五章 幸せな日々は憂いを帯びて
意外な再会
クラウスは、日本で滞在するにあたって洋風の館を借りているということだった。
使用人には、ドイツから連れてきた人たちもいれば、日本で雇い入れた人たちもいる。ドイツ人からは、
だから、実家である
毎朝、目が覚めるたびに宵子は寝具の柔らかさに驚き、視界に映る天井の、白い
(まるで、子供のころのよう。……いいえ、今のほうがもっとずっと幸せだわ……!)
でも、あのころの世界にはクラウスがいない。
レエスやフリルやリボンをふんだんに使った洋装を宵子に贈っては、似合っていると目を細めてくれる、彼。
本を広げては、遥かなドイツの風物──昼なお暗い深い森や、緑滴る
宵子にペンの持ち方を教えてくれて、漢字やひらがなとはまた違う、アルファベットの綺麗な綴り方を教えてくれる、彼。そんな折々に触れる指先の温もり。銀の髪に煌めく光の美しさ。考え込んでいる時には、青い目の色が深みを増して、まるで吸い込まれるよう。
より長く共に過ごすほどに、より多くのクラウスを知っていく。一秒ごとに、愛しさが募る。
想いを寄せる人の間近にいられることの喜び、同じ時間を分かち合うことの幸せは、宵子が知る何もかもを合わせても
でも──いっぽうで不安も募っていくのだ。この幸せがいつまでも続くのだろうか、と。
* * *
その日、クラウスは宵子のために医者を呼ぶのだと言った。
父や
(お気持ちは、とても嬉しいけれど……)
落ち着かない思いで、ドイツ人の
診察に備えて、今日は胸の前を
例えば、宵子の真っ直ぐで真っ黒な髪を、メイドは黒炭のようだと褒めてくれた。ドイツの昔話に、黒炭のような漆黒の髪に、雪のような白い肌の姫君の話があるのだとか。宵子の容姿はまるでその姫君そのものだと言ってくれたのだ。
ドイツ語と日本語、言葉と紙に書いた文字をごちゃ混ぜに使えば、宵子にもそれくらいの雑談をこなせるようになっていた。でも──
(
日本人の父たちでさえ、犬神様が本当にいることを信じていなかった。クラウスだけでなく、訪ねてくる医者もドイツ人だというし、日本の古い信仰なんて理解できないのではないだろうか。
(ううん、分かってもらえたところで──)
犬神様や呪いの存在を認めたら、クラウスも宵子を気味が悪いと思うのではないだろうか。父たちと同じように、彼女を遠ざけようとするのではないだろうか。
そうなれば、今の幸せは
(そんなことは、嫌……!)
だから、本当のことをすべて打ち明けることはできない。でも、それはクラウスに隠し事をするということ。彼の好意を踏みにじるということ。
(いつまでも隠せるものではないわ。分かっているけど……)
医者でも直せない病気、ということになれば、クラウスはやっぱり宵子の世話をするのを面倒だと思うかもしれない。ただでさえ、彼がいつまで日本にいるのか、どういうつもりで宵子を引き取ってくれたのかも聞けていないというのに。
クラウスは、宵子のことを大切にしてくれているけれど──でも、この先ずっと一緒にいられるとはとても思えないのだ。
(私は、どうすれば──どうなるの……?)
不安と罪悪感に胸を締め付けられて、宵子がスカートの生地を握りしめた時──玄関のほうから、扉が開く音と人の声が聞こえてきた。使用人たちの声に、クラウスのそれも混ざっている。
私的な席で客を迎える時の
宵子は立ち上がり、スカートの皺を指で整えた。窓を鏡の代わりにして髪の乱れがないかを確かめて、客間の扉が開くのを待つ。
(礼儀正しく、にこやかに……!)
クラウスに恥をかかせない振る舞いをしなければ、と思っていたのに。入室してきた医者を見たとたん、宵子は目と口を大きく開けた間の抜けた顔を晒してしまった。
「ごきげんよう、
黄金のような金色の髪に、蠱惑的な翡翠色の目。纏っているのは、
クラウスが招いたという医者は、あの銀の犬を連れていたヘルベルトだったのだ。
(確かに、お医者様だとは言っていたけど……!)
