第十一話 市岡凛子

「以前から体質ではあったみたい」


 市岡いちおか凛子りんこさんは、穏やかな声で言った。僕と菅原は、市岡さんとともに苅谷かりや夜明よあけさんの病室にいた。個室に入院しているとはいえ一回の入室には人数制限があるらしく、実の父親である久秀ひさひでさんと、響野憲造は部屋の外で待機している。

 市岡さんの白くて華奢な指が、清潔なベッドの上で目を閉じる少女──苅谷夜明さんの額を優しく撫でる。僕の目には、夜明さんは本当にただ静かに眠っているように見えた。数ヶ月に渡って意識を失っている人間には、とてもじゃないけど見えなかった。

 それは、と市岡さんが優しく笑う。サングラスは外していた。登場したタイミングでは少し怖い印象を持ったけど、今は、なんというか、夜明さんに対して親しい仲の親戚のように振る舞っている、話の通じやすそうなタイプに見える。


「あなた、寝たきりの人間の介護をしたことは?」


 問われ、僕も菅原も首を横に振る。まずこの三人で部屋に入りたい、と言ったのは市岡さんだ。僕らとしては菅原を外して久秀さんに一緒に入ってもらっても構わなかったのだけど(だってお父さんだし)、久秀さんは「娘の顔は、もう飽きるほど見てますから」と微笑んで菅原の背中を押した。


「私も義理の祖母の世話をしたのが最初で最後だけど……本当に大変で。義理の祖母には意識があったけれど、は見ての通り昼も夜も関係なく寝たきりでしょう? だからご両親、久秀さんと笹音ささねさんが交代で体を拭いてあげたり、床ずれにならないよう寝返りを打たせてあげたり、それから尿瓶の交換をしたり──」


 夜明さんのご両親が、何を守っているのか。寝たきりの人間の世話をしたことがない僕にも、もちろん菅原にも、なんとなく分かる気がした。尊厳だ。人としての尊厳。夜明さんがある時突然目を覚ましても「おはよう」と明るく迎えてあげられるように、お父さんとお母さんは、できる限り手を尽くしている。


「──憑かれやすい、とは?」


 菅原が、おずおずと尋ねた。市岡さんは小首を傾げ、長身の菅原の目をじっと見詰める。


「その前に、あなた、人間じゃないわねえ」

「あ、分かってしまいますか」

「分かってしまいますよ。私が狐を連れているってことにも、すぐ気付いたみたいだし」


 気付いたというより、知っていたという方が正しいかしら。夜明さんの黒髪を優しく撫でながら、市岡さんは続けた。菅原が首を縦に振る。


「お言葉通り。私は、人間ではありません」

「では何?」

「いい自己紹介ね」


 いいんだろうか。良くない気がするけれど。


「あなたどうせ、うちの神社にも来たことあるでしょう」

「市岡神社。遠い昔に」

「おそらく……もう、あまり、記憶が定かではないのですが」


 菅原の声から覇気がなくなっていく。菅原は、人間ではない。そんなことは僕も承知の上だから別に構わない。僕に出会う前の菅原が市岡神社に足を運んでいた。それには少し驚いたが、何せ菅原は人間ではないのだ。きっと僕の想像が及ばないほどに長く生きている。そのあいだに、神社だとか、お寺だとか、そういう場所を点々としていたとしても、驚くような話ではない。


「苅谷久秀さんは、日本の各地に点在する『神』について調べている学者さんで」


 市岡さんが語り始める。


「今の彼、いくつぐらいに見える?」

「え?」

「は……」


 そんな急に、人様のお父さんの年齢当てクイズを出されても。「坊ちゃん私人間の年齢分かりません」と耳打ちしてくる菅原の代わりに「50歳ぐらいですかね」と当てずっぽうを口にする。長女の夜明さんが14歳の中学生だから、父親の久秀さんはもう少し若いかもしれないけど。


「ハズレ」


 市岡さんが一蹴する。


「正解は還暦、ちょっとすぎ」

「えっ」

「えっ」


 そうなの? それにしてはものすごく若く──光臣と同じぐらいに見えたけど。


「あの人は、それこそあなたぐらいの年齢の頃から自身の研究をずっと続けていて。それも文献を紐解くだけじゃ気が済まず、各地の大学の研究室に友人を作り、そこに居候という形で籍を置き、気になった『神』の逸話がある土地に足を運ぶという研究方法を続けていた」


 苅谷夜明さんが転勤族のおうちの娘さんだというのは──


「そういうこと。本来なら妻子はどこか決まった土地に残して、自分だけが『神』を探して各地を飛び回れば良かったのかもしれないけれど……苅谷一家は仲が良くて」


 それは、なんとなく分かる。夜明さんには小学生の妹がいるんだっけ。きっと、仲良し姉妹だったんだろうな。


「だいぶ年下の笹音ささねさんと一緒になって、よっちゃんが生まれて。その後も苅谷一家は家族総出で『神』の伝承を求めて日本中を飛び回った。うちの神社に顔を見せたのも一度や二度じゃない。すっかり常連よ。でも、そのお陰で分かったことがある」

「憑かれやすい体質、ですか」


 菅原が尋ね、市岡さんは頷いた。


「そう。市岡の狐は女性にしか懐かない──血筋を無視して、市岡を名乗る女だけに力を貸す」


 だから、市岡神社の宮司は女性なのか。


「その狐がよっちゃんに夢中になって、一年ぐらい前だったかな。大変だった」

「狐憑き、という……?」


 今度は僕が尋ねる。市岡さんは首を横に振る。


「狐憑き、という言葉から何を連想してる? 精神錯乱? もしくは予言の言葉を口走ったりとか?」

「うっ……」


 そう。そういう連想をしてた。市岡さんは薄く笑う。


「全然違う。市岡神社の狐はね、いつもを探してる」

「え?」

「話すと長くなるし、私も嫁入りしてこの立場になった身だから又聞きのエピソードでしかないんだけど──市岡神社の始祖は、腹に子どもがいる雌の狐を殺して式神にした。だから、市岡の人間の周りには、常にその殺された狐の夫に当たる雄の狐が付き纏っている」


 つまり。


「その雄の狐が……夜明さんに何か、良くないことを……?」

「そこまで悪化はしなかったけど、毎晩狐の声が聞こえるとか、夢の中で狐っぽい男に求婚されるとか、変なことは色々起きてたみたい。だから」


 と、市岡さんはおもむろに夜明さんの小さな頭が乗っている枕の下に手を突っ込み、何かを引っ張り出した。

 お札だ。

 真ん中で引き裂かれたものをテープで補修した、一枚のお札。


「これを持たせておいたんだけど」

「狐の匂いがします」


 菅原が呟いた。そうでしょう、と市岡さんは微笑んだ──ひどく剣呑な笑みだった。


「狐に仕事を与えたの。よっちゃんを守るっていう仕事を。よっちゃんをお嫁さんにすることはできなくても、失った子どもの代わりに守ることはできるでしょう、って」


 その、お札を。

 誰かが破った。

 いったい誰が──なんて。今更考える必要もない。


「情報交換をしない? 錆殻光臣の甥っ子くん」


 市岡凛子さんは、どうやら最初からそのつもりだったらしい。返答に迷う僕の肩を菅原が強く掴んだ。

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