第2話 謎の女性

「ここ、どこぉ?」


 濃い霧の中、見知らぬ池へと迷い込んでしまった実験体5号は、涙目になり、今にも泣き出しそうな震える声で呟きました。


 そこへ池の中からすぅっと綺麗な女性が浮き上がって来ました。真っ白な衣装をまとった女神のような姿の女性です。


 実験体5号は、その不思議な光景に涙も忘れてしまったようで、ただただじっと見つめていました。


「あなたが落としたのは、こちらの黒いリングですか? それとも、こちらの金色のリングですか?」


 池の中から現れた謎の女性は、優しい声で実験体5号に尋ねました。彼女の右手の上にはどこかで見たような黒い金属の輪が4つふわふわと浮いていて、左手の上には光り輝く黄金のリングが4つふわふわと浮いていました。


 しかし、実験体5号は、謎の女性の言葉に答えられず、どうしていいのか分からないようすで、おどおどと立ちつくしていました。


「う~ん、質問を変えましょう。あなたが手足に着けていたのは、こちらの黒い魔道具ですか? それとも、こちらの金色の魔道具ですか?」


 謎の女性は少し困った顔をすると、質問の文言を変えてきました。おそらく実験体5号は、最初からそう言ってくれと思ったのでしょうが、気にしたら負けです。


 問いかけられた実験体5号は、両手首、両足首を見ましたが、着けていたはずのパワーユニットがありません。それどころか、背負っていたポーターバッグもいつのまにやら地面に置いてありました。


「こっちの、黒の……」


 実験体5号は黒いリングを指差しながら、小さな声で、たどたどしく言いました。言葉足らずなのは、5歳児だからでしょうか、それとも、虐げられていたからでしょうか、その両方かもしれません。


 謎の女性は、実験体5号へと優しい眼差しを向けて、にっこりと微笑みました。


「正直なあなたには、ご褒美です。あなたが着けていたこの魔道具を格好よく魔改造して差しあげましょう」


 謎の女性が、そう言うと、彼女の左手の上に浮いていた金の魔道具はすっと消え去り、右手の上に浮いていた黒い金属製のパワーユニットが、キラキラ輝きを放ちながら形を変えて、細い銀色のおしゃれなリングになりました。


 そして、銀のリングはすっと消えたかと思えば、いつの間にやら実験体5号の両手首、両足首に着けられていました。


 謎の女性は、ふむ、と銀のリングを着けた実験体5号の姿を見ています。


「う~ん、手足と言えど、普段は邪魔よね。よし、さらに改造しちゃいましょう。追加の機能も付けちゃってと……。ふふふ、なんか楽しくなってきたわ!」


 謎の女性が、少し悩まし気な顔をしてから、そう言うと、銀のリングは光の粒となり、実験体5号の両手首、両足首に吸い込まれるように消え、タトゥーのような銀色の文様が残りました。銀のタトゥーは、何か魔法的な文様のような、術式的な感じの見た目です。


「そうだ、普段は見えないようにしときましょう! それっ!」


 さらに、謎の女性が、思いついたように手を振ると、銀のタトゥーはすっと見えなくなってしまいました。


「これで良しっと。うん、我ながら素晴らしい物になったと思うわ。それじゃ、縁が会ったらまた会いましょう!! さよなら~」


 謎の女性は、勝手にうんうんと頷いて納得すると、すうっと浮き上がり、実験体5号に手を振って、どこかへ飛んで行ってしまいました。


「……」


 池の畔に残された実験体5号は、無言のまま、謎の女性が消えた空を見上げていました。


 しばらくしてから、実験体5号は、自身の両手首と両足首をみて、パワーユニットが消えてしまったことを再確認し、それから、辺りをキョロキョロと見回しました。


「どこだかわかんない……」


 実験体5号は、迷子になっていたことを思い出したのでしょう、小さく呟くと、目に涙を浮かべて今にも泣きそうな顔をしました。


 そのとき、実験体5号の両手首、両足首に銀のタトゥーが浮かび上がり、左手首のタトゥーからぽふっと何かが飛び出してきました。


「ヒャッハー! ギプスちゃん登場ですネー!!」


 そんな叫び声を上げたのは、目の前に突然現れた真っ赤な金魚でした。先ほどの謎の女性の声と同じです。その真っ赤な金魚は実験体5号の顔の前で、挨拶するように右ヒレを動かしてふわふわ浮いていました。


