第25話:死穢
『――マル暴から連絡ありました。
電話の向こうの福井警視の言葉に、
「……?」
彼女は首を傾げていた。電話越しの声は、どうやら聞こえなかったらしい。
しかし、聞こえなかったからといってどうすればいいのかも、戒には全く分からない。
『日比谷副長から、
福井は早口かつ事務的にそう言って、電話を切ってしまった。
ともすれば冷酷にも思えるが、殺人事件などを担当する捜査一課の福井にとって人が死ぬことなど日常であり、そこに感情はないのだろう。
「落ち着いて聞いてくれ」
戒は、ひとまずそう口にした。ただの定型句だ。
「……君の父親が死んだ」
迂遠な言いましだとか、気の利いた台詞など、戒には思いつかなかった。
「え……?」
紫月の抱えていた、本や日焼け止めの入った紙袋が音を立てて地面へ落ちる。
「福井警視からだった。身元の確認が要るから来て欲しいと……紫月?」
戒が言い切るよりも早く、紫月が駆け出していた。
紙袋を拾い、戒も彼女を追って地面を蹴る。
身体も小さく体力のない紫月と、長身で鍛錬を欠かしていない戒では走る速度は全く違う。戒はすぐに紫月に追い付いて、彼女の腕を掴んだ。
「紫月、落ち着くんだ」
「だめ……! 行かないと! また……!」
しかし紫月は、その小さな身体に見合わない力でそれを振り払い、なおも走っていく。
戒は彼女を引き留めることを諦め、その後を追った。
「
紫月の暮らすマンションの前まで来ると、何台ものパトカーが路肩に停まっており、丁度その一台から、見覚えのある人物が降りて来るところだった。
「福井警視、彼女を止めて下さい!」
戒がそう叫ぶも間に合わず、紫月は福井の脇を駆け抜け、ちょうど一階に止まっていたエレベーターへ乗り込んでしまった。
「あれは上代さんですよね、どうされたのですか」
「……鏑木のことを伝えたのですが、急に走り出してしまって」
言いつつ、二人はエレベーター脇の非常階段へ向かうと、二段飛ばしで駆け上がる。職業柄か、下手をすればエレベーターより速いだろう速度だった。
「ここです」
福井が足を止める。その階の廊下は屋外であるというのに、生臭さに満ちていた。
「お義父さん、お義父さん……!」
嗚咽混じりの叫び声。戒がそちらを向くと、一室のドアが開け放たれて規制線が張られており、その手前で鑑識課の人間に止められている紫月の姿があった。
戒は彼女に駆け寄ると、部屋の中へ飛び込んでしまわないように両肩を抑えた。
「……捜査一課の福井です。ガイシャは」
それを追ってきた福井が尋ねる。
「まだ中です。あの、こちらは」
「娘さんです。それと、その護衛の方」
「護衛?」
ドラマでよく見る青い作業服を着た鑑識課の男が首を傾げる。
戒が懐から赤い近衛の腕章を出して見せると、男は「ああ」と納得した。
「遺体を確認しても?」
福井が訊くと、鑑識課の男は頷いた。
「お呼びしたところ申し訳ないのですが、少し待っていてください」
福井は振り返ってそう言うと、白手袋をして規制線の向こうへと入って行った。
時間にして、ほんの数分後。福井はすぐに出てきて、言った。
「遺体を運びます。ただ……正直、今ご覧になるのはお勧めしません。ただ、警視庁に運びますし、お二方も東京支部に戻るのであればどの道……」
「見せて……下さい」
紫月が、青くなった唇の間から、小さく震えた声を出す。
「……分かりました」
福井が頷いて玄関の前から退くと、その奥から鑑識課の人間が担架を運んできた。
その担架に乗せられているのが鏑木だと、戒はすぐには分からなかった。福井の資料で昔の写真を見ただけだったというのもあるが、元々彼と付き合いのあった人間でも、一目で鏑木だとは思わないだろう。
担架の上に乗せられていたその男の表情は、苦悶に激しく歪んでいた。頬には自らのものであろう血が跳ねている。そしてブルーシートで隠された胸部は、明らかに窪んでいた。
