがないがレジ付近のものに不用意に触っていたり、分からなそうにしていたらベルを鳴らされるより駆けつけたい。単調なバイトの中の参加者一人のファイティングゲーム。

レジに向かって会計履歴を見た。座席番号と注文内容、支払われた証明も残っていた。誰かが座ってそこで食事をした。それは確実だ。でもレジに向かっていない。でも支払われている。

ハヤミは目を離していない。そう断言できた。

じゃあ誰?

監視カメラを確認させてもらいに行こうと思ったけれど店側に不利益がないし、会計のミスもないからいいか。そう思うことにした。変に探って何かを企んでいるとか。平和なこの店で思われても仕方がない。


急に消えてしまったお客さんが座っていた席に戻ると小説が置き去りにされていた。

「忘れ物か」

「ハヤミ、誰の?」

「ここ座ってたお客さんだと思うんですけど。もう会計済んでたんで出てっちゃったと思います」

「そう。ボックスの中入れてきて」

「了解です」

本には手作りと思わしいカバーが付けられていた。細かい花柄の布。可愛らしい。どんな本を読む人なんだろう。作品によっては女の人だったとか、若い人とか思い出せるかもしれない。

『血塗られた』

それだけが見えてドキリと心臓が跳ねた。さっき無機質先輩に血みどろのカラスなんて感想を抱いていたから。その後に続く文字をゆっくりと確認した。

『家族』

なあんだ。

「ミステリーの王道か」

怖がっていた自分が面白くなりくすり、と笑ってカバーをつけ直した。忘れ物ボックスの中に入れて、まだ持ち主が帰ってこない傘に眉をひそめて世の中には無駄が溢れているなーとか思いながら足を遠ざけた。

並んで立っている無機質先輩とは特に会話をすることもなく忙しい時間帯までの時間を何とか乗り切る。

「ねえ、ハヤミ」

「えっ、はい、なんすか?」

「楽しい?これ」

「これって、バイトっすか?」

「うん」

シロタ先輩は電源ボタンを押してもいつ点くか分からない古いゲーム機のような先輩。言葉にも無駄がないけれど、指示語の使い方がおかしい時があって質問の意図を理解するのに時間がかかる時がある。

「普通っすね…」

「普通とは?普通は君基準でしょ?」

「うーん」

返答に困る。よく使う普通、は確かにハヤミ基準の普通。普遍。当たり前。言われてみてようやく考え始めた普通をどう表現するべきか迷った。

「可もなく不可もなく。これも俺基準ではありますけど。特段嫌に思うこともないし、強いやりがいを感じているわけでもないです。必要に迫られてやっているだけのことなので」

「金がない世界だったらやってなかった?」

「はい」

「そっか。意味のない質問だから気にしないでね」

「あ、はい」

不気味に思うことがあるのがシロタだった。急に話しかけてきては意味のない質問をされたり。意味がないな、と思っていても最後に意味がないから、という言葉がなくて顔を見てみれば本人は満足げにしていることもある。個人の感覚が違う、ということを実感できる存在がすぐ真横にいる。その違いを感じると何故かシロタだけに恐ろしさを感じた。

「君、夏の予定は?」

「さっき俺の友達が来てたんですけど、そいつらと一緒にプチ旅行に行く予定です」

「そう。事故は起こすな。関わるな。だよ」

「お母さんみたいっすね」

「私は君の母親じゃない」

「それはそうっすけど。注意してくる内容がお母さんみたいってことっす」

「それは分かってる」

あ、意地張ったな。

最近になって表情が読めるようになってきた。それで可愛さとして相殺している。顔だけ見たら相当美人なんだよな。

ハヤミよりも先に入っていたシロタはハヤミが上がる二時間前に帰った。シロタが帰ってからトラブルはなにも起こらず機械に疎そうな老人がレジを使えなくて何度かヘルプに行ってこの日のシフトは終わった。

ハヤミと彼女で同棲している家に帰るために駅に向かう。電車に乗っている間にスマホを見ると大量にメッセージが来ていることに気がついた。カエデが言っていたグループも出来ていた。名前は

「心スポ探検隊……子供かよ」

よろしく、のスタンプを送ってバイトしてたから遅れた、と一言も送る。旅館の公式サイトや、咢珠トンネルの口コミのスクリーンショットなどが送られてきていた。日程の投票もあったのでスマホのカレンダーと示し合わせてハヤミは自分の都合がいい日を共有する。

そのあたりで降りる駅になり、スマホをポケットにしまって歩き出した。乗り換えがなく電車に二十五分ほど揺られていれば着く場所に大学もバイト先もあるハヤミは疲れている時ほどのその絶妙な距離感を嬉しく思った。

「ただいま」

「おかえりーバイトお疲れ。ご飯あるよ。先にお風呂入る?」

「ご飯食べるわ」

「分かったよー」

昼間は散々言った彼女も足を引きずるくらい疲れている時は女神に思えるもので。

リュックサックだけ降ろしてソファに倒れ込むと彼女から怒号が飛んできた。ハヤミの彼女は少々ミニマリスト。

「あ、そーだ。俺夏に旅行行ってきていい?全員男のむさくるしい旅行」

「何だその旅行。もちろんいいよ。行ってきなよ。お土産よろしくね」

「ん」

「ってかどこ行くの?お土産とか特産品とかあるところ?」

「あーあんま調べてないけど心スポ行って、温泉に一泊してくるだけ。三重の方だし、食べ物というより……あ、でも赤福って三重だっけ?」

「確かそうだった気がする。ご飯大盛りにしていい?」

「むしろウェルカム。じゃあそういうの買ってくる」

お土産のことも調べなければいけないな、と頭の中で旅行の計画を着々と進めていく。眠気に負けそうになったところで彼女に叩き起こされた。物理的に頭を殴られた。

「起きてください。食べてください」

「へい、ただいま!」

温かい料理が用意されていることのありがたみは一人暮らしをして気づいた。彼女と同棲を始めるまでに料理の腕を鍛えておいてよかったと心から思う回数が増えた。彼女だけにやってもらうわけにもいかないと思い、ハヤミの方が早くに帰って来た日には料理を作るようにしていた。

「これうま。何これ」

「始めて作ってみた。料理名は忘れた。テレビでなんかやってて、作ってみよう!ってなった。なんだっけな……ハチャメチャみたいな名前の、海外の料理だった。ホラ、あたしもハヤミもチーズ好きじゃん?」

「めっちゃチーズがいい味する。すっごい美味しい。今度作り方教えてよ」

「ふっふーん、任せなさい!」

鼻高々の彼女の顔を見てハヤミも頬を緩ませる。頬が落ちそうになったのは料理のせいにしておいたけど。

正しくはハチャプリというジョージアの料理だった。

食器を洗ってから風呂に入って荷物を片付けた。課題は今日中にやらなくても死にはしないと判断をしたため彼女と同じタイミングでベッドに入った。ご無沙汰でもないのでお互いそのまま素直に子供のまま眠りについた。

日程も何も決まっていない旅が進み始めるのは一体いつになることか。


【続く】

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