第9話


「奥様、今日はどんな服がいいですか?」

「いつもの、シンプルで動きやすいドレスでいいわ」


 ここに嫁いでから一ヶ月が経った。

 家の者に迷惑を掛けないことを意識して過ごした。

 私の日常は慌ただしく、なってはいなかった。


 予想した結婚生活と現実の隔たりが大きくて、混乱している。

 母が教えてくれた話と真逆のことが今起きているから。


 妖精に悪戯されたような気分だ。

 名高いロートネジュ家に嫁いだため、他の家からの手紙や招待状などを処理しないと行けないと思いきや、一通も届かなかった。むしろ、実家からの手紙の方が多く届いた。

 いや、王族からの一通があったが、それ以来何もなかった。


 その屋敷の管理は全部執事であるニコルが行った。

 そもそもの話、使用人の数が少ないため、夫人としてやれることがないというべきだろうか。

 その様子をニコルに尋ねると、彼は苦笑を浮かべながら「ロートネジュ家ではそれが普通です」と答えた。


 朝起きて、彼と朝食を摂ったあと彼を見送る。

 そして、彼が帰宅するまで刺繍を刺したり、本を読んだり、温室を散歩したり。

 彼と晩御飯を摂ったあと、一言二言交わしてから別れて、自分の部屋に戻り、ソフィと一緒に肌や髪の手入れをして寝る準備をする。眠る前に、実家の手紙の返事などを書く。


 主にそんな流れに沿う一日を過ごしている。

 毎日、ソフィやハンナ、護衛騎士になったカレンと一緒に談話しながら自分の時間を堪能している。


 結論を言うと、私は暇だ。

 とても暇だ。

 むしろ嫁ぐ前の方が忙しいと言っても過言ではない。


「終わりました。今日の奥様もいつも通り綺麗です」

「ふふ、ありがとう、ソフィ。ソフィの腕前のおかげよ」

「ありがとうございます。あ、それと奥様、花が萎れ始めているんですが、今回はどうしますか?」

「うーん、そうだね……また栞にしよっか」

「かしこまりました、道具をご用意しますね」


 あの日から、部屋の中にいつも一輪の花が飾られている。ささやかなことではあるが、その存在は私の心の支えにはなっている。

 灰色に塗りつぶされた世界の中に色彩が存在している、そんな気分になった。

 だからなのか、完全に枯れる花の姿が見ていられなくなり、萎れ始める頃にはいつも押し花にした。


 誰が用意してくれたのかは、わからない。

 そして、知るのがどこかで億劫で、躊躇いを感じる。

 一度だけ、私の視線に気付いたからなのか、ソフィが「妖精さんが用意してくれました」と答えた。

 ソフィもそれに全く触れていないから、私はそんな彼女の態度に甘えた。私の中ではその妖精の正体をソフィにした。


 二人で押し花の準備を済ませてダイニングに向かえば、旦那様がいつもの位置に座っている。


「おはようございます、旦那様」

「ああ」

「待たせてしまって申し訳ありませんでした」

「構わない。俺が少し早かっただけだ」


 それ以上、会話が続かなかった。

 これも、一ヵ月前からのいつもの風景だ。

 最初の頃は沈黙の重さで呼吸し辛くなったが、いつの間にか慣れた。

 人間は慣れるものだな、と内心小さな嘲笑が浮かび、料理が届くまで静かに口を閉じる。


 静かな朝食が終わり、彼を玄関まで見送ろうとしたが、どうやら彼の様子がいつもと違う。

 扉に向かうはずの彼の足取りは、私の前に止まった。


「今日は休暇だ」

「えっ」

「カレンにも休暇を与えた」


 「だから、今日の君の護衛は俺が務める」と彼は続けて言った。

 驚愕のあまりに、口を開けることしかできなかった。

 そんな私に構わず、彼はそれ以上何も言わないままダイニングから出た。


 私は、彼の背中を見守ることしかできなかった。




* * *




「……」

「……」


 今、この国の英雄、すなわち私の夫は座っている私の後ろに陣取っている。


「旦那様、久々の休暇ですので、ちゃんとお休みになられた方が……」

「大丈夫だ。俺はこれでいい。君はいつも通りに過ごせ」


 そうじゃない。

 背後に立たれると、まるで威圧されているようで萎縮してしまう。


 私は、一体どうすればいいのだろうか。

「いつも通り」と言われても、そう簡単にはいかない。

 目を泳がし、他の人の助けを求めようが、残念ながら部屋の中には彼と私しかいなかった。

 焦りで唇を噛みながら、彼の方を見る。


 彼は両手を後ろで組み、厳に立っている。

 蜂蜜色の瞳が今隠して、周りに集中しているのだろうか。

 当たり前のような、凛とした佇まいであった。


 そんな彼を見て、何故かムッとなった。


(気まずいのが私だけなんだ……なんか、馬鹿々々しい)


