二章 帝都に蠢く黒い影

囀りの影で

 真上まがみ家の応接間から、少女たちの高い笑い声がいくつも聞こえてくる。


暁子あきこ様、鹿鳴館ろくめいかんの夜会に出席なさったそうですわね」

「羨ましいわ、皇族や外国の貴族の方もいらっしゃったのでしょう?」


 鳥のさえずりのような、軽やかで賑やかな声の主は、暁子の学友の令嬢たちだ。

 暁子は、華族の令嬢に相応しく学習院の女子科に通っている。


 もちろん、卒業まで売れ残ったりせずに、良いころ合いを見て春彦はるひこと結婚するために退学するだろう。色とりどりの美しい振袖をまとった令嬢たちも、きっと同様のはずだ。良家の令嬢は、家柄に相応しい婚約者が決められているものだから。学校は見聞を広げたり友人を作ったりするためのものであって、勉学に打ち込む方はとても珍しい。


 彼女たちはみんな、近い将来、夫のために社交に励むことになる。だから、婚約者のエスコートで夜会に出た暁子の話を聞こうと興味津々なのだ。


「ええ。お父様が、子爵家の娘たるもの、淑女のお手本にならなければいけないとおっしゃるから。今の時代、ドレスでの社交くらいこなせなければいけませんわね?」

「ご立派ですわ、暁子様……!」


 宵子しょうこは、令嬢たちの会話を扉越しに聞いている。高い声が頭の上を通り過ぎていくのは、彼女が床に這いつくばって拭き掃除をしているからだ。


 だって、「真上家のもうひとりのご令嬢」は遠方で療養中ということになっている。暁子の学友たちの誰も、宵子のことなんて知らないのだ。暁子と同じ顔がもうひとつ現れたら、さぞ驚かせてしまうだろう。


 だから宵子は、冷たい水で雑巾を絞りながら、応接間の様子を思い浮かべるだけだ。


(皆様、仲が良いのね。暁子も楽しそう……)


 洋風の造りの室内に、令嬢たちがまとうのは日本の振袖。出される茶器は、おじい様が収集したみん国時代の磁器。いっぽうで茶請ちゃうけの菓子は、卵と乳脂バターと砂糖をたっぷりと使った西洋の焼き菓子。真上家の厨房で、料理人が苦労して研究して焼き上げたものだという。


 色々な国と時代の綺麗なものが集められてた豪奢な一室で、装いを凝らした若々しい令嬢たちが歓談する光景は、きっととても華やかなものだろう。宵子も、呪いさえなければ一緒に笑っていられたかもしれない、だなんて。考えてもしかたないことが、つい頭を過ぎってしまう。


(いけないわ。社交は暁子のお仕事なんだから。私も、私の仕事をしないと)


 いつものかすり模様の着物で、宵子は床の雑巾がけをする。真面目に掃除を、と思ってはいるけれど、暁子たちのやり取りに、耳を傾けずにはいられない。


「夜会には外国のお客様もいらっしゃったのでしょう?」

「ええ。晩餐ではお箸を使おうとする方もいたのですけれど、下手くそだからお芋が上手くつかめないの。テーブルの下まで転がしてしまった方もいて、おかしかったわ」

「舞踏はいかがでした? 私もいずれ、とは思うのですけれど。殿方と抱き合うような格好なんて、恥ずかしくて」

「そうですわね、殿方も年配の方ばかりだし、外国の方は香水がきついし、拷問のようでしたわ!」


 宵子にさせたことなのに、見てきたように語るものだ。不躾に手を握られたり腰を抱かれたりする気持ち悪さ、強い力で振り回される恐ろしさを、暁子は知らないのに。


 それに、不愉快な思いをしただけでは、なかったのに。


(クラウス様との円舞曲ワルツはとても素敵だったのよ、暁子)


 妹とはまるで違う、地味な着物を着ていても、優雅なお茶会とは無縁で水仕事に手を荒れさせていても。あの夜踊った貴公子を思い出すと、宵子はまたドレスで着飾ったように晴れがましい気分になった。


 上手で思い遣りがある方が相手なら、舞踏は楽しいものなのだ。暁子がそれを知らないままなのは、可哀想でさえあるかもしれない。


 クラウスの輝くような銀の髪と青い瞳、あの夜差し伸べてくれた手を思い出して、宵子は宙に手を伸ばした。あの方の手を取るかのように。そうして、踊り出そうとするかのように。


