輝く銀色の毛並み
(何なの……!?)
はっきりと考えることもできないまま、
それは、巨大な犬が
ぐるるるるる──
黒い犬が身体を低くして
目は、燃える石炭のように
(嫌。来ないで……!)
巨大な犬の後ろ脚に力がこもったのに気付いて、宵子は激しく首を振った。でも、獣が彼女の懇願を聞いてくれるはずもない。
むしろ、怯えを見せたことで良い獲物だと思われてしまったのだろうか。黒犬は、四肢に力を溜めて、飛び掛かる気配を見せた。
このままでは、ひと跳びで食いつかれてしまう。宵子は、黒犬に背を向けて駆け出した。
(誰か! 助けて!)
心の中で叫んでも、もちろん誰も駆けつけてはくれなかった。声が出せたところで、巨大な犬を見たら誰だって隠れるか逃げ出すかしてしまうだろうけれど。
背中からは、黒犬の荒く
犬の脚力なら一瞬で追いついても不思議はないのに、距離を詰めようとしないのはいたぶっているつもりなのだろうか。怖くて振り返ることなんてできないから、宵子は走り続けることしかできない。
(狭いところに入れば……!?)
路地を見つけて入り込んで──そして、すぐに無駄なことに気付く。
鋭い爪が地面をける音が、追いかけてきている。いくら巨大な犬でも、宵子が通れる幅の道なら問題なく入って来られるのだ。
角を曲がって撒くことも、できそうにない。宵子の足首につけられた鈴が、うるさいほどに鳴り響いて、彼女の居場所を教えてしまっている。
りんりんりんりん、りんりんりんりん
鈴の音は、宵子自身をも追い立てるようで、訳が分からなくなっていく。息が苦しくて、目の前も霞み始めて。いまだに胸に抱えている
(あ──)
下駄の爪先が、何かにつまづいた。足もとを気にする余裕なんて、とうになくなっていた。
何もかもが、ゆっくりに感じられた。
迫る地面。走ってきた勢いのまま、叩きつけられる衝撃。痛み。視界を翳らせる、黒犬の影。嬉しそうな唸り声。牙で引き裂かれるのを覚悟して、ぎゅっと身体を縮めて、目を閉じる。
何も見えない中で、恐ろしい唸り声が聞こえた。なぜか、
さらには、何か大きなものがぶつかり合う音と気配を感じて、宵子は身じろぎした。
(……え?)
恐る恐る身体を起こして、振り返る。全身を襲う、じんじんとした痛みに堪えながら。そして──宵子は驚きに目を瞠った。
二頭の巨大な犬が、もつれ合っていた。互いに相手を組み伏せようと、牙を突き立てようと、激しく争って。
一頭は、夜の闇のような漆黒の毛並み。先ほどまで、宵子を追いかけてきたほうだ。
もう一頭は、月の光のような輝く銀色の毛並み。どこからか現れて──宵子を助けてくれた、のだろうか。
(怖い……けど、綺麗……)
鋭い爪と牙が、目の前で閃いている。それは、恐ろしいと同時に美しい光景でもあった。黒いほうの巨犬は、まだ宵子を狙っている。炎のような赤い目が、飢えによってか怒りによってか、荒々しく燃え盛っている。
でも、銀色のほうは、黒犬の攻撃をことごとく跳ねのけてくれていた。牙を剥こうとすれば体当たりして。跳躍しようとすれば、のしかかって邪魔をして。
動く度に、銀の毛並みが陽光を反射して眩しい煌めきを放つ。その美しさは、どんな宝石や細工ものも適わないと思えた。だから宵子は、息をすることも忘れて見蕩れてしまった。
黒と銀──決して溶け合わない色の二頭は、どれくらい争い合っていたのだろう。宵子にはとても長い時間に感じられたけれど、実際はどうだったか分からない。とにかく──悔しそうな、苦し紛れの遠吠えを上げたのは、黒いほうの犬だった。
アォーーーーーン
ゥアァアォーーーン
そして、銀色の巨犬の遠吠えは勝ち誇るようで、敗者の声を圧倒した。その猛々しい声に追い払われるように、黒犬は現れた時と同じく素早く駆け去って行った
黒い尻尾が視界から消えると、狭い路地に取り残されたのは宵子と銀の毛並みの犬だけだった。
宵子はまだ立ち上がることができていなかったから、のしのしと近づいて来る巨犬とは、ちょうど目線が合うか、下手をすると見下ろされるのでは、という格好だった。
間近に見れば、銀の犬は宝石のような青い目をしていた。黒犬と激しく争ったところを見たばかりだけど──その目は深い湖のように静かに
(あ、ありがとう……?)
