第38話 逃走

 玄関に置かれていた傘をさし、門を出た。

 門番をしていた二人の神父の視線を背に受けながら、早歩きで宿へと向かう。


 さて、どこから逃げるべきだろうか。目だけを動かして辺りを見る。

 正面からは難しいだろう。だからといって、柵を越えるのも問題だ。

 私とセキヤなら大丈夫かもしれないが、まず間違いなくヴィルトは時間がかかる。ルクスも……私とセキヤよりは時間がかかるだろう。

 バレなければそれでいいのだろうが、もし見つかった時にはそんな時間はないはずだ。

 そうとなれば、やはり半ば強引にでも正門から逃げ出すべきだろうか。


 宿に近づくにつれ、妙な動きをする住民が目についた。

 フードを被った祭服の男が、水が跳ねることも気にせず慌ただしく走っている。

 その先には、祭服を着た一組の男女が待っていた。

 只事ではない雰囲気だ。咄嗟に近くの木に身を隠し、傘を閉じて覗き見る。


「どう!?」

「駄目だ、どこにもいない」


 女の問いかけに、息を乱しながら走っていた男が報告する。

 もう一人の男と女は顔を見合わせた。女は舌打ちをし、男は拳を握りしめる。


「くそっ、だから世話役にするのはやめとけって言ったんだ! あの女の娘だぞ、こうなるのは目に見えてただろうが!」


 息を整えた男は顔を上げ、納得いかないとばかりに近づいた。


「そういうお前も最後には納得してたじゃないか。二の舞にはなりたくないだろうって!」

「ちょっと、喧嘩はやめて。他の三人……いえ、一人は謁見中だったわね。二人だけでも連れていきましょ」


 ふー、と息を吐いた男は頭を押さえた。

 謁見中の一人とは私のことだろう。

 それで二人となると……誰かが、ローザと共に逃げた?

 真っ先に浮かんだのはルクスだった。

 だとすれば、セキヤとヴィルトが危ない。


「仕方ない、そうするしかなさそうだな」

「これで天使様に満足していただけるといいのだけど……」


 三人は宿に向かって歩き出す。

 傘を捨て、私も別の道から宿へと駆け出した。

 まずい。一人贄が逃げ出したせいか、これ以上逃さないよう前倒しにされかけている。

 こうなったら、事が大きくなる前に無理矢理逃げ出す他ないだろう。

 あの三人を相手取るよりも、一秒でも先にたどり着くべきだ。

 フードを被った住民はそれなりの数がいた。既に他の誰かが向かっている可能性もあるのだから。


 ぬかるんだ地面のせいで少し走りにくい。

 こんな時ばかりはパノプティスの整備されきった道が恋しくなる。


(セキヤ、ヴィルト。どうか無事で……!)


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ベッドに腰掛けたまま窓を見つめる。

 相変わらず雨は降り続いていた。

 雨音の中の読書は嫌いじゃない。でも、もう物語が書かれた木板は読み尽くしてしまった。

 荷物の整理も終わってしまったし、やることがない。


 ゼロもまだ戻ってきていないみたいだ。ルクスさんはローザさんに連れられて外に出ている。

 隣の部屋にセキヤはいるだろうし、話でもしに行こうか。

 退屈さに息を吐いたとき、ガチャリと扉が開いた。


「来てもらおうか」


 低い声がして振り返ると、一人の男が立っていた。

 男の髪からぽたぽたと雫が垂れては床に落ちる。

 その手には、短剣が握られていた。


(どうして? なんで……)


 その切先を見て、一瞬思考が止まった。

 男は刃を向けたまま、ゆっくりと近づいてくる。


「お前には天使様の贄となってもらう」

「に、贄? それは、どういう」

「だから、天使様への贄だよ。奇跡のために、その身を捧げてもらう」


 立ち上がり、後ずさる。

 天使への贄。贄って、つまり……殺されるということ?

