第5話

階見紫桜との出会いは、回顧屋から依頼された時の事だった。

奈落迦は基本的に入り口と言う概念は存在しない、ある程度の、特定の人間だけが招かれる事が出来る空間であった。

特定の人間、と言うのは、それは奈落迦の構造を理解する必要がある。

奈落迦は、生きている。

そして、奈落迦は生物として当たり前な、食べる事を行っている。

食べる、それはつまる話、餌、好物と言う概念も存在しているのだ。

奈落迦は人を好む、具体的に言えば、人の体内から体外へと分泌されるエネルギー、生命に関する事であり、人間の体内には循環して生命の源が活動している。

そして、人間がその生命の源を発散する時には、感情に乗せて体外へと放出される。


奈落迦は、その中でも、人の持つ感情…毒に近い、負の感情を好んで食しているのだ。

故に、奈落迦は、この世に対して絶望的、失望的に考えている人間を、感情を以て察しては、特に濃い負の感情を抱くものを、奈落迦へ…自らの胎の中へと入れる。

それが、通称『奈落墜ち』と言う現象であり、人が行方不明になるもの、その負の感情を抱き続け、発散しているが故に、奈落迦にとって餌を作る道具として認識されて奈落墜ちしてしまうのだ。


そうした理由で、階見紫桜は、俺が助けなければならなくなった。

奈落迦と言う存在は、ある程度の上級の人種であれば知覚、説明されるものであり、政府や、貴族、そう言った連中はこの事を承知している。

大企業の人間も、その事を周知しているので、秘匿扱いされている奈落迦と言う存在は、案外人に言ってないだけで、薄々と勘付いていたり、性質を理解している人が居るかも知れない。


階見紫桜の父親である刻楼組の組長は、そう言った理由で奈落迦と言う存在を知っていたが、それを利用して事業を展開する事は無かった。

精々、組の誰かが殺した人間、あるいは、存在を抹消したい人間を捨てる為に活用していたに過ぎない。

因みに、刻楼組の組長は、扉を作る為の指輪を所持している。

これは、我が回顧屋の店主である、垰雹華が、取引の際に渡したらしい。


回顧屋は、迷宮奈落迦の道具を回収する仕事をしたりする。

回収した禍遺物は、そのまま、表社会の人間に高値で売ったりしているらしい。


そして、刻楼組の組長の娘である階見紫桜は、奈落墜ちした。

その際に、刻楼組の組長は、回顧屋に行方不明である階見紫桜の回収を命じ、俺と相方がその仕事に就いた。


案外、仕事は簡単に終わった。

階見紫桜は五体満足で生存していて、精神面でも異常は見られず、即座に返す事が出来た状況。

その際に、その迷宮に出現する魔物と戦い、俺が彼女の護衛として駆使していたら、その行為がえらく、彼女が気に入ったらしい。


未だ、取引が終わった筈なのに、俺は部屋の中に居た。

近くには、階見紫桜が、俺の座るソファの隣に居て、息をする度に、俺に腕に手を絡めて、肩元辺りに鼻を近づけて呼吸をしている。


「…言い値で買います、貴方を、どうか、私と共に…」


取引が終わった事で、此処からはプライベートだった。

階見紫桜は、そう言うと俺を欲していたが、俺は素直にそれを受ける事はしなかった。


「金じゃ、俺は動かない…俺の首には鎖が付いている、恩義と言う鎖がな」


垰店主に拾われた。

その事に関して俺は感謝をしている。

どの様な事が起きたとしても、彼女に対する恩義は忘れる事は無いだろう。

それは彼女も知っているのだろう、だからこそ、こうして少ない時間でも俺の傍に居ようとしているのだ。


「駄目ですか?…金なら、あるんです、…沢山、貴方の人生を、何十回でも買えます」


極道が作った金が一体、どれ程のモノであろうと、汗と血を流して作った金では無い筈だ。そんな金の価値で買われたとしても、嬉しくは無いし、何よりも心音は高鳴らない。


「…さっきも言ったが、取引は続ける、けど…次に来る時は、俺じゃないぞ?」


俺は、彼女の反応を見る為にそう言った。

猫の様に甘えた仕草をしていた階見紫桜は、ぴたりと身体を止めて、ゆっくりと身体を引き剥がす。


「…私から、離れる、嫌いになったのですか?やはり…では、貴方を不快にさせた相手を、…首を今すぐ持って来ましょう」


「いや、不要だ。理由はそれじゃない、それはお前も分かっているだろ?」


俺は立ち上がると、金を入れたバッグを持つ。


「俺は常に熱を抱き続けたいだけだ、…今のお前じゃ、それは叶わないと思った」


だから、俺はこれ以上、此処に居る時間を費やす気は無かった。

階見紫桜は項垂れた様子で、ゆっくりと立ち上がる。


「…考え直して下さい、先程も言ったじゃないですか」


ゆっくりと顔を上げる。

彼女の紫の瞳から涙が零れている。

同時、階見紫桜は自らの前髪を掻き揚げた。

その時に…彼女の額には、赤い線の様なものが一線が描かれている。

その線が、ゆっくりと開かれていき…赤色をした瞳が出現した。

血の涙を流すその瞳は、彼女が所持している禍遺物の一つであった。


「私に、使と」


彼女の声が芯を震え上がらせる。

その気迫は正に、心臓の音を高鳴らせてくれる。


「…俺がそれを望むと言ったら?」


直後…赤い瞳が、たらりと垂れていき、彼女の眉間を通り出した。

かと思えば、俺は急激に、体から血の気が引いていく感覚があった。

そして、鼻の奥から何かが流れて来る、指先でそれを触れると、鼻血を出していた。

いや、鼻からだけじゃない、喉奥から通う血の味、視界が赤くなって、目玉から血が出て来る。


「『赫眼ちまなこ』」


それが、階見紫桜の禍遺物の名前であるらしい。

俺は手の甲で鼻から出て来る血を拭くと共に、自衛用の指輪を構える。


「良いね、興奮して来た」


心地良い鼓動が響き出した事で、俺は上機嫌にそう言うのであった。

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