メンタリック・ガラス

有未

序章【捨て去れ、興味無き事柄を】

 冷えた空気が室内に入り込んでいる。そう思い、俺は心の内で舌打ちをした。長い冬が始まった。否、季節はどれもほぼ同じ期間なのかもしれないが、俺にとっては冬が最も長く感じる。主観極まるものだろう。分かってはいても、薄暗い灰色の空が一日中、晴れない――そんな日が一週間も続けば気持ちも空と同じ色に染まるというものだ。朝も昼も夜も冷え冷えとした寒気に包まれ、時には雪がチラつく。冬は嫌いだ。


 朝の気温が零度、或いはそれ未満になるようになった十二月の初旬。早朝。俺はいつものようにパソコンを起動した。同じくいつものようにメール・チェックをする。まあ、大体はダイレクト・メールだ。意味を持たないそれらを眺め、更にいつものようにゲームを起動しようとした、その時。一通のメールのタイトルが俺の目を引いた。それにカーソルを合わせる。ウイルス・バスターを入れてあるパソコンということもあり、そこまでは警戒せずに俺はそのメールを開いた。






 “魂の修復、承ります。


 初めまして、優二様。突然の連絡をお許し下さい。


 私は、メンタリック・ガラス職人の優一と言います。このたび連絡をさせていただいたのは、他ならぬ貴方にお願いしたいことがあるのです。


 今回、貴方を選定させていただくにあたって一定期間ではありますが、貴方を観測させていただきました。結果、こちらの採用基準を遥かに高い値でクリアしていることが判明しました。ここまでの方はなかなかいらっしゃらない為、私としましては是非に貴方にあることをしていただきたいのです。


 働きやすい職場環境、充分な報酬、定期的な休日。これらをお約束致します。具体的な仕事内容に関しましては、お会いして直接お話したく思っております。


 ご興味を持っていただけましたら、このメールにご返信下さい。お返事いただけることを願っております。”






 はあ、と溜め息が洩れた。こんなもの、溜め息をつかずにいられるか。俺は肩透かしを食らった以上に失望した気持ちで、そのままそのメールを削除した。簡単なことだ。興味の無いものは全てこうして削除して行けば良いのだから。人生なんて、そんなもの。どんなに綺麗事を言われようと、それが俺の真実だ。


 さて、今日もモンスターとの戦いに繰り出そう。俺は、そう思考を瞬く間に切り替えてゲーム画面を見つめた。






 判を押すような毎日が繰り返し、繰り返し流れて行く。昨日は今日、今日は明日。明日の明日も、きっと今日。だが、俺はそれでささやかに幸福だった。確かに幸いが心の内側に息づいていた。


 俺はきっと、人間として優秀な方では無いだろう。コミュニケーション能力、情報処理能力、運動能力。どれも俺には縁が無い。出来る限り家にいたい。出来る限り人と関わりたくない。人と関わることは疲れる。精神が摩耗する。分かり切ってしまっているのだから、最早、俺は世界の誰とも関わりたくないのだ。そうは言っても山の奥深いところで原始生活をしたいのかと問われると、それは首肯出来ない。文明の利器は必要だ。雨風を凌げる家も必要だ。人の生活は人が支えている、そんなことを説いて来た奴も昔はいた。分かっていない。そういう美しい表面上の理論を俺が聞きたがっている、或いは知らないとでも思っているのだろうか。とんだ愚弄だ。


 俺は今日もいつもと同じようにパソコンを起動し、メール・チェックをする。そう、いつもと同じだ。変わらないことがどれほどに俺を安心させているのだろう。数々のダイレクト・メールを擦り抜け、俺は今日もやはりいつもと同様にモンスターを倒しにフィールドへと向かう――その筈だった。


 ひょい、というような気軽さで以て一通のメールが新たに届いた。受信トレイの一番上に座するそのメールのアドレスに、俺は見覚えがあった。そして、溜め息が洩れる。俺はメールを開けずにそのまま削除を実行する。すると、またも新着メールが一通、届いた。たった今、削除したメールと同じアドレスからだ。連続で来たのか?


