第2話 1 day 春秋戦国

 当話にては、春秋戦国しゅんじゅうせんごく時代を一日で表わすとどうなるか、を紹介致す。それぞれを節に区切っておるが、これが以降に『十八史略じゅうはっしりゃく』の内容を再構成するに当たっての話数分け基準である。大雑把に年数を揃えることを念頭に置き、記事の文字数はあくまで年数に従わせるものとする。

 また十八史略に登場する人物の総覧を別途近況ノートに掲載させて頂いた。


https://kakuyomu.jp/users/s8ooo/news/16817330664704978154


 こちらを見ながら読み進めて頂くと、より全体像が見えやすくなるであろう。



◯春秋1 初期


0時0分 -770年

 平王へいおう即位。しゅう東遷。

 春秋までの周は、いわゆる長安ちょうあんあたりに都を置いていた。しかし厲王れいおう宣王せんおう幽王ゆうおうの暴君リレー(宣王は後世に中興の名君扱いをされるが、よく言って中康状態に過ぎぬ)によって破綻し、政争を経て王位についた平王は、いわゆる洛陽らくようのあたりに都をおいた。洛陽はいわば盆地であり、この盆地の南東の入口辺りに封じられていた親族、鄭公ていこうが平王をサポート。この蜜月が続けばよかったのだが、だんだん疎遠、険悪となってゆく。


2時6分 -722年

 隠公いんこう即位。

 春秋時代を論じるときに真っ先に挙げられる歴史書『春秋』は、東方のもと大国、現小国の魯基準で論じられる。その起点となっているのが隠公即位である。なお魯視点過ぎてまわりがまるでわからぬ。あと隠公即位以前の情勢もやはりよくわからぬ。

 ついでに申し上げると、春秋……の壮絶な言葉足らずぶりを頑張って補ってくれた三伝、『左氏伝さしでん』『穀梁伝こくりょうでん』『公羊伝こうようでん』を読んでも、やはり春秋時代の推移はよくわからぬ。大雑把な事績を強引につなげ、事績推移と思い込むよりほかない箇所も少なからぬ。まあ最初期の歴史である以上やむなきことであろうな。


2時45分 -707年

 周と鄭関係悪化、激突(繻葛じゅかつの戦い)。

 この辺りは、十八史略ではまともに書かれておらぬ。王の権威が下がり、公たちの権威が上がっていく、その象徴とも言える戦いである。この戦いで周は敗北、お飾りの王としてもさらに存在感を縮小した。とは言え鄭もこの後どんどん存在感が小さくなり、しんのタイマンのはざまで揺れる中間国家に堕していくのだが。諸行無常であるな。



・春秋2 五覇の時代


4時51分 -659年

 秦、穆公ぼくこう即位。

 十八史略では春秋五覇のひとりにカウントされておる。周の西方、言ってみれば後方を守っていたガイジンさんが、周辺諸国に住まうガイジンさんを集めて勢力を高めました、と言うのがあらましである。その後隣接する晋や楚とバチバチとなるのだが。


5時12分 -651年

 せい桓公かんこう、覇者に(葵丘ききゅうの会)。

 春秋五覇のカウントには諸説あるが、斉の桓公と晋の文公が筆頭であるとされるのは異論がない。諸侯を抑えてトップに立った桓公は、後世の話では周王を立てたとこそ書かれるものの、周王なんぞ無視しても問題がなかっただけなのでは、と思わぬでもない。


5時41分 -640年

 宋襄そうじょうの仁(泓水おうすいの戦い)。

 ここは十八史略を紹介するページであるため書いておく。宋の襄公もやはり春秋五覇にカウントされておるが、南方の大国、楚とぶつかったこの戦いにおいて襄公は、楚軍が渡河に苦労しているのを見て部下から今こそ叩く好機と言われたにもかかわらず、情けをかけて渡河の完了を待ち、結果無事大敗した。そういう人物を五覇と呼ぶわけである。後々語るが、十八史略は春秋五覇に好感情を持っておらぬ。


6時2分 -632年

 晋文公、覇者に(城濮じょうぼくの戦い)

