青い海。青い空。青い顔

「うぉぉぉぉぉぉぉ‼ すんげぇぇぇぇぇぇぇ‼ 海どぅぁぁぁぁぁぁぁ‼」


 と、車窓から見える光景を前にして大騒ぎしている大地。それは当初想定していた大地テンションメーターを遥かに飛び越えており、この場に他の乗客がおらずに迷惑が掛からないことを、俺は切実に胸を撫でおろすばかりだ。


 例の騒動があってから一週間後。所変わって現在列車の中。悠々自適で快適な夏休み。ささやかで、求めるには慎ましいとさえも言えるそんな俺の願いは、儚くも消え去ったのだった。


 その日の夕刻、旅行中止を願って一縷いちるの望みを胸に抱き家へ帰ると、俺は機嫌の良さそうな母に出迎えられることとなる。嫌な予感を覚えながらも、いざ母が口を開いたかと思えば――。


『隼人~大地くんに旅行に誘ってもらったんだって? 博くんも一緒に? 良かったね~。お母さんね、隼人がお友達と上手に付き合えているんだなって分かって、凄く嬉しかったんだよ~』


 なんて、帰宅早々俺の希望にひびを入れるような言葉を発する。そうだ、俺は失念していた。うちの母はこういうぽわぽわとしたキャラクターだったのだ。その後、俺はあれやこれやと説得を試み、直接的ではないにせよ、旅行へ行くのに後ろ向きな姿勢を示しはしたのだが――。


『大丈夫。最初は行ってみるまでは不安でも、行ってみたら楽しいってこともあるものなのよ~。それに大地くんは元気な子だし、博くんはほら、お勉強が得意なんでしょう? だったらお母さん、凄く安心だわ~』


 と、最終的に意味の分からないふわふわとした理屈で押し通され、俺の必死の説得も虚しく、結局俺は子供だけの旅行へ参加せざるを得なくなってしまったのだった。一応捕捉しておくと、母に悪意のようなものはないし、夏休み中ずっと家にいる俺のことを鬱陶うっとうしく思い、自分が楽をする為に外へ出そうとした訳でもない。ただの善意というか、要するに親心によるものなのだ。


 加えて母が言うには、子供のくせにドライすぎて子供らしくない俺のことを、普段より随分と心配していたのだとか。そんな折、俺が泊りがけの旅行に誘われたのが偉く嬉しかったのだとか。そんなことを言われてしまっては、最早旅行に行かないとは言えなかった。もしも行かないなんて言おうものなら、この母のことだ、きっと泣き崩れてしまうに違いない。


「ハァ~……」


 青い海。青い空。電車の窓の外に広がる真夏の光景とは対照的に、俺の気持ちはどんよりとしていた。


「おぅおぅおぅい‼ 隼人ぅ‼ どうしたんだよ⁉ 夏だぜ海だぜ‼ そんな顔してないで、テンション上げていこうぜぇ‼ Year⁉」


 なんてことを言いながら、ハイタッチを求められる。うるせぇ。小学生がみんなお前と同じだけのハイテンションを発揮、持続できると思うなよ。


 つうか、なんでお前はそう元気なんだよ。お前、朝に駅で待ち合わせしていた瞬間から今に至るまでずっとそうじゃないか。いい加減疲れるってことを覚えろよ。つうか、切符を買うのにさえハイテンションだったのは流石に意味不明すぎるだろ。あとどうでも良いことだけど、最後のイエーイがやけにネイティブなのが腹立つ。


 なんてことを考えながら、大地の手にタッチしてやる。言うまでもないが、別にこいつのテンションに当てられた訳じゃない。もしもこの手をほったらかしにしていたなら、きっと今頃今の一万倍のテンションでウザ絡みされ、俺は圧死していたであろうからだ。


「Hey Hey Hey⁉ そんなテンションで乗り切れるのかよぉ⁉ このビッグサマーウェーブをよぉ⁉ そんなんじゃ、今年の夏に置いていかれちまうぜぇ⁉」


 訂正、どうやってもウザ絡まれる。大地の言っている言葉の意味は分からないし、多分本人も分かっていないような気がするが、こいつの言葉を借りるなら、俺は今こいつのテンションに置き去りにされているし、まだ始まったばかりの旅行を乗り切れる気が全くしない。


 助けを求めるように大地の隣に視線を向けてみても、そこに座る博は苦笑いをするだけ。母さん、勉強が得意な博でも、大地のやつはどうにかできそうもないよ。そう思っていると――。


「あっ……ね、ねぇ大地、ぼ、僕、ゲームボーズアドヴァンスを持ってきたんだけど、よ、良かったら、やらない、かな?」


 博が助け舟を出してくれた。マジかよ。あの引っ込み思案な博が、俺のことを助けてくれるなんて。母さん、やっぱり持つべきものは理解のある友達だったんだね。


「うぉぉぉぉぉ⁉ マジかよ⁉ 博、お前もゲーム持って来たのかよ⁉ 俺もヨンロクとプレスタを持って来たんだぜー‼」


 そう言って大地は自分のリュックサックを開き、俺たちに中を見せる。そこには二つの据え置き型ゲーム機がぎちぎちに押し込められており、沢山のソフトやらコントローラーやらで、リュックサックの中はもうぱんぱんだった。


 お前、マジかよ。海も山もある場所へ旅行に行くっていうのに、据え置き型ゲーム機を持って来たのかよ。しかも二つって。お前、一体何しに来たんだよ。まさか、旅先でずっとゲームをやるつもりなのかよ。いやまぁ、こいつの無限の体力に付き合わされて、一日中野山を駆けずり回らせるよりは、良いと言えば良いけどさ。


