あなたをもっと知りたい

 クラウスが馬車の御者ぎょしゃに何と告げたのか、宵子しょうこには聞き取れなかった。本を読んで少し勉強したといっても、言葉は使って見なければ分からないものなのだろう。

 ドイツ語のアルファベットの綴りが実際にはどう聞こえるのか、宵子はほとんど聞いたことがない。まして、外国人同士の早口のやり取りは不思議な呪文のようにしか聞こえない。


 宵子が落ち着かない思いで瞬きするうちに、馬車はゆっくりと動き出した。

 見慣れた街並みは溶けるように後ろへと流れ去り、代わって、知らない風景が現れる。


「一時間もかからない。楽にしていてくれ」


 不安な表情の宵子に気付いたのだろうか、クラウスの青い目が彼女のほうを向いてくれた。


「帰れば、女性の使用人もいる。ちゃんと……ええと、礼儀正しく? 世話をする──させる、か? そのアルゾ──そう、だから安心してくれ」


 整った眉が微かに寄っているけれど、日本語の表現を思い出そうとして頭を悩ませてくれているのが分かる。だから、宵子が不安に思うことなんてない。それどころか、彼の気遣いが嬉しくてならなかった。


(日本語に慣れていらっしゃらないのでしょうに……!)


 微笑んで──宵子が頷くと、クラウスもほっとしたように頬を緩めた。


「眠ると良い。もう怖くないから」


 クラウスの手がおずおずと伸びて、宵子の髪をそっとく。開かない地下室の入り口を叩いたり、闇の中であちこちぶつかったりしているうちに、すっかり乱れて汚れてしまっているだろう。


(そうだわ。私……怖かったの)


 そう認めると、心のどこかがぴしりとひび割れる音が聞こえた気がした。それはきっと、仕方がないと諦めて押し込めていた、彼女の本音が零れ落ちる音。


 声の出せない宵子には、泣き叫んで訴えることはできない。不安も恐怖も、だから誰にも伝わらない、分かってもらえないのだと思っていた。


 でも、クラウスはほかの人たちと違う。聞こえないはずの宵子の悲鳴に、耳を傾けてくれたのだ。


「ど、どうしたんだ? ──泣かないでヴァイネ・ニヒト……」


 ぽろぽろと涙をこぼす宵子を見下ろして、クラウスが狼狽うろたえる。彼の言葉は、やはりすべて聞き取ることはできないけれど──慰めようとしてくれていることは、伝わってくる。


(大丈夫。何でもないんです)


 たとえ声が出せたとしても、この喜びを、この安堵を表現することはできないだろう。──でも、言葉にらないやり方なら? 溢れる思いの欠片くらいは、伝えられるかもしれない。


 ちょうど、曲がり角に差し掛かって馬車が揺れた。よろめいた振りで、宵子はクラウスの胸に飛び込む。はしたない振る舞いに頬が熱くなるけれど、震える手を伸ばして、彼の上着をぎゅっと掴む。


「──っ」


 歯を食いしばる気配。そして、熱いものに触れたかのように、クラウスの手が跳ねる。宵子を、もといた位置に戻そうとしてくれたようだけれど──離れようとしないのを察してか、彼の身体から力が抜ける。


落ち着いてベルーイゲ・ディッヒ──」


 クラウスの声は穏やかで、宵子の背を軽く撫でる腕は優しかった。彼の温もりと、規則正しい鼓動。それに馬車の振動が心地良くて、張り詰めて疲れ切った心を溶かしてくれる。


 クラウスに抱き留められたまま、宵子はいつしか眠りに落ちていた。


      * * *


 気が付くと、宵子の身体はふわふわとして温かいものに包まれていた。

 視界は、いまだ闇の中。温もりに溶けるような心地良さは、少し早く起きた朝、もう少しだけ横になっていられる時のものだ。

 そう、確かに。宵子は寝転がって目を閉じている。


(お布団……? 寝かせてもらったの?)


 暁子あきこ癇癪かんしゃく春彦はるひこの、優しいけれど冷ややかな眼差し。地下室の闇と恐ろしさ──そこから救い出してくれた、銀の髪と宝石の青の目の煌めき。


(そうだ、私──)


 意識を手放す直前のこと。クラウスの胸に縋って涙をこぼした記憶が一気に押し寄せて、宵子は慌てて起き上がった。

 いくら気が動転していたと言っても、とても恥ずかしいことをしてしまったような。まともに話したこともない──そもそも話せないのだけど──娘にいきなり抱きつかれて、あの方はさぞ困惑しただろう。


 改めて周囲を見渡すと、宵子は寝台ベッドに寝かされていた。

 真上まがみ家では、主人一家こそ洋風の様式で生活していたけれど、使用人は昔ながらの布団で寝起きしていた。宵子も、屋根裏部屋の天井の低さもあって、寝台で休んだことはなかった。


(私が使わせてもらって良いの……?)