 もちろん、実験体5号は、驚いていて、泣き出すことも忘れて目がまん丸です。


「さかな?」

「魚じゃないですネー! 私の名前は、ギプスと言うですネー!」


 驚きながらも、実験体5号の口から出た言葉に、金魚は、陽気に名乗りました。どこかおかしなイントネーションでしゃべる外国人のような口調です。


「ぎ、ギプス?」

「イエース! あなたは、名前、何と言うですかー?」


「ケータ」

「オー! ケータ! いい名前ですネー!」


 ギプスの主導で、実験体5号は、自身の名前を名乗りました。ずっと実験体5号と呼ばれ続けていた5歳の男の子は、ケータという名前だったのです。


「OKですネー! ケータ! さっそくトレーニングするですかー?」

「トレーニン?」


「ノーノー! トレーニングですネー! 筋肉鍛えて強くなるですネー!」

「……」


 トレーニングという言葉を知らないケータは、ギプスの言うことに理解が追い付かないのか、無言で眉を顰めました。


「どうしたですかー? ケータは、ほかにやる事あるですかー?」

「はっ!? いかなくちゃ!」


 ギプスの問いに、ケータは、はっとして、横に置いてあるポーターバッグを持ち上げようとしましたが、全然持ち上がりません。


「なんでー?」

「ハッハー! ケータは、力が弱々ですネー!」


「はっ!? まどうぐ! ない!!」

「んー? どうしたですかー?」


「まどうぐないと、はこべない! がーん……」


 ケータは、パワーユニットが無ければ鉄鉱石でいっぱいのポーターバッグが運べないことに考えが至ったようで、顔面蒼白となりました。


「しばらく、筋トレすれば、力がつくですネー! そうすれば、重い荷物も運べるようになるですネー!」

「にもつはこばないと、ごはんたべれない……」


 ギプスが、筋トレすれば大丈夫的なことをいいますが、ケータは涙目で切実な思いを呟きました。奴隷のような生活を送っていた実験体と呼ばれる子供達は、荷物を運ばないと食事抜きだといつも言われていたのです。


「お腹すいたですかー? それなら、木の実を食べるといいですネー!」

「……きのみ?」


「池の周りは木の実がいっぱいですネー! ですから、食事の心配しなくていいですネー!」

「ほんと!」


「ほんとですネー! さっそく木の実を食べるですネー! 食べたらトレーニングするですネー!」

「……」


 やたらとトレーニングを勧めて来るギプスに、ケータは眉を顰めるも、とりあえずギプスの勧める木の実を採って食べました。りんごのような果実をお腹いっぱい食べると、ケータは満足そうに息を吐きました。


「さーさー、お腹いっぱいになったら、トレーニングするですネー!」

「かえらないと……」


 空中をふよふよと泳ぎ回り、トレーニングを勧めるギプスを前に、ケータは小さく呟きました。


「ケータは、帰りたいですかー?」

「……」


 ギプスの問いに、ケータは、はっと目を見開いてギプスを見つめ、黙り込んでしまいました。


 ふよふよ漂うギプスと、無言でギプスを見つめるケータの間に、しばし沈黙の時が流れました。どうやら、ギプスは、ケータの答えを待っているようです。


「かえりたくない……」


 しばらくして、ケータは、俯いて小さくそう呟くきました。きっと、今までの奴隷のような生活を思い出して、気持ちを整理していたのでしょう。


「OKですネー! しばらくここでトレーニングして強くなるですネー!」

「つよく……なる?」


「そうですネー! トレーニングすれば、ケータは強くなるですネー!」

「……」


 ケータは、少しの間、無言でふわふわと空中を漂うギプスをじっと見つめてから、小さく呟きました。


「がんばる」


 こうして、ケータは不思議な池に残り、ギプスの指導の下、トレーニングを始めることになりました。

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