 動乱の晋を嫌い、各地を放浪した文公は最晩年に晋に帰国すると公に即位、瞬く間に覇者として君臨した。のだが、十八史略はまるでゴミ野郎かのごとく文公を語る。困ったものである。


7時34分 -597年

 楚荘王そそうおう、覇者に(ひつの戦い)。

 そして春秋五覇のラスト、「かなえ軽重けいちょうを問う」楚の荘王である。鼎とは周の権威を象徴する祭具である。ならば先掲の言葉は「周の権威なぞなんぼのもんじゃい!」となるわけである。春秋諸国のうち楚・呉・越は王位を自称しておる。これは周の権威からはじめからはみ出ていることを示すのだが、それでも周は楚に子爵位を与えたりなどしておる。なんとか懐柔しようとした形跡も見て取れるが、荘王の代に至り北上。こうして十八史略は「周王の権威低下を加速させた存在」として春秋五覇を語るのである。



・春秋3 大夫の勢力拡大


9時32分 -552年

 孔子こうし誕生。

 春秋時代を知る歴史書『春秋』は孔子が書いた、とされるが、これは概ね正しいのでは、と感じている。というのも孔子の時代の魯は魯公の権威を宰相一族、いわゆる三桓さんかん(隠公の弟、桓公かんこうの三人の息子の子孫)が壟断しており、「隠公の系統がそのまま続いてさえいれば……」的なものも感じずにおれぬのである。

 とは言え、これは春秋各国すべてに言えることなのであるが、周王から諸侯に主権が動いているのと同じよう、各国でも諸侯より下の大夫たちに徐々に権力が動いている印象もある。たとい隠公の系統が魯を統治したとて、おそらく隠公の子孫から三桓のごとき存在は出たのであろうな。


9時48分 -546年

 晋楚和睦。

 春秋時代のひとつの大きな軸は縦ライン、北の晋と南の楚のぶつかり合いに、東西諸国がしゃしゃり出る、と言う感じである。のだが、この段階でそのぶつかり合いがいちど収束。

 このとき晋では晋公臣下の上級宰相たち、いわゆる六卿が権勢を高め、晋公はその権勢低下に躍起になるも全く奏功せぬ状態であった。また斉でも陳から亡命してきた公子の子孫、田乞でんきつがじわじわと権勢を広げるなど、両国における将来の簒奪の気配が高まっていた。


11時4分 -517年

 孔子政治の場に登場。

 孔子と言えば魯でぱっとせず全国を放浪するもぱっとせず帰国して弟子が幾人か栄達したがやはりぱっとしなかったという、生涯だけでまとめてしまうと実に残念なおじさんとなるのであるが、後世、漢武帝かんぶていの下の董仲舒とうちゅうじょ唐太宗とうたいそうの儒典解釈統一事業を経て南宋なんそうにおける朱熹しゅきの登場により、じわじわと残念なおじさんの権威が高まり、帝か神か、ぐらいにまで粉飾された。

 この辺りの経緯を知るのにおすすめの本は浅野裕一あさのゆういち『儒教 怨念と復讐の宗教』である(突然のダイマ)。


11時59分 -496年

 呉王ごおう闔閭こうりょ越王えつおう勾践こうせんに敗死(欈李すいりの戦い)。

 ここで言う呉は、三国志で言う呉よりもやや南東に下る。まぁ当時の中原からすれば誤差と呼んで良いのだが。春秋戦国バトルフィールドの南東の隅っこ、と言う感じであり、正直何故この国たちの扱いがここで大きくなっているのかがよくわからぬ。まぁ呉王闔閭と夫差ふさ、その下にいる伍子胥ごししょ孫子そんし、越王勾践、その下にいる范蠡はんれい、の構図にロマンを感じずにおれぬので仕方がないな。


12時28分 -485年

 呉王夫差、覇者の座を求めるも決裂。

 と言うわけで、越をいったん踏み潰した夫差くんはちょづいて中央に進出、覇王の座を求めるも諸侯より嘲笑われて終了する。これは夫差くんの軽挙と感じられてならぬのだが、一方で夫差くんがこの時代のトップになれると夢見られるぐらい中央のもろもろがガタガタであったことも指すのやも知れぬ。