 ぐるぐると頭の中で言葉が回る。


 そうだ、セキヤはどうしているのだろうか? この事態に気づいているのだろうか? いや、もしかしたらセキヤも同じように襲われているのかもしれない。

 彼なら、どうにかできるだろうか。もしそれなら彼が来てくれるまで……それまで持ち堪えることができれば、どうにかなるはずだ。

 どの道、他に方法も思いつかない。俺にできる精一杯のことをするしかない。

 そろりと伸ばした手で枕を掴む。


「いいか、じっとしてろよ……ッ!?」


 近づいてきた男に、掴んだ枕を叩き下ろす。

 枕の端を掴んだまま、ぶんぶんと振り回した。

 相手は俺より身長が低い。こうしているだけで、牽制にはなるはずだ。

 ゼロに言われていた通り、何も考えずひたすらに腕を振る。

 男は腕を持ち上げ、頭を守りながら声を荒げた。


「なんだ急にッ」


 手応えはある。

 このまま、セキヤが来るまで耐え抜けられたら。


「暴れるな!!」


 男が叫んだ瞬間。

 ずぶり、と。

 何かが体内に入り込む感覚がした。

 その直後、焼けるように熱くなる。見れば、腹に鈍色の刃が突き刺さっていた。

 力が抜けた手から枕が落ちる。


「ああっ、くそ! お前が抵抗するからだぞ……大人しくしやがれ!」


 引き抜かれた傷口が熱い。熱くて、痛い。こんな痛みは初めてだ。

 押さえた傷口からどくどくと血が溢れる。

 男は俺の体を押さえ込んだ。

 駄目だ。このままじゃ、駄目だ。

 大切な人も何も守れないまま死ぬなんて、嫌だ。


 何を躊躇う必要がある? 今更だろう。

 人と植物の差はあれど、既に一度やったことだ。

 今になって、誰かを傷つけることから目を背けるのか?


 何かを捨てなければ、人は強くなれない。

 きっとそういうことなのだ。


 傷口に当てた手に意識を集中する。

 今こそ、真に誓いを破る時だ。

 手を包んだ青い光が、俺と男の体へと注ぎ込まれる。


「なんだ!? う、ぐぅ……ッ」


 腹の痛みを感じなくなると同時に、男が腹を押さえ体勢を崩す。

 大した傷にはなっていないはずだ。ほんの一瞬の隙にしかならない。

 ほら、あと一歩。それで俺は生まれ変われる。


 カランと男の手から落ちた短剣を握る。

 心臓の鼓動がうるさいのに、頭が痛くなるほど静寂で。

 震える手で握りしめた刃を振り上げたとき、開かれた扉の向こうから銀色の風が吹いた。


「大丈夫ですか」


 あっという間に男を組み伏せた赤い目と視線が合う。

 その顔を見た瞬間に、体から力が抜けた。

 強く握りしめていたはずの短剣は床に落ち、足に力が入らなくなる。座り込んだ俺を、ゼロは微かに焦燥した顔で覗き込んだ。

 視界の端には男が倒れている。


「刺されたんですか? 見せてください」

「……大丈夫」


 荒くなった呼吸を落ち着け、首を振る。


「怪我は、ない」


 どくどくと心臓が暴れている。冷え切っていた指先から熱が戻ってくるようだ。

 その熱は目の奥まで届き、じわりと涙を滲ませる。

 ゼロの濡れて冷えきった指がそっと涙を拭った。

 直接手を下さなくてよかったと安堵する俺がいる。

 それがなんだか、無性に悲しかった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 一応は間に合った……というところだろうか。