 自然と口からため息が出た。

 この一ヵ月、彼とあまり接していないが、わかることがいくつかある。


 一つは、彼は噂とは少し違うかもしれない。膨大な魔力を真正面から受けたせいか、最初はすごく圧倒されて怖かったが、それだけだった。

 ソフィ達のこともあって、心のどこかに彼は悪い人ではないと、信じ始めているところはある。


 二つは、一度口にしたことを曲げないこと。先ほどみたいに決めたことならどう説得しても聞かないところ。


 だから、私は素直に諦めた。

 気にする時間が勿体ないから、テーブルの上に置かれた代々受け継がれるロートネジュ家の日誌に手を伸ばした。栞が挟まれたページを開き、読み進めた。


 そこから、時計の針が進む音と捲られたページの音だけが部屋の中に響いている。

 気が付けば、太陽が高い位置まで昇っていた。

 彼は気にするなと言ったけど、仮にも夫である彼を何時間も立たせてしまった。


「旦那様、本に夢中になってすみま、せん」


 慌てて上半身を捻れば、彼と目が合った。

 正確に言うと、彼の視線は私の左手に向けられた。


 どうやら、私は栞を握ったまま本を読んでいるみたい。

 彼と栞を交互に見ると気が付いた。彼は興味ありげな目で栞を見つめている。


「あの、この栞が気になるんですか?」


 あまりにも珍しいことで、口から言葉が飛び出した。

 急に話しかけたからなのか、彼は僅かに体を揺らした。

 だが、すぐに佇まいを整えてから言葉を発した。


「あの栞から魔力を感じた」


 ああ、なるほど。確かに、彼に伝えなかったね。


「おそらく、それは私の魔力です」

「君の?」

「栞に、妖精の祝福を施しましたので。素材が花ですので、そこまで魔力込められませんが」


 目を細め、右手で栞を優しく撫でる。

 妖精の言葉が出来なかった私にできる、姉から学べた唯一奇跡的な祝福。


「もしかすると、不愉快でしょうか?」


 他者の魔力に敏感な人もいる。感知するだけで体内の魔力の循環が悪くなる人も時折耳にする。


「いいや」

 

 私の質問に、彼は首を横に振った。


「心地いい魔力だ」


その優しい言葉が引き金となった。

 温かい鼓動が一度だけ響いた。だけど、胸の奥から広がる黒い泥が次第にそれを覆い隠す。


『シエラの魔力って、すごく暖かくて心地いいんだな』


 遠い昔の、あの方の言葉が蘇り、耳の中に響く。

 記憶に、心にある爪痕から血が再び滲む気配を感じる。

 それに呑み込まれないために、唇と左手に力を入れて、鋭い痛みに耐える。


(いけないよ、シエラ・アルブル。今はそんなことに溺れてはいけないわ)


「……旦那様、よろしければこの栞を貰ってくれませんか?」


 投げやりになった自覚がある。

 苦しくなった胸を誤魔化し、逃げるために提案した。申し訳なさと同時に、一種の、諦めに似たような気持ちが漂う。

 どうせいらないと答えるだろう、と。


「俺が?」

「はい」

「……いいのか?」

「えっ」


 思いがけない返事に、つい声が出た。

 運良く、どうやら彼の耳には届かなかったみたい。気を取り直すために、こほんと軽く咳払いをする。


「はい、もちろんです」


 私が差し出した栞を手に取ると、彼は僅かに首をかしげる。


「この花は……」

「ガーベラです。綺麗ですね」

「……ああ」


 彼が目を細め、僅かに笑みを浮かべた。


 彼の反応に、急に恥ずかしくなった。むず痒くて、居た堪れない。

 逃げるために、体の向きを正そうとしたその時。


「感謝する」


 先ほどの柔らかい雰囲気が嘘かのように散った。

 その感謝の言葉は立派な騎士の礼と共に紡がれたから。


 それを見て、胸に刺さったままの針が疼く。

 ありがとう。

 そのおかげで、我に返ったよ。


「……気に入ってくれたら、何よりです」


 精一杯の笑顔を作った。

 それに対して、彼はもう一度礼をした。


 その礼は私たちの距離間と関係性をそのまま表した。

 彼はどこかで、私を「妻」としてではなく「仕える」相手として扱っている。


 今みたいに手が届くぐらいの距離を保つ。私から話しかけることがあっても、彼からは必要以上の言葉を発さない。

 私を見つめる視線には熱など漂わず、あるのは凪いだ瞳だけだった。


(名前だって)


 以前、一度だけ彼に「シエラ嬢」と呼ばれた。

 仮にだとしても、私たちは夫婦だ。その呼び方は相応しくないと思い、勇気を出して提案した。


 その提案に、彼は頷いてくれた。だけど、同時に、彼の口から一度も私の名前が紡がれたことはなかった。


 たかが名前、されど名前。


 大袈裟だと分かっていても、一度芽生えた気持ちはそう簡単に消えてくれない。今でも静かに胸の底に潜んでいる。

 そこからじわじわと顔を覗かせる感情と視線が合わせないように意識を本に戻した。


 彼も、私も。誰も口を閉じたまま、時間だけが過ぎ去る。


 結局、あの日読んだ本の内容が一欠けらも頭に入らなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る