 自分のことを華族令嬢だなんて思っていない宵子だから、真っ白で清潔な寝具の滑らかさも、雲に沈み込むような敷布団マットの柔らかさもおそれ多いと思ってしまう。

 早く起き上がってご挨拶を、と思うのだけれど──ふと見下ろせば、地下室のほこりで汚れたであろう着物は脱がされて、欧州ヨーロッパの令嬢が着るような、ふんだんにレエスを施した服が着せられている。

 薄く軽い生地は、寝間着ということだろうか。それなら、この格好でうろうろするのは無作法なのかもしれない。


 寝台が置かれているのは、西洋風のしつらえの一室だった。


 枕元の花瓶には百合の花が飾られて清らかな香りを漂わせ、すでに暗くなった窓辺には重たげな緞子どんすのカーテンが揺れている。

 美しい調度の部屋に相応しく、扉の取っ手も磨かれて鈍い金色の光を放っている。たとえちゃんとした格好をしていたとしても、触れるのが躊躇われるほどの眩しさだった。


(ど、どうしよう)


 と、寝具にくるまって途方に暮れている宵子の耳に、人の声が届いた。扉の外で、誰かが話しているらしい。

 男の人と、女の人。漏れ聞こえる言葉は、宵子には意味の取れない異国の言葉。でも、少なくとも片方の声は、聞き覚えがある。だって、夢にまで見た恋しい御方の声だから。


(クラウス様……!)


 扉越しに声を聞いただけで、痛いほどのときめきが、宵子の胸を刺した。思わず胸を押さえたのとほぼ同時、扉が開いて──


「良かった。起きたのか」


 クラウスが、眩しい笑顔で室内を照らしていた。すらりと長い足で寝台に近づいて来るのを見て、宵子の胸はますます苦しくなってしまう。嬉しいのに、あまりに心臓がどきどきするから痛みさえ感じてしまうのだ。


「貴女が寝ている間に、言うべき言葉を日本語に訳して覚えておいたんだ。……分かる、か?」


 頬を染めて俯く宵子を、クラウスは心配そうにのぞき込んだ。寝台の脇に置かれた椅子に、腰を下ろしながら。そんなことをされると、綺麗な顔がますます近づいて、恥ずかしいのに。


(分かります。とてもよく)


 みっともないくらいに赤くなっているであろう頬を押さえて、俯きながら。宵子はどうにか頷いた。

 本当は、顔を上げてお礼をしなければならないところなのに。声は出せないにしても、せめて相手の目を見て、綺麗にお辞儀をしなければいけないのに。

 でも、あの青い目に間近に見つめられていると思うと、ひたすら寝具を握りしめた自分の手を見下ろすことしかできなかった。


 きっと、無礼な娘だと思われているだろうと思ったのだけれど──クラウスは優しく、そしてどこか悪戯いたずらっぽく微笑んで、囁いた。


「──貴方様とお会いできたことは私の人生でもっとも嬉しく楽しい、そして幸せなことでした」


 低く、そしてどこか甘い声が紡いだのは、嫌というほど覚えのある文章だった。


(私の、手紙……!)


 蝋燭ろうそくと星の灯りの下で、何夜もかけて綴った手紙の一節だ。いつかクラウスに読んで欲しいと願ってはいたけれど、まさか、読み上げられるのを聞くことになるなんて。


 もう、恥ずかしいなんて言ってられなかった。目を見開いた宵子が顔を上げると、クラウスはなぜか嬉しそうに笑顔を浮かべていた。宵子の顔なんて、見て楽しいものでもないだろうに。


「着物のふところから手紙が出て来たから──っと、あ、貴女を着替えさせたのは、メイドだから安心して欲しい!」


 宵子の赤面の理由を、クラウスは何か勘違いしたようだった。慌てたように、早口で弁解してから──彼は、そっと宵子の手を握る。


「宵子。貴女は宵子という名前なんだな。俺も、ずっと知りたいと思っていた」


 触れられたところが、燃え上がるようだった。

 宵子の体温が上がっているからだけではない。クラウスの手も熱を帯びている。もう目を離すことなんてできなくて、睫毛が数えられる距離に近づいた彼の顔も、赤く染まっている。


(……照れていらっしゃる? どうして?)


 地位のある殿方が、宵子のような何でもない小娘に対して。何を恥じらうことがあるのだろう。

 不思議には思っても、宵子には問いかける言葉を紡ぐことはできなくて。ただ、クラウスの声に聞き入る。


「ダーメ・デア・ナハト──夜の貴婦人。神秘的で美しく、けれど控えめで。そして謎めいていて。暁子という娘とは。貴女だけの名前を、知りたかった」


 暁子ではなく、宵子自身を。それもまた、手紙に綴った想いだった。双子の妹とは違う存在なのだと──伝えるだけでも、途方もない夢のようなことだと思ったのに。今、彼は何と言ってくれたのだろう。


「貴女の手紙は、とても嬉しかった。想いを伝えるために、俺の国の言葉を知ろうとしてくれていたことが。俺と同じ想いでいてくれたことが」


 信じられないと、思ったけれど。でも、少しぎこちない発音で、クラウスは確かに言った。同じ想いだと。彼も、宵子と同じように、一度踊っただけの相手のことを想い続け、探し出してくれたのだ。


(クラウス、様)


 しっかりと握られていた手を、できるだけそっと振りほどく。クラウスとの接触が嫌なのでは、もちろんない。それどころか、もっとしっかりと彼を感じたかった。とてもはしたない望みだから、宵子の手は宙に浮いたまま、躊躇ためらいに震えてしまうけれど──


「貴女のことをもっと知りたい。俺のことも、もっと知って欲しい。時間をかけて──少しずつで良いから」


 クラウスは、その震えごと宵子を抱き締めてくれた。彼の腕にしっかりと抱かれ、守られて。宵子は何度も何度も、大きく首をうなずかせた。

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