第20話

 周りを見ていられないでいる間にも、アルツィオは庭園を進む。


 彼の足が止まったのは、人のいない場所だった。


 その光景を見て、エステルの口から知らずほっと息がもれていた。


 王宮の窓からは見ていた円形状の空間。周囲には薔薇の通路があって、中央には白いベンチのアンティークの装飾の背に囲まれるようにして木がある。


 その木は、年に二回ある社交シーズンに青い花をつけた。


「……綺麗ね。こんなに、静かで美しいところだったなんて」


 月光に揺れる青い花を、彼の腕の中からじっと見据えた。


 この木はいくつか花の色を持っていた。別の花壇では黄色、白、と場所の雰囲気によって植えられているのは知っている。


「おや、いらしたことはない?」

「ないです」


 本当だったら、アンドレアと初めてを見たかった。


 そんな想いが口から出そうになって、唇をつぐんだ。そんなこと、動けなくなってしまったエステルをここまで運んでくれた彼に失礼だ。


 アルツィオは、エステルをベンチへと下ろした。


「少しだけ、回復させても?」


 すぐ隣に座った彼が、こちらに膝を向けてエステルのミルクティーの髪を少し整える。


(この距離は他人にしては近すぎるわ……)


 彼は知らないのか、それとも癖みたいなものだったりするのだろうか。


 エステルは、その手に首をすくめつつも頷く。


「少しだけ、なら……休めば歩けるようになると思いますので」

「かしこまりました」


 そのまま彼の指先が頬に触れ、エステルはびっくりした。


「ああ、動かないで」


 穏やかな風が起こる。ブルーの光が揺れて、身体にほんの少し魔力が流れ込んでくる感覚。


 わざわざ、こうやってする必要があったのか疑問だ。


 髪が乱れたのも彼が勝手に横抱きにしてくれたせいなのに、と思ったものの、貴重な魔力を分けてくれたことに感謝する。


「……ありがとうございます、アルツィオ」

「いえ。この国の王族のほどの魔力は持ち合わせていませんので、私にできるのはせいぜいこの量ですが」


 魔力量による結婚の文化というのは、こういうところで国柄の特色を作っているらしい。


 それでいて魔法の数も半端ないものだから、アンドレアが軍を率いて共同演習などを行う際には、どの国も強い魔法を何発も操るさまを見て恐れをなすとは聞いた。


 それがまた戦争を起こさせない要の一つにもなっている。


 ――エステルには、できないこと。


 こんなところでアンドレアを思い出させることを言うなんて、ずるい男だ。


 エステルに気がないから、平然とそんな台詞を口にできるのか。


(もしかして、私を揺らして楽しんでいらっしゃるのかしら?)


 そんな考えがよぎり、上目遣いに彼を見つめる。


 アルツィオがにこっと微笑み返してきた。


 やはり彼の考えは、まるで読めない。エステルは困った顔をするのも悔しくて、拗ねたみたいに顔を顰める。


「月光でもよく見えますね。その傷が、例の?」


 彼に話した覚えはないのに、急に『例の』なんて会話を振られて違和感を抱いた。


 それではまるで、エステルが懇意にしていて、自分から彼に話したことがあるという印象を他人に与えるだろう。


(今日のドレスは舞踏会用だったから、いつもより見えるけれど)


 何かが、襟の左側に少しかかっているのが見える程度ではある。


「ええ、幼い頃に受けました」


 彼のことだから、調べて知っているはずだ。


 首回りまで覆うドレスではない限り、エステルの左胸から伸びるようにして肩まで向かっているのが分かる傷跡だ。


 国民の誰もが、知っている話。


 改めて質問する内容ではないのに、何か知りたいことでもあるのだろうか?