 危ういところだったが、ヴィルトを襲っていた男は無力化した。

 地面に伏した男の意識はない。暫くは目を覚ますこともないだろう。

 座り込んでしまったヴィルトの前にしゃがみ込む。

 彼の青い衣は腹部が裂け、赤く染まっていた。

 これで大丈夫というのも無理な話だろうに、彼は痛がる素振りも見せない。

 腹をよく見ようとしたところで、近づく足音が聞こえた。彼の方も片付いたらしい。


「ヴィルト、大丈夫!?」

「ええ、問題ありません」


 顔を覗かせたセキヤに頷いて返す。

 彼はほっとした顔で近づいてきた。


「ゼロも戻ってきてたんだね。良かった」


 彼の方にも襲撃者はいたようだが、無事に切り抜けたようだ。

 やはりヴィルトの方を優先して正解だった。

 セキヤはヴィルトの腹を見て眉を寄せたが、何も言わなかった。

 私が問題ないと言ったことで、一度見送ることにしたようだ。


「大丈夫なら、今すぐ逃げよう」

「正面から行きますか?」

「まあ、そうするしかないだろうね。荷物は俺が持つよ。ヴィルトは走れそう?」


 セキヤはリュックを背負った。

 ヴィルトに手を差し伸べ、立ち上がらせる。


「大丈夫。走れる」

「では、行きましょう」


 窓からは出られない。

 念のためルクスがいた部屋も見てみたが、姿はどこにも見えなかった。やはり逃げたのは彼ということなのだろう。

 一階に降りると、丁度あの三人組が玄関から入ってくるところだった。


「一人帰ってきてたのね」

「丁度いい、全員まとめて――」


 言い切る前に男の顎を蹴り上げる。

 宙に浮いた男は、一回転して床に落ちた。


「え……?」


 呆然とする女の顔も蹴り飛ばす。

 壁に頭を打ちつけた女はぐったりと首を垂れた。


「クソッ」


 最後の一人。

 床を蹴り、男の懐に潜り込む。

 そのまま腹に肘を打ち込んだ。


「ぐぅッ……!」


 腹を押さえよろけた相手の側頭に蹴りを入れる。

 男は簡単に倒れ込んだ。


「さあ、早く」


 ヴィルトの手を引き、玄関を出る。

 セキヤは男達を警戒し、銃口を向けながら出た。

 そのまま門を目指す。いざ走る時のために、今は温存しておかなければならない。

 私とセキヤはまだしも……ヴィルトにここから門まで、そしてその後も暫く走り続けるというのは酷な話だ。

 ただ、彼の巨体では隠れるにも少し難しい。

 できるだけ家々の影に隠れ、フードを被った住民達の目をかいくぐる。


「いいですか、ここから限界まで走ってください」


 ヴィルトが頷いたのを見て、門に向かって走り出す。


「いたぞ!」

「逃すな!」


 振り返ったセキヤが数発足元を撃って牽制する。

 止めに入ろうとしてきた門番は蹴り倒した。


「止まらないで!」


 三人揃って門を出る。

 ばしゃばしゃと水溜りが音を立てる。

 足をとられたヴィルトが転んだ。


「ヴィルト!」


 セキヤが銃口を向け牽制している内にヴィルトを起きあがらせ、森の奥へと逃げ込んだ。

 咳き込むヴィルトの背を撫でながら、来た道を見る。


「……追ってくるでしょうか」

「どうだろう。長居はしない方がいいかもね」


 息を整えたヴィルトが俯く。


「すまない。足を引っ張ってしまった」

「いいんですよ。無事ならそれで」

「そうそう、気にしないでいいって。それより、本当にそれ大丈夫なの? 走れるくらいなら大丈夫そうだけど」


 腹部を指差したセキヤに、ヴィルトは頷いて返した。


「問題ない。もう、治ってる」


 セキヤと顔を見合わせる。

 彼の力は自分には適応できなかったはずだが……一体どうやったのだろうか。


「その話は後で聞かせてね」

「セキヤ、雨具を」

「わかった。あ、ここからはヴィルトに背負ってもらおうかな」


 セキヤがレインコートを取り出し、リュックをヴィルトに渡す。

 フードを深く被り、道を定める。


「休むのは後です。さあ、行きましょうか」


 追手を警戒しながら暫く進むと、ピタリと雨が止んだ。