 不審に思いながらも、俺はそのメールを開いた。何故、開いてしまったのだろう。単なる気紛れに過ぎない、興味など、ある筈が無い――俺は自分に言い聞かせるようにしながらメールの文面を読んだ。






 “魂の修復、承ります。


 こんにちは、優二様。このたびはご連絡を失礼致します。


 五日前にお届けさせていただいたメールですが、読んでいただけて光栄至極にございます。その後の貴方様の行動もこちらの期待を裏切ることの無いもので、私としましては非常に感動致しました。やはり貴方は選ばれし存在に間違い無いと、確信致しました。


 つきましては、貴方様にしていただきたいことについてお話したいと願っております。本日、逢魔が時にそちらにお伺い致します。どうぞよろしくお願い申し上げます。”






 はあ、と以前同様に溜め息が洩れた。こんなもの、溜め息をつかずにいられるか。なーにが選ばれし存在だ。人を勝手に選んだのはそっちだろうが。理由の後付けも甚だしい。俺はメールを開いたことを深く後悔しながら、削除を実行した。今度こそ、新しいメールは来なかった。俺は安堵し、いつものようにモンスターと戦うべく、フィールドへと旅立った。






 腹が減ったな、とパソコン画面から視線を剥がす。外はもう夕暮れ時らしく、申し訳程度に引っ掛かっている薄汚れたレースのカーテン越し、真っ赤な光が部屋を照らすようにして皓々と燃えていた。確か半額で買ったパンがあった筈だと、俺は椅子から立ち上がる。ぎぎ、と乾いた音が鳴った。


 ――不意に眩暈が俺を襲った。ずっとモニターを見てゲームをしていたせいだろうか、軽い立ち眩みだろうと俺は部屋の壁に片手を当てて、眩暈が治まるのを待った。一分程、経っただろうか。ゆっくりと眩暈は治まって行き、俺は軽く息を吐いた。そうだ、パンを取りに行くんだったなと思い出し、俺は下がっていた視線を台所へと向ける。


「何だ、これ」


 思わず、声にしていた。そこには見知らぬ風景があった。厳密には、見知っているものが訳の分からないものに浸食されている。いつもの俺の家の台所、いつもの廊下。それらには、光り輝く謎の物体が幾つも幾つも生えるようにして張り付いていた。


 いやいやいや、と俺は自らの内側で思う。こんな風景は知らない。そうか、目にゴミでも入っているのかもしれない。俺は何度も瞬きを繰り返してみた。しかし、目に見えているものは変化がなかった。


 俺は恐る恐る台所に近付いてみた。シンクや冷蔵庫にくっ付いているものは一体、何なのだろうを手を伸ばす。ひんやりとした、温度。ああ、これはあれだな、昔に家族と行った自然博物館にあった鉱石の標本。紫水晶とか琥珀とか雲母とか。俺は遠い思い出を思い出した。確か透明な水晶の標本を親に買って貰った記憶がある。もう何処に仕舞ったかも分からないが。それはそれとして、何故、台所に鉱石が生えているのだろうか……俺はふと、頭上を見上げてみた。そこにはびっしりと、白い何かが垂れ下がっている。鍾乳石だ。やはり昔、理科の教科書で見た覚えがある。それはそれとして、何故、俺の家の天井に鍾乳石が生えているのだろうか……。


 寝てしまおう。俺はそう思い、部屋に戻ろうと踵を返した。すると其処には人間が座っていた。燃えるような西日を背景に、正座している誰かしらが俺の部屋にいる。何だ、これ。誰だ、こいつ。俺は思考回路をフル稼働させるべきなのか、停止させるべきなのか思いあぐねて中間を選んだ。こいつを追い出して、寝てしまおう。俺はそう決意して、思い切って目の前に座っている人間に声を掛けた。


「あの、ここは俺の家です。不法侵入はやめて下さい。出て行って下さい」


 すると、俺の言ったことを聞いていたのかいないのか、


「お約束の時間になりましたので、ご訪問させていただきました」


 と、目の前の人間は抑揚の無い声で言った。


 はあ、と心の中で溜め息が洩れる。話が通じない奴かもしれない。そもそも、どうやってここに入ったのか。俺は玄関扉の鍵を掛け忘れていたのだろうか。


「もしかして、お分かりになりませんか。今朝のメールにて、ご案内させていただいたのですが」


 メール? ああ、いつものようにダイレクト・メールが来ていたな、と俺は思う。そういえば、その後に来たメールがあった。それは削除した筈だ。内容など、俺が覚えている筈も無い。