 じっと観察すると、まるで誉めるみたいに彼の灰色の目で甘く微笑む。


 疑っているのに、彼はなぜそんな顔をするのか。


「アルツィオ?」

「その傷跡も、国内ではもう結婚相手がいないと思っている原因ですか?」

「…………そうですね。痛々しいと思われて夫婦の義務を果たせなかったら、と想像することはありますわ」


 そんな内容を語れるのも、彼が〝心の音〟で知ってしまうからだ。


 隠したら、傷つく心の音を彼は察知する。


 エステルは彼に、彼の国のいい人を紹介して欲しいは頼んでいた。そこには『傷跡があっても受け入れてくれる人』が含まれている。


「痛々しくないですよ」

「嘘を吐かないでください」

「エステル、私はあなたにだけは嘘を吐かないと約束しました」


 けれど彼は、笑顔でよく隠し事をする。


 エステルはやはり甘く笑いかけてきた彼を、信用がないと言わんばかりに見つめる。


「あなた、いったい何を企んで――」


 そもそも、リリーローズと何を話していたのか。


「それなら証明しましょうか」

「は」


 不意に、アルツィオに片腕で引き寄せられた。それは男女の許された距離ではなくて、エステルは動揺する。


「ア、アルツィオ」

「あなたの傷跡は個性ですよ。なんら問題にならない、美しさの一つです」


 言いながら彼の左手が肩に触れ、手袋がされている白い指が襟の中へと滑り込む。


 それはエステルが驚くほど簡単に、するりと襟の位置をずらした。やめて、という言葉も間に合わず、肩ギリギリで止まったドレスを押さえつつアルツィオが口付ける。


 大きめに覗いた傷跡に、柔らかなものがほんのわずか触れる感覚。


(――あら?)


 彼の口元から「ちゅっ」と音だって上がったものの、身構えていたような押しつけられる熱はなかった。


 ほとんどエステルの肌には触れなかった、といってもいい。


 二人の姿勢が際どいので、角度によっては熱烈な求愛に見えるだろうけれど――。


(アルツィオ?)


 まだエステルのそこに顔を埋めている彼の名を、言おうとした時だった。


 突如強烈な熱気が起こった。


 ――魔力の熱さ、だ。


 エステルの前に防壁魔法が張られると同時に、大きな炎がアルツィオを襲う。


「これはまた、あからさまに敵意むき出しで」


 そんな呆れたアルツィオの独り言は、彼が悠々と放った風魔法が炎を打ち消す音で、向こうには届かなかったことだろう。


 ひとまず彼が怪我をしなくてほっとした。


 だが、自分を包み込んだ魔法も消えてしまうと同時に、エステルは続いて肩をビクッとはねた。


「何をしている!」


 ぼぼっ、と炎の気配がする。


 ハッと目を向けると、向かってくるのはアンドレアだ。


「……アン、ドレア様……」


 間違えた、殿下と呼ぶべきだったのに、そう頭の中で思ったものの声は続かなかった。


 アンドレアは、魔力を火の気配に変えてしまうほどに怒っていた。


 彼は滅多に〝魔法漏れ〟もしない魔法の天才だ。


 だというのに今の彼は、感情に煽られて周囲にぼぼぼっと炎の花火を起こしているのが見える。


「アルツィオ・バラン・ヴィング第三王子、彼女が王太子の婚約者と知ってのうえで唇をつけたのだとしたら、貴殿の行為は許されないものだ」


 彼の口から出される声は、本気の怒りをはらんでいて低い。


 とてもよく知っている人の声のはずなのに、エステルは彼のそんな激昂を耳にするのは初めてで強い驚きに包まれていた。


 目の前で起こっていることが、よく、分からない。


 どうしてアンドレアは、そんなにも激怒しているのか。


 だが、アンドレアがすぐそこまで迫った光景にハッと我に返る。彼は王太子として、隣国の第三王子であるアルツィオを非難しているのだ。


「お、お待ちください殿下っ」


 エステルは、アルツィオを庇うように前に立った。


「彼は何も悪くありません」

「急に抱き寄せ、君に許可も取らずその行為に及んだのにか」


 どうして、彼がそれを知っているのだろう。


(見ていた……?)


 まさか、とエステルは浮かんだ考えを振り払う。


 ここで国交に響いてしまっては、いけない。そもそもアンドレアの怒りはお門違いだ。


「私は、あなたの妃にはなりません」


 きっぱりと告げたら、アンドレアが足を止めた。


 見据える彼の藍色の目が、激しい感情に揺れるのを見てエステルは震えた。


「……妃には、ならない身です」


 何様目線でそんなことを言っているのだと彼に怒りを向けられているのだろう。そう思い、頭の位置を低くし、言い換える。

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