 やはり不自然なほどあの集落の周りだけが雨に降られていたらしい。

 ふと気配を感じ、咄嗟に身構える。セキヤも銃口を向けた。

 木の影から現れたのは、両手を上げたルクスだった。


「俺だ、俺」

「……貴方でしたか」


 両手を下げた彼は、茂みを抜けてこちらへ歩いてきた。


「無事に逃げられたら、この道を通ると思って。少し待つことにしたんだよ」

「それはまた、どうして?」

「心配だったからに決まっているだろう? いくら君達の腕を知っているからといって、無条件に楽観視はできないさ」


 肩をすくめたルクスは安堵の表情を浮かべた。


「俺が逃げ出したから、君達に危険が及ぶんじゃないかと思ったんだよ」

「分かってるなら、どうして言ってくれなかったの?」

「俺も今まで知らなかったんだ。ローザさんに連れ出されて、それでようやく……」


 視線を下げたルクスは、ハッとして顔を上げる。


「そうだ、彼女を見なかったか?」

「いえ、見ていませんが」

「そうか……」


 ルクスは何かを言いたそうに目を泳がせた。

 しかし、中々言い出さない。


「何か言いたいことでも?」

「その……これは俺の自己満足でしかないことは分かっているんだが、あの集落をどうにかすることはできないだろうか」

「どうにか、とは?」


 ルクスは言葉を詰まらせる。

 まあ、言わんとすることは分かる。それがどれだけの負担になるかを分かっていて、彼も言い出せなかったのだろう。


「逃げてきたということは、贄についても知っているんだろう? 俺達がいなくなったことで、新たに贄が選ばれることになる」

「救いたい、と?」

「……ああ」


 やはりそうだったか。

 ため息をつく。いくら彼の願いとはいえ、またあの集落へ戻ってまで事を起こそうとは思えない。


「分かっているでしょう。それがどれだけの危険を伴うか」

「それでも彼女を救いたいんだ。彼女は俺を救ってくれた……そのためにはあの集落の慣習からどうにかする必要が」

「私達のことは見放したようですが」

「それは……」


 ルクスは眉間に皺を寄せ、拳を握った。

 深く息を吸って首を振った彼は、私をまっすぐに見つめる。


「いや、確かに君達からすればそうだ。すまない」

「まさか一人で行く、とは言いませんよね」

「俺自身、弱いことは自覚しているんだ。そんな自殺まがいのことはしないさ」


 彼は薄く笑みを浮かべた。

 自嘲するかのような微笑みだ。


「それに俺は一度、引き止めるチャンスを逃した。彼女を見捨てることを選んだようなものだ」

「……そうですか。詳しくは聞きませんが、貴方が身を弁えているようで何よりです」

「すまなかったな」


 謝る彼に、緩く首を振る。


「構いませんよ。それで、私達はもう行きますが……貴方はどうするんですか」

「丁度ここがクレイストとミスキーの分かれ道だからな。俺はミスキーに戻るよ」

「そっか。もう俺達は一緒にいられないんだし、くれぐれも気をつけて」


 ルクスは頷く。


「ああ。普段は診療所を開いているから、ミスキーに来た時には尋ねるといい。俺にできることなら力を貸すよ」


 ルクスは軽く手を振って道の先へ歩き出した。

 重たい足取りだ。やはり未練があるのだろう。

 だが、私達も再び捕まるリスクを背負ってまで戻りたくはない。


「行きましょう、ヴィルト」

「ゼロ……」


 あんな目に遭ってもなお、ヴィルトは救いたいと思っているのだろう。

 だが、こればかりは無理な話だ。

 ローザ一人を救ったとして、そうすればまた他の贄が選ばれるのだろう。

 根本的から覆すには、非常に労力がかかる。

 ヴィルトも分からないわけではないのだろう。黙って私の隣をついてくる。


 クレイストへ続く道を進む。

 この先に私の故郷がある。

 朧げな記憶、その隙間を埋めることはできるのだろうか。

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