第19話


 その後、二週間がたった。

 今日の目覚めは結構良い方だ。傷も筋肉の痛みも完全に引いて、本当によかった。


 視線の先には花瓶に入っている二輪のマリーゴールドがある。

 指先で突くと、自然と頬が緩んでしまう。

 最近、視界に黄色があると、妙に心が落ち着く。


「ふふ、よかったですね奥様。妖精さんが戻ってくれまして」

「も、もう! ソフィ!」

「では、今日も黒髪の妖精さんとお過ごしになりますか?」

「……もう、知らない」

「ふふふ!」


 ソフィの意地悪に耐えながら、朝の日課をこなす。

 昨日からその日課の中に、旦那様と二人で温室を散策していることも追加された。

 看病している本人として、彼にもっと安静に過ごして欲しいが、どうやら彼自身はもう限界らしい。部屋の中に閉じ込められたのが耐えられなかったみたい。


 目を離せばすぐ無理をする彼がやりすぎないように、私が見張り役として抜擢された、ということだ。


 彼と一緒に過ごす時間が増えることに胸が少し弾むが、やはりどこか落ち着けない。

 これは、ソフィに気づかれたくない。なんか、意地悪が更に火がつきそうだから。


 旦那様は騎士団から長期休暇を貰った。

 普段それを受け取らない彼だが、今回だけ話が違う。それが断れない時点で、彼の怪我の重さが証明されている。表では遠征での活躍の「報酬」として与えられたそうだが。


 遠征先では彼はルナードでしか生息していないはずのワイバーンに襲われた。

 そして、どうやらあのワイバーンの様子がとてもおかしかったと。調べても、結果が何もなかった。だが、様子から判断すると毒に犯されていたような、そんな状態だった。

 それを調べている同僚を庇い、旦那様が背中に大きな怪我を負った。そのせいで三日間生死をさ迷っている。


 昨日、彼が淡々とそう説明したが、一歩間違えれば彼はもうここにはいないだろう。

 彼が無事で本当によかった。


 今日はそんな話をせず、他愛もない会話を交わしながら一通り回る。

 途中で彼は突然歩みを止めた。


「旦那様?」


 振り返って、首をかしげる。

 彼が黒い手袋越しでも、温もりが充分に伝わる。


「明日も天気がいいらしい」

「はい、今朝ニコルがそう言いましたね」

「……一緒に城下町に行かないか?」

「……へっ?」


 突然なことに貴族の娘らしからぬ声を上げた。

 でも、一緒にって、私と彼が、一緒に?


 それって、まるで――。


「……いやなら、はっきりと断ってくれ」

「えっ、あ、いいえ、そうではなくて」

「……そうか」

「は、はい……」

「……」

「……」


 気まずい。非常に気まずい。


 どうしよう、手に汗が。彼が手袋してて、本当によかった。こんな恥ずかしいことに気付かれずに済んだ。

 そもそも、そんなはずはない。これは、そう、おそらく勘違いだろう。いや、絶対勘違いでしょう。

 旦那様のことだし、私たちの関係は白い結婚そのものだし。そもそも、お互いにはそういう感情はないの。


 そんなことはない。

 そんなことだけは、ない。


 ああ、でも、どうしよう。

 種明かしされた時、この瞬間を二度と思い出したくないだろう。


(でも……)