 一体、今、俺は何を考えるべきなのだろうか。そういえば、黄昏時の光に照らされた俺の部屋がこんなにも美しく見えるのは、台所同様にあちこちに生えた水晶のような鉱石のせいだと気が付く。織り重なるようにして部屋の随所に現れた鉱石らは、太陽の赤い光をそれぞれに反射してハレーションを起こしている。


「私は、メンタリック・ガラス職人の優一と申します。貴方様は優二様で相違ないでしょうか」


 やはり抑揚の無い声で、目の前に座っている人間が言った。


「本日は是非、貴方様にお願いしたいことがございまして、ご訪問させていただきました。まずは、こちらの書類をご覧下さい」


 いやいやいや、と俺は思う。お前が誰であろうと何の用事を持っていようと俺には一切、関係無い。とにかく即刻、立ち去ってほしい。出て行ってほしい。俺はもう、何もかも無かったことにして寝てしまいたい。そう、俺は眠りたいのだ。


「出て行って下さい」


 俺はそう言って、通路を空けた。さあ、出て行ってくれと。どうして俺以外の人物が俺の部屋にいるのだ。不愉快極まりない。俺はこれからひと眠りしてパンを食べたら、再びモンスターとの戦いに向かうのだ。邪魔しないでほしい。


「貴方には、断る権利は無いのですよ」


 不意に何かが俺の目の前に差し出された。


「さあ、これを良く見つめてみて下さい。見覚えある筈ですよ」


 俺は不審に思いながらも、その人間の言葉に導かれるようにして目の前の石のような物を見つめた。蜂蜜色の小さな物体の中に、何かが閉じ込められるようにして入っている。俺は目を細めた。


「智也!」


 俺は思わず、その石を手に掴んだ。


「そう、貴方のご友人ですね」


 淡々と、目の前の人間が言う。それは俺に言っているというよりも、何処か独り言のようにも聞こえる。


「大丈夫、生きていますよ。呼吸などは必要ありません。そこでは時間は止まっているのです」


 最低限の声の重さで目の前の人間は話す。


「どうです、彼を助けたくありませんか?」


 俺は、声の主の方を見た。


「交換条件です。貴方のご友人を助ける代わりに、私の願いを聞いてほしいのです。問題ありません、貴方にならば出来ます。メールに書きました通り、快適な環境を提供致します」


 白昼夢でも、見ているのだろうか。今は夕方の筈だが。俺がおかしいのか、この人間がおかしいのか。レースのカーテン越し、ガラス窓の向こう側で、てらてらと夕日が燃えている。その光が部屋に入り込み、無数に生えた水晶の群れを輝かせる。その赤い光は俺の焦燥を煽り続けていた。


 この非現実的な現状に目を閉じてしまいたかった。眠りに落ちて、そして何も無かったようにして起きて。いつものようにパソコンを起動して、ゲームを起動して。俺だけの部屋で。だが、俺の手の中にある琥珀色の石の中に再び目を落とすと、そこには確かに俺の友人、智也がいた。小さくなった智也は両目を閉じ、力無く両腕をだらりと垂らしている。俺は、これを見なかったことには出来ない。


「何を、すれば良いんだ」


 俺の言葉に、目の前の人間がゆらりと立ち上がった。


「そう言っていただけると思っていました。何しろ貴方様は選ばれた人間なのですから。私は優一。以後、お見知りおきを」


 優一という男性は俺に片手を差し出して来る。握手だろうか。冗談では無い。


「用件を言えよ」


 俺は端的にそう告げる。すると優一は懐から、かさりと一枚の紙を取り出した。


「こちらの書類をご確認下さい。ご納得いただけましたら、ここに記名を」


 薄暗い室内。だが、西日と水晶が共鳴するかのように室内で弾けている。俺はその光を頼りに差し出された書類へ目を通した。






 契約書


 私は下記の内容を確認の上、全てに同意します。


 1.メンタリック・ガラス工房に所属し、定められた一定の期間において、定められた職務に就きます。


 2.職務を全うするまでを契約期間とし、それに全力で取り組みます。


 3.メンタリック・ガラス工房の財産を持ち出しません。






 書類には三つの条件が書かれていた。しかし、肝心の何をするのかは書かれていない。こんな訳の分からない物にサインなど出来る筈も無い。だが。そこまで考えた時、優一が細身のボールペンを差し出して来た。まるで、そうするのが自然だというかのように。