同時に鼻を突く、強烈な血の匂い。
「うぶ……っ!」
紫月が口許を抑えて膝を突く。指の隙間から漏れ出た吐瀉物が、彼女の真っ白だったシャツワンピースを汚していく。
「…………。……お義父さん……です」
それでも、紫月は必死に、その言葉だけ絞り出した。
――ガコン、と音を立て、自販機の取り出し口にミネラルウォーターが落下する。
「マル暴からまた連絡がありましたよ」
そのペットボトルを取り出した戒に、福井が声を掛けた。
「鏑木の組織……
「無理でしょう」
にべもなく言い切って、戒は視線を横へ向けた。その先には、ベンチに座り、ただ茫然としている紫月の姿があった。
場所はマンション前の公園だった。鏑木の死体は既に警視庁へと搬送され、戒と紫月は実動祭祀部からの迎え待ちである。福井は現場捜査の指揮だとかで残っていた。
「でしょうね。そう言っておきましたよ」
福井は苦笑しつつ言った後、表情を曇らせた。
「まさか、本当に犯罪者を殺すとは」
先日、
「……犯罪者であることが理由ではないかもしれません」
戒は紫月を見ながら言った。
「淡島は、紫月の
「陣営……。それは」
福井が言いかけたその時。近くの路肩に車が停まった。実動祭祀部の公用車だった。
「遅くなったわね、ボーヤ」
「日比谷さん?」
降りてきたのは、なんと実動祭祀部護衛課の副課長だった。
「そこの警視くんに話があんのよ。あ、これ鍵ね。服は
声を低くした日比谷の問いに、戒は黙したまま首を振る。
「できる限り、あんたがケアしなさい。彼女に一番近い存在は、もうあんたなのよ」
「それは……承知しているつもりですが」
そうしなければいけないと分かっていようと、どうしたらいいのかなど分からない。
日比谷はそんな戒の背を、励ますように叩いた。
「私は後から勝手に戻るから。あ、警視くんはちょっと付き合ってもらうわよ。隠してたこと教えたげる。いろいろとね」
「……淡島のことですか?」
福井が訊くと、日比谷は頷いた。
「そう正解。あ、マル暴向けの鏑木の情報もあるけど、聞いとく?」
「はい。こうなった以上、私も無関係ではないので。……一色さん、ではまた」
福井は戒に会釈すると、踵を返してマンションへと戻っていく。裏手にパトカーが停まっているため、そこへ向かうのだろう。日比谷もそれに続いた。
残された戒は、ベンチに座る紫月の元へと歩み寄る。
「紫月。ひとまず支部に行こう。歩けるか?」
先ほど買ったミネラルウォーターを紫月へ渡しながら訊くと、紫月は黙ったままだが小さく頷き、立ち上がった。
車に乗り込み、夕に焼ける街の中を走り出す。
「着替えを用意してもらった。着いたら着替えるといい」
後部座席に乗った紫月は、力なく頷いた。戒がバックミラーで確認すると、渡したペットボトルは封も開けられていないようだった。
「戒さん。一つ、訊いていいですか」
「……答えられることなら」
どうして自分の父親は死んだのか、というようなことを訊かれるのかと、戒は身構える。
「お義父さんの仕事のこと、知ってたんですか……?」
しかし訊かれたのはそのことだった。どうやら、先ほどの福井との話が聞こえてしまったらしい。そしてその問いは同時に、淡島が以前言った通り、紫月が華屋のことを知っていたことを示唆していた。
「ああ、聞いていた」
今更隠したところで仕方がない。戒はそう判断した。
「警察は、君の父親を探っていた。捜査内容は共有されていた。……君自身の事も」
戒がバックミラーを再び見ると、紫月は俯いていた。
「……だが、だからといって君の父親が殺される理由にはならない」
「そう……ですね……」
紫月は俯いたまま、ごく小さな声で答えた。
結論から言ってしまえば、戒のフォローは不正解で、紫月にはもう戒の言葉は聞こえていなかった。
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