宵子の喉を診たい、と言ってくれたのは、もちろん忘れている。でも、叶うはずがないと思っていた。もらった名刺も、真上家から持ち出すことはできなかったし。
まさか、こんなところで再会することになるなんて。
挨拶することも忘れて目を丸くする宵子に、クラウスが軽く咳払いした。
「……ドイツにいたころからの俺の友人なんだ。その……言葉の不自由な令嬢に出会って名刺を渡した、とは聞いていたんだが。まさか……宵子だったとは」
では、クラウスから話を聞いた時点で、ヘルベルトは宵子だと予感していたのだろうか。
そして、宵子の反応を見て、クラウスは不意打ちで驚かせてしまった、と思ったようだった。どうも気まずそうな、照れくさそうな表情をしている。
(そうだったんですね)
とはいえ、実際に会わせるまでは宵子には言い出しづらかった、というのはよく分かる。
気にしないでください、の意味を込めて、宵子は小さく首を振った。それからヘルベルトを見上げて微笑んで、今度こそ優雅にスカートの裾を摘まむ。異国のお医者様は少し不安だったけれど、すでに見知った人なら緊張を緩めることができそうだった。
改めてお互いを紹介し合い、軽い雑談を躱した後、クラウスは客間から出て行った。
人に見られないようにしっかりとカーテンを閉ざした部屋が、仮の診察室になる。宵子のために、筆記用具も用意してもらったから、意思疎通も問題ない。
宵子の喉や首筋に触れながら、ヘルベルトはにこやかに語る。
「私のほうでも、
ヘルベルトは、どうも口が
(だから、舞い上がってはいけないわ)
熱くなる頬と早まる鼓動をなだめて、宵子は曖昧に微笑むだけにした。クラウスが彼女に夢中だなんて──そんなことは、あり得ないのに。
──今日は、あの綺麗な犬はいないんですか?
照れ隠しのように、宵子は違う話題を紙に綴った。この屋敷に来てどんどん上達した、ドイツ語で。輸入ものの
「診療に犬を連れてくるものではないだろう。いずれ、また会えると思うけどね」
──とても楽しみです。可愛かったから。
「伝えておくよ。あいつもきっと喜ぶだろう。また撫でてやってくれ」
──はい。是非。
あの銀色の柔らかな毛並みを思い出して。宵子が弾んだ筆跡で応えると、ヘルベルトは嬉しそうに微笑んだ。彼にとっても自慢の犬なのかもしれない。
でも──すぐに彼は首を傾げた。
「どうも、異常はないんだよな。痩せているのは気懸かりだが、今後の食事でどうにでもなる。そこは、良いんだが」
翡翠色の目が細められて、宵子の喉のあたりを注視する。犬神様の呪いは、彼女自身にも見えないのだけれど──何となく怖くて、宵子はそっと喉元を掌で隠した。
「舌も声帯も、問題はない──だから、どうして君の声が出せないのか、分からない。申し訳ないことだが」
薄々予感していたことで、隠しごとをしている宵子のほうこそ申し訳なかった。だから宵子は無言で首を振る。鉛筆を持った手は、動かさないままで。
「心因性──気持ちの問題、か? そうなると私の専門じゃないな……」
ぶつぶつと呟きながら、ヘルベルトは手元の書類に何か書きつけていた。草書体のような、文字の切れ目が分からない筆跡は、宵子の力ではまったく読み取れそうにない。
(どうしよう。ほかのお医者様まで呼んでいただくことになったら大変。……打ち明けたほうが、良いのでしょうけど……)
鉛筆を握ろうとしては、何をどう書けば良いか分からなくて手を緩めて。宵子が何も答えないでいると、ヘルベルトは諦めたように溜息を吐いた。
「まあ、結果はクラウスにも伝えよう。悪いところがないと分かっただけでも収穫だ」
ややぎこちなく宵子に微笑んでから、ヘルベルトは控えていたメイドにドイツ語で声をかけた。
「──あいつを呼んできてくれ。そろそろ薬を出すころだろう」
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