 その時──暁子の無邪気な声が、扉の向こうから聞こえてきた。


「ああ、でも。外国の貴賓にも素敵な殿方はいらっしゃいましたわね。確か──シャッテンヴァルト伯爵クラウス様と仰る、とても綺麗な青年でしたわ」


 思い浮かべていた方の名が不意に呼ばれて、宵子の心臓は跳ねた。行儀が悪いとは知りながらも息を詰めて、耳を澄ませる。屋敷にいる間は足首に結ばれている鈴は、屈んでいると音が響きにくいのが幸いだった。


「まあ。どちらの国の方でしょうか」

「ドイツからいらっしゃったということでした。春彦兄様に通訳していただいたのですけど、私のことを気に入ってくださったそうですの!」

「さすがは暁子様ですわね」

「外国の方から見ても、暁子様はお美しいのですわ」

「まあ、お上手ね──」


 和やかに笑い合う暁子たちの声を聞きながら、宵子は両手で口を押えていた。呪いで喉を封じられた彼女が、うっかり声を出してしまうことなんてない。でも、驚きのあまり心臓が口から飛び出すのではないか、というくらいどきどきしていた。


(クラウス様が暁子を気に入った……それとも、私を? まさか、そんな)


 一緒に踊った縁で、晩餐会でもまた話したのだろうか。春彦は話を合わせただろうし、クラウスのほうでは宵子と暁子が別人だと気付いていないはずだ。

 急に言葉数が増えた娘のことを、いったいどう思ったのだろう。打ち解けたからだと思っただろうか。黙りこくったままの宵子よりも、好ましく見えただろうか。


「あの方なら、またお会いしたいですわね。次に夜会にお呼ばれするのが、楽しみになってきましたわ!」


 暁子がそんなことを言い出すから、宵子の心臓の鼓動は、速いだけでなく痛みを伴い始めた。


(あの方と、またお会いできる? でも、暁子として、だけよね……言葉を交わすことも、できない……)


 クラウスにまた会えると思えば、嬉しい。

 でも、宵子の名前をあの方が知ることはない。身振りで伝えた夜、という意味の名前も、暁子と話すうちに忘れてしまうだろう。暁子があの方と親しくなっていくのを、宵子は黙って見ることしかできないのだ。

 ううん、見ることもできないかもしれない。


(……あの方と踊るために、暁子が代役は要らないと言い出したら……!?)


 そうしたら、宵子は二度とクラウスと踊れない。それどころか、会うことさえできないだろう。


 宵子の目の前が絶望に暗くなった時──不意に、背中から強く押された。


(きゃ……!?)


 暁子の声に意識を集中させていた宵子は、あっけなくその場に倒れてしまう。手をついたはずみで桶が倒れて、廊下に水たまりができる。


 汚れた水でたもとを濡らした宵子に、低く抑えた、けれど険しい声が降ってくる。


「手が止まっていますよ、宵子。それに、盗み聞きのような格好でみっともない」


 声の主、そして宵子を突き飛ばしたのは、母だった。品の良い小袖こそでをまとった上品な華族夫人の姿には似合わず、宵子を見下ろす視線は冷たく、親子の情愛など欠片も見えない。


「暁子のお友だちに見られてはいけないと、分かっているでしょう?」


 父も母も、迷信だと思っていた家の言い伝えが本物で、呪いをかけるような存在が間近にあったということが、恐ろしくて気味悪くてしかたないと思っているのだろう。


 だから、今の両親にとって、真上家の娘は暁子だけ。呪いを受けた宵子は、恐怖と嫌悪の対象でしかない。

 それに、育っていれば政略結婚の駒にできたのに、と思うから悔しいのだろう。だから、せめて女中に混ざって働かせたり、暁子の代役で踊らせたりしているのだ。


(ごめんなさい、お母様。宵子は分を弁えています)


 声にならない言葉まで叱られることはないから、宵子はまだこっそりと心の中でお父様、お母様と呼んでいる。

 濡れた着物で床に座って土下座する姿は、女中よりもひどかったとしても。この屋敷は宵子の家で、この方たちは宵子の家族のはずだった。


 たぶん、母のほうではそう思ってはいないのだろうけれど。宵子が従順に頭を下げたことで、とりあえず満足してはくれたようだった。


「……こぼした水を拭いたら、お使いに出なさい。決して人目についてはいけませんよ」


 次に言われたのは、お仕置きではなく単なる命令だったから。これでも母は、さほど怒っていないほうだった。

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