12時59分 -473年

 夫差、勾践に敗死。

 夫差が中央に出ている隙をついて、勾践は呉に逆襲するための兵力を養い、決起。呉を滅ぼす。さらに余勢を駆り、やはり中央に進出、覇者となるべく宣言した。上でも語ったが、これは中央がガタガタになったのか、あるいはそもそも覇者という称号がただの形骸的なものに堕していたか、のどちらかなのであろう。

 と言うのも、晋も斉も諸侯は下からの突き上げに汲々としており、およそ外国に目を配る気配なぞなさそうなのである。かくなる次第により、春秋の最終段階、「諸侯」制度の解体の段階が迫ってくる。



・春秋4 戦国への胎動


13時51分 -453年

 晋、魏韓趙氏勢力拡大(晋陽しんようの戦い)。

 先に語った晋の六卿の勢力が拡大する中で、六卿間でも不和が起こった。最大勢力の智氏ちし、そこにつく范氏はんし中行氏ちゅうぎょうし。対するは魏氏ぎし韓氏かんし趙氏ちょうし。まぁ正確ではないが概ねこのような感じである。いろいろあって智氏、范氏、中行氏が滅んだ。こうして晋国はもはや名ばかり、魏氏、韓氏、趙氏が三分割して実効支配するような状態となった。


16時3分 -403年

 魏韓趙、諸侯として認可。

 ひどい飛びようである。なので上掲事績から三晋当主も代替わりしている。春秋時代の恐ろしいところは、権勢簒奪の経過が数代にわたって徐々に進行することにある。先ほど斉で田氏の名を挙げたが、こちらもやはり数代をかけてじわじわもとの斉侯である姜氏きょうしから実権を削り取っている。

 ちなみにその頃魯はとんでもなく領土を削られており、もはやただの一地方官という装いであった。滅んでおらぬだけ僥倖というものであったことであろう。



・戦国1 魏の隆盛と凋落


16時47分 -386年

 斉、田氏が簒奪。

 ここでは三晋分立を戦国の画期とするので、田氏による斉侯簒奪は「戦国時代中のビッグニュース」として扱う。なお、三晋分立後もしばらく諸侯はそれでも一応「諸侯」名乗りをやめておらぬ。だいたい五十年後くらいに斉で威王いおう、趙で武霊王ぶれいおう、韓で宣恵王せんけいおう、そして秦で恵文王けいぶんおうが王名乗りを始める感じである。あとなぜか生き残っていたそうが「おっワイもワイも」と康王こうおうと名乗ったところ踏み潰されておる。ほんに襄公と言い康王と言い、見事なオチ要員であるな。


18時6分 -356年

 秦、商鞅しょうおう変法。

 後に秦が天下統一に至る強化の始まった、その第一歩目とされる。とは言え実際の天下統一まではまだあと130年強。春秋よりもペースが速くなってきたとは言え、やはり後世の戦いの進展よりするとゆったりとしたペースであるのがうかがえる。


18時22分 -350年頃

 百家争鳴(稷下しょくかの学、始まる)。

 斉の威王が始めた、学者たちの招集による学問の発展。ここから多くの著名な思想家が登場する、いわゆる百家争鳴の状態を生み出す。


18時45分 -341年

 魏、斉に惨敗(馬陵ばりょう戦い)。

 戦国時代は魏の強盛で始まったのだが、この一戦にて孫臏そんぴん率いる斉軍に大敗し、一気に勢力を縮小した。以降斉の勢力が強大化する。



・戦国2 西帝東帝


19時46分 -318年

 合従軍秦に侵攻、敗北。

 商鞅変法以来、秦の勢力は凄まじい勢いで拡大。また十八史略の論調からすると「殷周以来の伝統を蔑ろにする」ようなやり方であったことも周辺諸国よりのヘイトを稼いでいたようである。こうしたヘイトを稷下の学の流れを汲む蘇秦そしんが煽り、楚を動かして各国と同盟させ、攻め込ませた。結果は敗北。秦のヤバさがこの段階で一頭地抜けたのを示す出来事である。