怖がるよりも、どうすれば感謝を伝えられるのか、がさしあたって宵子が直面する難題だった。
人間に対するようにぺこりと頭を下げてみたけれど、果たして分かってくれるだろうか。恐る恐る顔を上げてみると、銀の犬は、やはりというか怪訝そうに首を傾げている。
(じゃ、じゃあ──撫でても、良い?)
犬の大きさと輝くような毛並み、それに理知的な眼差しは、
呪いによって声を封じられる前、両親とも
手を差し伸べてしばらく待ってみても、銀の犬は
(うわあ……柔らかい……!)
見た目の硬質な印象と裏腹に、指先に伝わる感触は胸がときめくほど優しくてふわふわだった。
最初はおずおずと表面だけを撫でていた宵子も、次第に大胆になって毛をかき回したり、ぴんと立った三角の耳に触れたりし初めてしまう。お礼をしているのか自分の楽しみのためなのか、よく分からないほどだ。
(人に懐いているの? どこかのお屋敷で飼われている子なのかしら)
この銀の犬が、人を襲った
(『人喰い犬』と間違えられたら大変。早くご主人様に返してあげたいけど……)
倒れたところから半身を起こした姿勢のまま、宵子は銀の毛皮を撫で続けた。困ってはいるのだけれど、いつまでも触りたくなる心地良い感触だから止められない。
と、銀の犬が前足を一歩進めて、宵子に近付いた。彼女の首元に顔を近づけて、ふんふんと匂いを嗅ぎ始める。湿った鼻先が肌に触れるとくすぐったい。
(わ、ど、どうしたの……?)
首筋に、鎖骨の辺りに、
青い目は相変わらず落ち着いているし、牙を見せている訳でもないから怖くはない。でも、どうして──と考えたところで、宵子は閃いた。
(……これ?)
幸いに、というか。宵子はまだ味噌樽を大事に抱えていたし、
もしかしたら、香ばしい香りは犬にも魅力的なのだろうか、と思って、竹皮を剥がして犬の鼻先に差し出してみる。
すると、犬の青い目が少し見開かれて、驚いたような表情になる。もちろん、人間の宵子が勝手にそう思った、というだけだけれど。
(……違った?)
的外れだったのかと思うと、犬相手でもちょっと恥ずかしかった。気まずさを呑み込んでおにぎりを包み直そうとした時──温かく湿ったものが、宵子の手に触れた。
銀の犬が、そっと口を開いておにぎりを咥えたのだ。牙が宵子を傷つけることがないよう、気を付けてくれた気配がする。とても優しい子だ。
(良かった。美味しい?)
美しい毛並みと佇まいに相応しく、銀の犬の食べ方は上品だった。おにぎりを地面に落としたり米粒をこぼすこともなく、とても綺麗に平らげていく。これで、お礼ができたことになるだろうか。
(後は、どこの子か分かると良いんだけど……)
満足そうな表情でぺろりと舌を出す犬の頭を撫でて、微笑みながら。宵子は残る問題をどうしようかと首を傾げた。
「
そこへ、異国の言葉を紡ぐ男の人の声が彼女の耳に届いた。
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