エスカレーター 星野小百合の心霊事件簿

闇之一夜

一、子供の絵

 東京都、八王子市中央の山間にある私の寺に、その母親はやってきた。晴れた気持ちのいいさわやかな晩春の季節に似あわぬ、その暗く落ち込んだ顔は、雨上がりの軒下に溜まる泥のように重く沈み、その状態にすっかり慣れきった様子だった。

 もっとも私の依頼者のほとんどは、そのような悩みと苦しみにさいなまれ、力なくくすんだ顔色をしているのだが、中でも彼女は格別であった。この世の全ての災厄を背負った殉教者、無実の罪で処刑台に上がる無念の囚人のオーラを、その薄いピンクのワンピースをまとうきゃしゃな体から、黒い影のように発していた。歳は三十くらいに見えた。

 本堂で細い足を折って座った彼女は、息子の霊に悩まされている、と言った。しかしそれは、実際に彼女の息子が亡霊の姿になって目の前に現れるわけではないという。息子はただ、あの世から母親である彼女を呪っている、というのである。


 依頼者――仮に名前をYさんとしておく――である、その彼女の家は、A市のとある住宅地の奥まったところ、林に囲まれた少しひらけた場所に、ぽつんと建つ一戸建てだった。そこに彼女の夫とその母、そして九歳になる彼女の息子が住んでおり、四人家族だった。

 息子の名前は守と言った。小学校四年生になる彼は、幼い頃は屈託がなくて明るい、ごく平凡な子供だったが、小学校に上がってからは口数が少なくなり、いつも暗く不吉な影を帯びた笑みを浮かべる少年になった。その存在だけで問題視された。いじめには遭わなかったようだが、家庭訪問で教師が言うには、誰も接触したがらない、雰囲気が怖い、何か嫌な感じがするから、ということで、この守という少年はクラスの後ろの席でいつも孤立していた。

 家庭が崩壊したわけでも、とりわけしつけが厳しいわけでもないのに、彼がなぜそうなったのかは、母親である彼女には思い当たる節があるという。


 Y家がよその家庭と違っていた点をひとつあげると、祖母の力がとんでもなく強かったことである。この早くに夫と死に別れ、ずんぐりと背の曲がった海老のような姑に、守の母親は一言も逆らわず、なんでも言うとおりにしていた。姑は厳しくワンマンで、母親は少しでも逆らうと、ただちに夫と離婚させられると信じた。その息子である夫が自分を連れて、こんな魔女のような婆さんから逃げてくれる、などとは全くツユほども思えなかった。旦那は母の言いなりであった。

 しかし守の祖母は、言うとおりにさえしていれば彼の母親をいじめるようなことはせず、家事などのアドバイスは喜んでするし、むしろ同じテレビ番組で笑いあうような、外見はとても仲のいい嫁・姑だった。家の中が険悪になることなど全くなかった。

 守があのような絵を描きはじめるまでは。


 幼稚園のころから、守は画用紙にクレヨンを走らせて絵に夢中になった。最初は家や自動車、木や学校などを子供らしいタッチで殴り描いて、家族や友達の顔なども歳相応のテクニックで表情豊かに再現した。家族も喜んで彼の絵を鑑賞し、とくに祖母は目じりを下げて嬉しそうに誉めた。「あんた、いい絵描きになるよ」と頭を撫でた。そんな励ましのせいもあって、彼は絵を描き続けた。クレヨンは筆になり、水彩絵の具でカラフルな色をつけた。


 しかし小学校にあがるころ、急に絵の傾向が変化した。それまでは明るく綺麗だったタッチが、次第にどんよりとくすみ、青黒い気持ちの悪い色を好んで使うようになった。題材も写実的ではなく、この世のものでない奇怪な想像の産物――たとえば一つ目小僧やろくろ首などの妖怪、幽霊、あるいは、どこか前人未到の奥地や湖にひそむ怪物などを選んだ。そして出来上がった絵は、誰もが思わずうっと目をそむけるような不気味さ、おぞましさに満ちていた。それらは暗く冒涜的で、不吉などす黒い影のようなものを放っていた。見る誰もが、ぞっとした。とくに祖母の嫌がりようは、尋常ではなかった。