 こういう時、己の愚かさを実感してしまう。

 だって、冷静に「そんなことはない」と思いながら、私の顔が熱くなったことは、事実でもある。


 この熱に、覚えがある。


 私は、ぎゅっと彼の手を握り返した。

 これは、私の精一杯の返事だ。


 そうすると、彼もそれに応えてくれた。




* * *




「旦那様、これは?」

「鹿の干し肉だ」

「旦那様、あの音が出るあれは?」

「竜を象る子供の玩具だ」

「では、あれは?」

「あれは――」


 晩秋の澄み渡る青空。

 その下で、私ははしゃいでいる。見たことのない物が沢山あり、寒さを忘れるほど胸が高鳴る。

 旦那様は私の質問攻めに耐えて、丁寧に一つずつ答えてくれた。


 彼に誘われて次の日。「二人も無茶しないこと」とニコルに口酸っぱく言われてから私たちは町に出かける。

 今日の城下町はいつもととても違う。

 どうやら、秋祭りが開催されるみたい。

 秋の収穫を祝い、労働者を労う。冬本番に入る前の、皆が箍を外す一週間である。

 仮面などを被り、身分や生まれなど関係なく、只々秋を祝うという行事だ。

 現に、私と彼は今フードを纏い、仮面を被っている。彼は言わずもがな、ゼベランでは稀な銀髪と青い瞳を隠すために変装している。


 旦那様曰く、この時期の王都はとても賑やかだ。


 それを、彼はただ純粋にゼベランに住み始めたばかりの私に見せたい、と。

 カレンも休暇中だから、彼が代わりに護衛してくれる、ということだ。

 要するに、ただの観光案内。いや、町視察の方が近いかもしれない。


 馬車の中でその説明を受けた時は恥ずかしすぎて倒れそうになった。

 どんな顔で彼と二人きり城下町を歩き回ればいいのか。道中、そのことばかり考えてた。


 考えてたが――。


「旦那様、このパンはすごく美味しいです!」

「そうか」


 蓋を開ければ、城下町に着いた瞬間、心が奪われた。


 半分に分けられたパンを咀嚼すると、口と鼻の中にスパイスの香りが広がる。

 視覚や味覚、五感が未知に刺激される。心が満たされる。

 昔は頻繁にファルク様とこうやってお忍びで買い物などしていた。その記憶がよぎり、懐かしい気持ちになった。

 彼も新しいものを発見する時は子供のように振る舞う。護衛騎士達が苦笑いするほどに。


「はしゃぐのはいいが、仮面が落ちないように気をつけてくれ」


 そう言いながら彼は私の唇の端に触れる。


「ついている」

「ご、ごめんなさい……ありがとうございます……」


 急に距離が縮まるのは心臓によくない。現実に引きずり戻された気分になる。

 この場を誤魔化すために、目の周りを隠す妖精の羽根を象る仮面をかけ直すふりをする。


 昨日といい、今日といい。やっぱり、私はどこかおかしい。

 彼の言動に異様に敏感になった。言葉一つで、動き一つで体が反応してしまう。

 早くなる鼓動に苦しくなる胸。体がほてり、吐息まで熱くなる。


 顔を俯かせると、無言の視線を感じる。


「だ、旦那様! 次はあちらの店を見てみたいです!」


 それから逃れるために、彼のフードを引っ張る。抵抗を感じず、そのまま近くの店に近づける。

 その露店のテーブルの上は複数の色で彩られる。光沢があり、太陽光が当たるとキラキラと輝きを放つ。

 その美しさに、私の目が奪われた。

 赤に橙、緑や紫。

 並べられたものの中から、一箇所に視線が止まる。

 青と黄が隣り合っている。


「あら、お客さんお目が高いね。この青を気に入ってくれたのかい? ゼベランではこの染物は中々出回らないよ」

「えっ、は、はい。そうなんですか?」

「これはね、生地は遠い南の国から流れてきたんよ。状況は状況で、あそこの商人はあんまりここに来れないよ。でも、あの国の独特な技術でこんな鮮やかな青がでて、ほら、リュゼラナの青みたいでしょう? 皆が欲しがるけど、いつも品薄で、こういう祭りとか祝い事がある時以外は皆出さないのようにしてるのよ」


 視線を少し動かし、店主の説明を聞く。

 確かに、じっくり見てみると本当にリュゼラナの青に近い。そして驚くことに、どうやらゼベランの方々は今でもリュゼラナを好んでいるみたい。

 私の疑問が顔に出てたのか、女店主が笑いながら説明する。


「あら、お客さんは外国の方なのか? ゼベランに来て、物好きだね……ほら、リュゼラナって、とても繊細な花でね。昔は普通に咲いてるのに、ルナードに支配されたせいで土が元気を無くして咲かなくなって……だから、我々にとってリュゼラナは、祈りなんよ。辛い現実にも負けないための、希望の象徴」


 思わず、彼の方に振り向いた。

 静かに頷いた彼を見て、胸の奥が言葉にしづらい感覚が沸いた。

 器がいっぱいになって、そこから水が溢れだす、そんな感覚だった。


「……これをください」


 小さな引っ掛かりを飲み込み、青いリボンを指差す。

 思えば、服は青系統の方が多いし、買うなら青が無難だろう。

 もちろん、店主の話に感化されたところもあるが、経済を回すのも貴族の大切な義務である。確かにリボンとしては高い部類に入るが、大丈夫でしょう。


 掌の上に流れる青いリボンを見つめる。本当に綺麗な青だった。

 私はこの色が好きかどうかと聞かれたら、正直に言うとあまりわからない。

 その上、大嫌いなリュゼラナの色だ。見る度に連想されてしまい、心にしこりを残す。

 そういう風に考えると、好き嫌いと聞かれたら、おそらく苦手の部類に入るだろう。


 でも、そうすると、私はどんな色が好きだろうか?

 今までは先ほどみたいに、いつも他者から理由を得て、色を選んでいた。


 いや、そもそも選ぶ機会すらなかった。

 アルブル家だから、青を纏う。ファルク様の婚約者だから、青を纏う。

 そうやって、私の意志と関係なく、身の回りはいつも青に染められる。


 じゃあ、他のことは? 色だけではなく、やりたいことも、好きなものも、全部全部。

 本当に、私の意思と言えるのか?

 私は――。


「シエラ」


 名前が呼ばれた。

 これは、私の名前だ。


「……思い耽るのは悪い事ではないが、ここではない方がいい」

「えっ」


 いつのまにか、彼のフードを握る私の手が自由になった。

 私たちの間の繋がりが解かれ、私は道中の真ん中に立ち尽くして、周りの人の邪魔になった。


「ご、ごめんなさい!」


 急いで距離を縮めると、彼は手を差し出した。

 その無言の誘いを、何も抵抗もなく応えた。

 ぎゅっと、彼は私の手を軽く握りしめてくれた。


「……行くぞ」


 今までの会話が嘘かのように、私たちは言葉を交わさず歩く。

 だけど、城下町の喧噪に負けず劣らず、私の心臓が響いている。


 シエラ。

 シエラ、と。彼は、私の名前を呼んでくれた。

 その小さな事実は私を思考の迷路から引っ張りだした。


 口の中に甘酸っぱさが広がる。

 それを噛みしめながら、私は握られた左手を僅か、ほんの僅かだけ握り直した。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る