宏《ヒロシ》

「宏おじいちゃん!」


 ノックもなく希於キオは宏の部屋に飛び込んだ。


「何の用だ?」


 PC机に向かっていた宏は軽く目線を扉に向け、すぐにまたディスプレイに戻した。眉間に刻まれた皺は老いのためか、生来のものか。


 希於キオは宏の無愛想な声を気にすることなく、とことこと近づく。左脇からひょこっと顔を出して、斜め下から宏の顔を覗き込んだ。


「ミケちゃんを治してくれてありがとう!」


「ふん、俺の専門は頭脳ソフトウェアだ。駆動部ハードウェアの修理は専門外だ。……ったく、直ったから良かったが――」


「おじいちゃん、大好き!」


 宏の仏頂面を気にすることなく希於キオが抱きつくと、宏の座っていた回転椅子が、ぎぎいと軋んだ。

 宏はまだ介護の必要がなく自立した生活を送っているが、七十をいくつか超えた痩せぎすの体もまた、ぎぎいと音が鳴りそうだった。彼は眉根を寄せたが、しかし何も言わなかった。


 希於キオはちゃっかりと宏の膝に納まると、宏を見上げて、にこりと笑う。


「ねぇ、おじいちゃん、お話して!」


「他をあたれ。ここは暇人ばかりだから大歓迎だろう」


「おじいちゃんがいい! おじいちゃん、アキラの話をして!」


 頬を紅潮させてせがむ希於キオに、宏は少しだけ困惑した表情を向けた。


 彰は宏の一人息子である。妻に先立たれた宏にとっては、たった一人の身内であるが、もう十数年も音信不通だ。

 ゲーム会社を興して一旗上げてやると大見得切ったものの、あっという間に倒産させ、行方をくらませたままなのだ。そろそろ四十に手が届く歳になるというのに、一向に連絡を寄越す気配もない。


 希於キオは彰の子供時代――とくに自分と同じくらいの歳の頃――の話を好んで聞きたがった。


 しばらくぶつぶつと言っていた宏であるが、やがていつものように、わざとらしく大きなため息をついた。


「また彰の馬鹿話、かぁ? ダブルクリックが出来なくて悔し泣きしてたとか? 電脳ヴァーチャルペットの犬に『いぬ』と名付けてたとか?」


「聞きたい、聞きたい!」


 希於キオが身を乗り出して叫んだとき、部屋の扉がノックされた。宏が誰何すいかすると、美希だという返事が来た。


「すみません。希於キオがまたお邪魔して」


 三角巾の頭を深々と下げた。薄化粧で地味な印象の美希は、三十半ばという実年齢より少し老けて見える。

 お迎えが来てしまった希於キオはむくれつつも、とことこと美希のもとへと行った。


 宏は美希を見て、微妙に口元をほころばせた。


希於キオは老いぼれども相手に、いい仕事してるな」


 美希は一瞬、目を見開き、それから戸惑いがちに愛想笑いをした。希於キオは首をかしげて美希と宏を見比べ、困ったような顔をしてから、にこりとした。


 会釈して部屋を出ようとする美希に、宏が声をかけた。


「美希さん、チョコ持って行かねぇか? 俺一人じゃ食いきらねぇし、溶けかけたのをいつまで置いとくのもなんだからな」


 サイドテーブルを指差す。そこに飾られた写真の前にチョコが積まれていた。一口サイズのチョコがキャンディのように一つずつ包装された、一口チョコと呼ばれるものである。


 宏はそれらを無造作にビニール袋に突っ込むと、美希に押し付けた。


「奥様はチョコがお好きだったのですか?」


「あれは好きというより、中毒者ジャンキーだったな。あいつは職場の元同僚だったんだが、開発コーディングに行き詰ると一口チョコをガリガリやるんだわ。直接、手で触らなくていいからキーボードを汚さずにすむ、とお気に入りだった」


 吐き出すように宏は言う。


「で、不摂生がたたって俺より先に死にやがった……」


 美希は何とも言えない顔で相槌を打った。


 希於キオを伴い退出する美希の後ろ姿に「ま、美希さんもチョコの食いすぎには注意しろよ」と笑いながら宏は言った。


 ぱたん。


 閉じられた扉に向かって宏は小さく独りごつ。


「……希於そいつはチョコを食えんだろうからな」

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