三章 伝えたい想い

真上家への依頼

 宵子しょうこ真上まがみ家の屋敷に戻った時には、辺りはすっかり暗くなっていた。味噌を取りに行くだけのお使いにかかる時間ではないから、当然、台所を任された女中は良い顔をしなかった。


「ずいぶん長いお使いでしたねえ、宵子様。いったいどこまで行ってたんだか……!」


 ひったくるように味噌樽みそだるを受け取った女中の不機嫌な声が、頭を下げた宵子のつむじに振って来る。


(暗いから、汚れは見えていないみたい。良かった……)


 黒い犬から逃げまどって、地面に倒れて。着物の汚れも手足の擦り傷も、見咎められたらきっと面倒なことになる。

 心配してもらえることはたぶんなくて、着物を汚したことや、真上家の者としてみっともない振る舞いをしたことに対して、叱られるだけだろうから。


(早く部屋に戻って、身体を拭きたいわ)


 いくら機嫌が悪くても、呪われた宵子と長く話していたい者はいない。だから、女中の小言が途切れた隙を狙って、宵子は深くお辞儀して台所を抜け出そうとした。


 いつもなら、背中に聞えよがしの溜息を聞くだけだっただろうけれど。今日は、尖った声が追ってきた。


「ああ、お客様が来ているんですよ。客間の前を通る時は、どうかお静かに」


 意外な言葉に、宵子は思わず足を止めて振り向いた。


暁子あきこのお友だちが、まだいらっしゃるの?)


 こんな時間までお茶会が続いているなんて。それぞれに名のある家の令嬢たちだから、暗くなる前にそれぞれの家に帰っているものだと思っていたのに。


 首を傾げた宵子に、女中は軽く顔を顰めた。呪われた娘とまだ話さなければならなくなったことに気付いて、内心で舌打ちしているのだろう。


「お嬢様がたはもうお戻りですが、偉いお方がお見えとかで。旦那様と、春彦はるひこ様がお相手をなさっています。だから、くれぐれも気を付けてくださいね!」


 言うだけ言って、女中は宵子に背を向けた。

 客人をもてなす茶のための湯を沸かしたり、春彦のために軽食か何かを用意したり。きっと、ふだん以上に忙しいから苛立っているのもあるのだろう。


(分かったわ。鈴の音にも気を付けるから……)


 だから、それ以上の小言を避けるために、宵子はこくこくと頷いてから──女中は見ていなかったけれど──今度こそ台所を後にした。


 廊下に出た宵子は、足首の鈴を鳴らさないためにも、できるだけすり足で進むことにした。でも、それは、歩くのが遅くなってしまう、ということでもあった。


(お客様に失礼のないように……!)


 閉ざされた客間の扉の前を通る時も、どうしても神経が研ぎ澄まされてしまう。鈴の音を気にする耳が、聞くべきでない室内の声を拾ってしまう。


「──真上家のを頼りにしている。かつて犬神いぬがみを使役した貴家きかならば、帝都ていとを襲う怪異をはらえるかもしれぬ」


 犬神、という言葉を聞き取って、宵子は思わず足を止めた。


(盗み聞きなんていけない、けど)


 でも、真上家の犬神様を最後に見たのは宵子なのだ。父も母も暁子も、犬神様なんていないと言っていた。春彦も、迷信に過ぎないと笑っていた。


(お父様は、何てお答えになるのかしら)


 低くいかめしい声の主は、女中の言うところの偉い人、なのだろう。爵位のある方なのか、政府の高官なのかは分からないけれど──そんな方に対しても、父たちは同じことを言うのだろうか。


 少し──ほんの少しだけ、宵子はその場にとどまることにした。すると、父の朗らかな声が聞こえる。


「お声がけいただき、光栄のいたりです。明治の御代といえど、我が家の力は健在ですからな」


 朗らかな──そして自信に満ちたもの言いに、宵子は目を瞠った。父が、犬神様の存在を認めるようなことを言ったのも驚きだし──


(犬神様はもういないのに)


 真上家の犬神様は、たぶんとても年を取っていた。そこへ供物も少なくなって、どんどん弱ってしまったのだ。そして最後の力を振り絞って、宵子に呪いをかけた。その、はずなのに。


 息を呑んで立ち竦む宵子の耳に、春彦の声も入ってくる。父と同じく明るい声で、彼の爽やかな笑顔が目に浮かぶようだ。


くだんの怪異も野犬のような姿をしているとか。真上家の犬神とは相性が良いかもしれません」


 春彦の言葉を聞いて、「偉い人」の依頼は例の人喰い犬に関することだと分かった。

 宵子もつい先ほど襲われたばかりの、恐ろしい獣。若い娘ばかり何人も襲われているという──確かに、一刻も早く解決しなければいけないことだとは思うけれど。


(どういうことなの……? 怪異……あれは、普通の犬ではなかったということなの……?)


 東京の街中で、捕らえられることなく何人も襲っていること。

 人ひとりを噛み殺した後で、すぐに宵子を襲った──つまりは飢えてやむを得ず、ではないのかもしれないこと。

 それに──爛々と燃える、あの恐ろしい目。


 すべてはただの獣ではない、化物の類だからだと言われれば納得できる……だろうか。


(……嫌だ。怖いわ)


 でも、それを認めるということは、宵子は化物と対峙したということになってしまう。


 ずきずきとした傷の痛みが急に激しく感じられた気がして、宵子は身震いした。そして、それ以上嫌なこと、怖いことを聞いてしまう前に、客間の前から離れることにした。

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