地獄変 ~柳宗悦、絵師良秀の遺せし図屏風と出会う~

四谷軒

01 柳宗悦の憂鬱

 尤も小さなしるしの石は、その後何十年かの雨風あめかぜさらされて、とうの昔誰の墓とも知れないやうに、苔蒸こけむしてゐるにちがひございません。


 ――芥川龍之介「地獄変」





 じりじりとした蝉の声が聞こえてくる。

 ここは、ひなびた村の荒れた寺――廃寺だ。

 何も無い。

 破けた障子や壊れた壁があるだけだ。

 ただ――その中に。


 屏風があった。


 その屏風は、誰とも知らず、その廃寺の本堂に。

 その屏風には、「地獄」があった。

 ある鬼は、男の首を斬り。

 ある鬼は、女を組み敷き。

 ある鬼は、子を食らい。

 ある鬼は、老人を焼いた。


「…………」


 見ているだけで、気が滅入る。

 そんな、屏風だった。

 何故、こんな廃寺にこんな屏風が。

 こんな屏風絵が。


 おおん。


 耳鳴りか。

 何か、唸るような。

 囁くような。

 声が――



 一九二三年(大正十二年)、柳宗悦やなぎむねよしは、兄・悦多を失った。


「兄さん」


 もう家族の死を歎き悲しむ年齢ではない。

 さりとて、二歳の頃に父・楢悦を亡くした時は泣いたのかどうか。

 ともあれ、宗悦はそれを機に京都へ移り住んだ。

 それは――美というものに執着を持つ宗悦にとっては、ある意味、望ましい展開ではあった。


「いかに美に触れる機会を得たとはいえ、不謹慎ではないか」


 そう囁くもう一人の自分がいる。

 宗悦はそれを自覚していた。

 そも、自身の生い立ちからして、亡父・楢悦の遺した偉大な業績と莫大な財産のおかげで、何不自由なく、それどころかこの国の最高学府にまで進むことができた。

 それを哀しいと、浅ましいと。

 そう、思ってしまう自分がいる。


ずるいのではないか」


 自身で築き上げたではなく、亡き父の財産のおかげで、のうのうと生きている。望む学問を学べる。それは――卓をならべる他の苦学生の立場からすると、をしている。

 そう、考えてしまう。

 その思考の果てに、宗悦は神学を選んだ。


「人の生とは。死とは」


 だが宗教的解釈では宗悦の納得は生じなかった。


「なら――科学だ」


 神学の次は心理学。

 そのとき、東京帝国大学に進んでいた宗悦は「これなら」と意気込んだものの、やがて失望したらしく、卒業後、それについて触れることは無かったという。

 しかし、それは同時に、宗悦があるものに取りつかれるように、あるいは恋焦がれるようになったからかもしれない。


 美というものに。



 朝。

 京都。

 雑踏の中。

 宗悦は新たに知遇を得た友人、陶芸家の河井寛次郎と共に歩いていた。


 あれから。

 東京帝国大学卒業後、ロダンやブレイクといった美に生きる人々の「産物」に熱中していた。

 そんな中、ロダン作のブロンズ像を見たいと訪れた浅川伯教という人物から、礼にと李朝の壺を贈られた。


「……素晴らしい」


 それは芸術のためにと作られた陶磁器ではない。

 あくまで、使われるため、用いられるために作られた壺だ。

 だがそれは。


「うつくしい。何故だかはわからないが、うつくしい」


 そういう感覚を抱いた。

 そしてそれはやはり、形が優美だからだろうと結論付けた。

 その時は。

 父と兄の死は、人というものの儚さを見せつけてくれた。

 少なくとも、宗悦にとっては。


「家族が亡くなった。けれども、自分は生きている。その意味は、何か」


 もうひとりの自分がそう囁く。

 言われてみると、そのとおりなのだ。

 父が亡くなり、兄が死んで。

 それでも自分は生きている。

 妻もいる。

 子もいる。

 それが人の世というもの、ことわりというものだといえばそれまでだが。


「……意味など無いかもしれない」


「どうかしはりましたんか、柳はん」


「……あ、いや」


 案内役を務めてくれている河井が、不思議そうな顔で宗悦を見ていた。

 気づけば、目的地である東寺が目に見えていた。

 そう、河井は京の朝市に柳を誘ってくれていた。

 朝ぼらけの京の都はそれはそれはうつくしく、宗悦は心躍る中、歩いていたわけだが、次第に次第にこの京の都も戦乱と災厄の巷だったなと思い至り、先ほどのような囁きを覚えた……のであろう。

 何故か。


「さっきも言いましたけどな、東寺はんは、ホンマは教王護国寺言いましてな……」


 そういえばそうだった。

 河合が言うには、今でこそこういうのんびりとした京都のシンボルのような立ち位置の寺だが、たとえば南北朝の争乱においては東寺合戦といって、足利尊氏とその庶子・足利直冬との相剋の戦いの場となった。

 骨肉の争い。

 それに勝ち残った尊氏は足利幕府を開いたが、それは果たして尊氏の望んだことだったのか。


「だから意味はあったとしても……」


「あ、着きましたえ」


 思い悩む宗悦の袖を引き、河井は「あれあれ」と指差す。

 その指の先には、朝市が広がっており、宗悦と河井の求めるものがあった。


「ありましたえ」


 河井がそそくさとその露店の前に立つ。

 その露店には、多くの陶磁器が所狭しと木箱の中に積まれていた。

 その陶磁器は、いわゆる雑器であり、雑器とは、庶民が日常に用いる器のことである。


「見るんなら、取ってくんなはれ。割れる」


 店主が煙管をぷかぷかと吹かしながら言って来る。

 だがそこまで神経を使っているわけでもなく、店主は手にした新聞から目を離さない。


「ほんなら、見ましょ。


 河井も慣れたもので、店主の顔を窺うことなく、そっと手近の湯呑みを手に取る。

 ホレと宗悦に手渡す。

 宗悦はそれを優しく受け取り、しげしげと見入った。


「…………」


 形はよくある湯呑み。円筒形。

 色もまたよくあるもので、描かれた曲線も、飾り気もなく引かれたものだ。

 でも。


「……うつくしい」


「さよか?」


 これは店主の言だ。

 さすがに商品を評価する声には耳聡いらしい。

 そしてこうつづけた。


「こないな下手物げてものには過分な褒め言葉やでぇ」


「下手物?」


 不得要領な宗悦の耳に、河井が「こないな雑器のことや」と囁く。

 下手物。

 それが当時の、朝市で雑に売られている器の名前だった。


「……そうですか」


 その時の宗悦の洩らした息は、ため息なのか、それとも歎声なのか。

 それは宗悦本人にもわからない。

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