 ………………。


 いや待て。まさかとは思うが、この原始人のことだ。日中は狂ったように外で遊び、夜になったら寝ないで夜通しゲームをするつもりじゃないだろうな? そんな地獄のような光景を思い浮かべていると、博もまた俺と同じことを考えたようで、顔が、というか、唇まで真っ青に染まっていた。そして恐らく今、俺もそうなっているに違いない。


 駄目だ、このままでは死ぬ。この状況を切り抜ける為に、俺はどうすれば良い。そうだ、旅行先に着いたら真っ先に薬局へ向かい、アフリカ象とかに使うような強力な睡眠薬を調達して、こいつの食べ物に混入させれば、或いは――。


「三人で遊ぶならやっぱスモブラとキンテツは外せないよな‼ それとあとはカスタムメカにハイファンと……、……あっ……」


 俺が思考を巡らせていると、一瞬大地がフリーズする。すると突然リュックサックの中をひっくり返すように漁り始め、暫くした後に――。


「ゲームの電源コード、忘れた……」


 と言う。



 ***



「うぉっしゃぁぁぁぁッ‼ 着いたぁぁぁぁぁッ‼」


 あぁ、とうとう着いてしまった。そして大地のやつは、完全に復活してしまったようだ。


 数分前、ゲームのコード一式を忘れたことを知るや否や、大地のやつは死んだように静かになる。余談だが、体を列車の座席にべちゃりと投げ出したその有り様は、まるでダリの描いた時計のようだった。


 が、静かになったのも束の間。そうして二、三分は静かにしていたかと思えば、突如「うぉぉぉぉぉッ‼ 俺はこんなことじゃへこたれねぇぜぇぇぇ‼ そうだ、発想の“寒天”だ‼ 夜に遊べないなら、昼に遊ぶ密度を百倍に増やせば良いだけじゃねぇか‼ 俺は天才だぁぁぁぁぁ‼」と言い出し、早々に立ち直ってしまったのだった。


 大地、それは発想の寒天ではなく、転換ではないのか? いや、それよりも今俺が危惧きぐしなければならないのは、昼に遊ぶ密度を百倍にするということではないか。えっ、その百倍って言うのは、平時の百倍ってことなのか? 待て待て、待ってくれ。俺と博は普段のお前に付き合うだけでもいっぱいいっぱいなんだよ。それを突然百倍だなんて、そんな、後半インフレするバトル漫画の戦闘力じゃないんだぞ。


 という内容を、この原始人にどうやって言い聞かせようか。なんてことを考えていると、駅舎の先に広がる青い海と、どこまでも広がる青い空が目に入る。


 海と空。青の濃さも、広さも奥行きも、普段見るものとはまるで違っていて、感動を覚えたからか、或いは別の理由でか、気付けば俺は静かに涙を流していた。それは例えるなら、あくびをするときに出るような自然な涙で、泣いているのが恥ずかしいとか、涙を堪えようだとか、そんな風にはつゆほどにも思わなかった。


 ………………。


 現実逃避している場合じゃない。一刻も早く、悲惨な未来を変える為の方法を考えねば。博、博はどうした。もう目的地には到着してしまっているのだ。あとはここから泊まる場所へ行くだけ。それまでに、二人で大地対策を――。


 慌てて視線を博の方へと向ける。しかしそこには真っ白に燃え尽き、既に意識を手放している博の姿があった。恐らく、大地の百倍パワー宣言に耐え切れず、体よりも先に精神が崩壊してしまったのだろう。灰になった博はサラサラと霧散して空へと消え行き、俺だけがこの場に取り残される。


 駄目だ、博がやられてしまった。こうなったらもう俺一人でどうにかするしかない。だがどうする、この原始人を言葉で説得できる可能性は限りなくゼロに近いのに。ここはやはり、睡眠薬でどうにかするしかないのか。ならばこの先、宿までの道のりに薬局があることを願うしかない。


 そんな今現在もっとも最悪な未来を回避する方法へ思いを馳せ、望みに縋るように、俺は口を開く。


「な、なぁ大地、今日泊まる宿って、ここからあとどれくらいなんだ? 俺ちょっと、は、腹の調子が悪くってさ……。もしあれだったら、先にちょっと、薬局へ行きたいんだけど……」

「おっ? 宿ならそこの坂を下ってすぐって書いてあるぞ。ほら」


 大地の指差す方を見ると、そこには「“青瀬旅館” すぐそこ」と看板に書いてあった。クソッ‼ これでは道すがらに睡眠薬を調達することはできそうにもない‼


「なんだよ隼人、腹痛ぇのか? ならこれを飲めよ。どんな病気にも効くすげぇ薬だって言って、うちの母ちゃんが持たせてくれたんだ」


 そう言って大地がリュックサックを漁って取り出したのは、ビタミンCとラベルに書いてある小瓶だった。


「……ありがとう、もう治ったよ……」

「そうか‼ うぉっしゃぁぁぁぁ‼ それじゃあ隼人も回復したみてぇだし、フルパワーで遊ぶぜぇぇぇぇぇ‼」


 俺は余計なことをしてしまったのだろうか。いや、きっとどの道俺たちは助からなかったのだ。ならば今更自分のしたことを悔いるなんて、そんなのは建設的じゃない。諦めることだって、長い人生にはきっと必要なことなんだ。そうやって、まるで人生を悟ったかのように俺は自分に言い聞かせ、大地に宿までの道のりを引きずられるようにして歩く。


 こうして俺たち三人の、小学校最後の夏休みが始まってしまった。

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