「お使い下さい」


 俺はサインするしかないだろうと思った。普段ならば、こんな得体の知れない物に自分の名前を書くことなどしない。絶対にだ。だが、今回は違う。友人の、智也のことが懸かっている。一体、どうやって智也を石に閉じ込めたのか知らないが、俺がここで引く訳には行かなかった。


 俺は自分の名前を書きながら思う。ここまで全部、俺の見ていた夢でしたで終わったならばどんなにか良いだろうと。部屋には俺以外、誰もいなくて。水晶なんか、存在しなくて。智也だって、元気にしている。だから俺はいつものようにパソコンに向かっていられる。そうだったら、どんなに良いか。


「確かに、いただきました」


 俺がサインした書類を優一に渡すと、微かにだが彼は微笑んだ。そんな気がした。


「では、参りましょう」


 くるりと優一が俺に背を向けて、窓に手を翳す。西日の光が一層のこと、強くなる。太陽が迫って来ているのかと思うほどに輝きは強まり、目が開けていられなくなる。俺は智也の石を持つ手に知らず力を込めていた。






 ――俺は、まるで夢と現実とを行ったり来たりしている感覚になっていた。お前は精神を病んでいるよ、そう言われたら、そうかと納得しそうなくらいには混乱していた。昨日も今日も明日も明後日も、同じような日の繰り返し。そう思っていた俺の日々は簡単に壊れてしまった。


 優一という人間は掴み所が無く、俺は極力、関わり合いたくなかった。しかし彼と契約を交わしたあの日から、俺は毎日、優一と会っている。日が暮れ始めると、俺の部屋には水晶が蔓延るようになった。そして、その水晶が西日の真っ赤な光を反射する。すると、彼が現れる。何処からともなく、だ。微かな音も無く優一は現れ、では行きましょうと、いつも同じ言葉を吐いて俺を此処まで連れて来る。


 此処はどうやら工房らしい。工房なんてゲームの中でしか聞いたことが無い。一体、何をしている場所なのかは知らないが、どうせ碌なことじゃないだろう。俺の友人を盾に取って、俺に言うことを聞かせようとしている奴の内情など知りたくもない。早く智也を元の姿に戻してほしい。


 だが不思議なことに、俺があの日、最初の日の職務を終えて自宅に戻った翌日、智也の家を訪ねてみたら其処に智也はいたのだ。外出するのに勇気の必要な俺が、智也の身を案じて頑張って訪れたというのに、智也はきょとんとした顔で俺を見て言ったのだ。


「あれ、家まで来るなんて珍しいね。遊びに来たの?」と。


 俺は非常に気が抜けた。狐に化かされているかのような気持ちで俺は帰宅し、やはり夢でも見ていたのだろうかと思ったが、机の上で蜂蜜色の光を放つ石が存在を主張しているのを見て、夢では無いのだと思い知った。そして、その石の中には依然として智也の姿があった。目を閉じて、ぐったりとしている智也がそこにいた。一体、どういうことかと優一に問い質してみたら、簡単な仕組みですよと彼は言った。


「この石の中にあるのは智也君の本質とでも言うべきものです。現実に生きて歩いている、人間の外側、身体としての智也君は今もこれまでと何一つ変わらないまま生活していますよ。ただ、此処に入っているのは人間の内側、心と言い表せるものです。心を失った人間はどうなるのか? 徐々に体も弱って行きます。病は気からという言葉があるように、体と心は表裏一体、非なるものでありながら似ているものなのです。互いが互いに干渉し合う。貴方が智也君を助けたいと思うのならば、なるべく早く職務を全うすることです」