20時14分 -307年

 趙、胡服騎射導入。

 趙の武霊王が胡族たちの乗馬スタイルをパクったことで、中国戦術史におけるエポックメーキング的な出来事として扱われる。とは言え武霊王自身の戦績は山間の小国、中山国ちゅうざんこくを滅ぼした、位であり、いわゆる戦国七雄の勢力争いという観点からすれば「あれっこのひと何したの?」という感じにはなってしまう。

 なおこの武霊王が燕にいた秦の公子、嬴稷えいしょくを秦に送り込み、王位につけさせた。これが後の昭襄王しょうじょうおうであり、十八史略では下手をすると始皇帝以上に魔王的な扱いをされる人物である。武霊王の功績とは。


20時51分 -293年

 秦、白起はくき登場(伊闕いけつの戦い)。

 戦国時代でその名を轟かせる恐怖の名将、白起の登場である。この人ひとりで戦略的存在にすらなっており、正直訳がわからぬ。そういった存在感をただのいち武将にもかかわらずは示すのは、白起以外では韓信かんしんくらいしかおらぬのではないかな。


21時10分 -286年

 秦昭襄王、帝を自称。

 と言うわけで、昭襄王。富国強兵をさらに推し進め、凄まじい勢いで東方諸国に圧をかけてゆく。十八史略上でもいろいろな国に嫌がらせを仕掛けてきており、本当に曽先之そうせんしくんは昭襄王が嫌いなんだなあ、とほっこりさせられる。

 そうして他国を圧倒するだけの勢力を得た昭襄王は「西帝」を自称。さらに東方で勢力を強大化していた斉の湣王びんおうに「東帝」を名乗るよう勧めた。こちらは却下されたが。

 この段階で秦と斉がずば抜けていたことを示すエピソードではある……のだが、次の瞬間斉が盛大な高転びを決めるのである。


21時15分 -284年

 燕の楽毅がくき、斉を蹂躙。

 ここまで全く存在感を示してこなかった燕が、ようやく姿を見せる。と言っても主導をしたのは王ではなく、稀代の名将楽毅なのであるが。いちど斉に滅ぼされかけた燕は楽毅を得て国力回復、更には周辺諸国と手を組み、一斉に斉に襲いかかった。漫画キングダムでも「この侵攻で、強盛を誇った斉はわずか二城を残すのみとなった」と紹介されている。

 あと一歩で、戦国七雄の一国が初めて滅亡。しかし、そうはならなかった。


21時28分 -279年

 楽毅失脚。斉、領土挽回。

 楽毅が斉攻略の総仕上げをしようとしたところで、燕王が死亡。あとを継いだのは楽毅の活躍を嫌う王であった。と言うわけで楽毅は失脚、その軍務を継いだ将軍がまんまと斉の計略に引っ掛かり作戦全体が頓挫した。

 この後斉はある程度の勢力を回復するにまで至るが、さすがに覇権国、とはもう呼べなくなり、存在感を小さくしていった。



・戦国3 最終局面


22時18分 -260年

 長平ちょうへいの戦い。秦急速拡大。

 斉の勢力が小さくなると言うのは、つまり西方の比重がさらに重くなる、と言うわけである。このタイミングで趙と秦がぶつかるも、秦によって四十万もの趙兵が穴埋めにて殺された。いわゆる白起一番の見せ場、長平の戦いである。もうこの段階で秦とそれ以外、かろうじて楚、ぐらいの勢力差となっておる。


22時31分 -255年

 周滅亡。

 こうした秦のダントツ化を嫌がった周の赧王たんおうが秦の打倒に決起するも、勝てるはずがない。あっさりと敗れ、降伏。そして昭襄王に「あなたに天下の主の座を明け渡します」と宣言した。こうして秦が魔王として君臨した。


22時52分 -247年

 秦王政しんおうせい即位。

 キングダム参照。そう、キングダムの物語は春秋戦国全体で見ればラスト一時間強の物語なのである。


24時0分 -221年

 秦、天下統一。

 おめでとう。



 以上、春秋戦国時代を一日の出来事として通観してみた。ここから十八史略に載る春秋戦国時代の各タイミングについての内容、及び作者の各国各人物集団についての感想をものして参る。

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