 優一は、そう言っていた。


 俺の職務か……と、俺は手元のノートを開いた。今日の日付と時刻を書く。その時、くんっと俺のシャツの裾を引っ張られて俺は振り向いた。


「ねえねえ、今日は何して遊ぶの?」


 俺とは身長が違い過ぎるその子供を、俺は自然、見下ろす形になる。俺が黙っていると、尚も子供は繰り返した。


「ねえねえ、何して遊ぶの?」


 俺はもう、大声で喚き散らしたくなってしまう。そもそも俺は子供の扱いなど知らない。やったことも無い。そして、俺は一人でいることが好きなのに、此処に来ると必ずこの子供がいて俺に話し掛けて来る。


 優一が俺に与えた職務とは、この子供の観察日記を付けることだった。加えて、この子供の相手をすることだ。俺は一体、どうしたら良いのだろう。此処に来るようになって今日で三日目。早くも投げ出して帰宅して眠り込んでしまいたくなっている。俺が思い留まっているのは、智也のことがあるからだった。それだけだった。


「ねえ。今、面倒くさいなって思っているでしょ」


「別に……」


 この子供は聡いのか、時にこうして俺の心を読んだかのような発言をする。


「私のお話を聞いてよ」


「はあ……」


 そして、放っておけば何かしらして一人で遊んでいるが、飽きて来るのか、俺の元に来て「お話」を始めるのだ。その話の内容が、子供がするには似つかわしくないように俺には思える。意味不明な話のようでいて、何処か――何かを連想させるようなものである為、俺はそれが奇妙に思えてならない。不気味だ。それに尽きる。


 子供は未だに俺の両目を無遠慮にじっと見ていて、俺はどうにも居心地の悪さを覚える。しかし、職務を全うしないと智也の心とやらは返って来ないのだろう。俺は頭をがりがりと掻いて思考する。


 優一は、俺が此処に来た初日に簡単に工房の中を説明した。此処には触らないでほしいとか、此処に日記帳を仕舞っておいてほしいとか、そういうことだ。その一つとして、お茶は毎日補充しますのでご自由にどうぞというのがあった。別にお茶を用意して貰ったからといって優一への不信感や警戒心が和らぐことは無い。


 だが、利用出来るものは利用させて貰う。俺は綺麗に並んでいる紅茶のティーバッグをマグカップに入れて、お湯を注いだ。


 ああ、苛々する。俺は心穏やかに過ごして行きたいだけなのに。優一という奴は何者なんだ。いや、優一が何処の誰であろうと構わない。俺は智也を無事に返して貰えれば良いのだ。しかし、俺の職務とやらは一体いつ、終わりを迎えるのだろうか。苛立ち紛れに紅茶のティーバッグをじゃばじゃばと上下に揺する。お湯に滲み広がって行く紅茶の色の様子が、まるで俺の不安のようだった。


「ティーバッグはそんなに動かしちゃ駄目なんだよ」


 気が付くと、例の子供が俺の足元にいて俺の持つマグカップを見つめていた。


「じいっと置いておいて、最後にくるってひとつ回して終わりにした方がおいしくなるんだよ」


 紅茶。言外にそう言って、子供は俺の顔に視線を移した。


 俺は何も答えずに、ティーバッグを引き上げてゴミ箱に捨てた。そのまま紅茶を飲む。別段、おいしくは無かった。だが、そんなものを俺は求めているのでは無い。ただ喉が渇いたのと、頭と心を落ち着ける為に何か飲みたかっただけだ。


「私も飲みたいなー」


 子供が未だに俺を見上げたまま、言った。


 俺は無意識に眉間に皺が寄ったのを感じた。溜め息をつきながら、俺は工房の片隅に置かれた小さな冷蔵庫を開け、牛乳を取り出した。それをコップに注いで子供に渡す。


「わあ、ぎゅーにゅーだ。ありがとう」


 子供はそう言って、ごくごくと音を立てて牛乳を飲んだ。


 俺はいつもの木製の椅子に座って、マグカップをテーブルに置いた。ごとり、と思いの他、大きな音が工房内に響く。すると、追随するように子供が俺の隣の椅子によじ登るようにして座った。にこにこ、と子供は邪気の無い様子で俺を見て笑っている。俺はもう、訳が分からなくなって叫びたくなる。しかし、それを堪えて日記帳を開いた。子供の様子を書き留めておく為だ。子供はコップに残っていた牛乳を飲み干すと、今日はね、と話し始めた。

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