 そこで彼は誰にも見せなくなったが、それでも祖母はわざわざ引き出しから最新作を探し出し、母親を呼びつけ、目を吊り上げて説教した。

「こんなものを描いて、あんたの子はどういうつもりなの! やめろと言ったのに、隠れてこんなことまで。私をバカにしてるのかい!」

 たかが子供の描いた絵に、と思おうとしても、母親はその凄まじく気味悪い異形の絵を見せられたら、怒るのもやむをえない、と納得した。


 たとえば画用紙の中央に、でかでかと栗型をした顔があり、上の尖った部分に海苔状の整った黒髪が乗っている。顔は白く、平安貴族風の女性の頭である。だが、その後ろからは、蛇のように長い首が伸びて、上に大きくカーブを描き、まっすぐ下に落ちているのだ。その先に体はない。紙面が切れているので、首だけなのか、胴があるのかは分からない。背景は暗く青黒い色で塗り潰され、見ているだけで嫌になるほど重苦しく、陰気である。

 だが、最もおぞましいのは顔だった。顔の半分を占める半月笑いの目が、くす玉が割れたように斜めに開いており、いわゆる垂れ目である。中は真っ白で、瞳はない。その下に小さなだんごっ鼻と、これも小さなにやけた唇が付いている。その目つきと口元の吊り具合の気味悪さといったら、見た瞬間、背筋が凍るほどである。その笑いには、明らかに悪意と憎悪があった。見る者はたちまちその存在を否定され、踏みにじられ、消し去られる。人間というかけがえのないものへのあざけり、軽蔑。誰が見ても完全に存在自体が間違っている、悪魔のようなもの。それが、この絵だった。


 いつからこんな子になったのだろう。母親は悩んだ。まだ小学生だし、反抗期には早すぎる。もしそうなったとしても、祖母を怒らせるのはまずい。家庭が崩壊してしまう。そうなったら破滅だ。子供を連れて一人でやっていく自信はない。

 彼女は守に言った。

「頼むから、お婆ちゃんの言うとおりにして。もうこんな絵は描かないで。あの人もお年寄りなんだし、嫌な思いをさせたら可哀想だと思って、我慢なさい。どうしても、というなら、絶対に見られないところで描くか、普通の絵になさい。お願い、お母さんを助けると思って」

 そう言うと、守はうんとうなずいた。見た目は暗くて口数が少なくても、頼めば、たいていのことは素直に聞いてくれた。

 これで、なんとかなると思った。

 だが、それは甘い考えだった。


 守の部屋から絵が消えた。子供部屋には、ドアにも机にも鍵がないので、祖母は自由に中を調べられるのだが、引き出しには、真っ白な画用紙しか見つからなかった。

 最近、無愛想にはなったが、とりあえず、あんなバカなことはやめてくれたようだと、ほっとしたのもつかの間、その白い画用紙の中に、ふと何かを見つけて、ぎょっとした。老人の目で一瞬分からなかったが、よく見ると、広いA四の紙面の中央に、ぽつんと人の形が描いてある。ペンの一筆描きで、交通標識か何かの記号のような、星かヒトデのような形だが、それは明らかに、一個の人間だった。何もない広大な空間のど真ん中に、小さな人間が、たったひとり、ぽつんと立っている。真っ白な世界に、仲間も誰もなく、ただ、ひとりぼっちで粒のように存在している。

 祖母はたちまち気持ち悪くなった。慌てて他の紙も見たが、どれも一様に広い紙の真ん中にぽつんと何かが描いてあるだけだった。それは人間だけでなく、ときに馬だったり、魚だったりしたが、動物の場合は、どれもが一様に横向きで、馬などはまるで失意に沈み、全てを諦めたようにうつむいていた。いずれも真ん中の小さな物体と、周りのあまりに広大な空間の対比が凄まじく、見ているだけで呪われそうな気味悪さがあった。手に触れているだけで、ざわざわと虫唾が走った。

 祖母は激怒して母親を呼んだ。


「私が強く言ったのがいけないんです」

 母親は話しながら、両手で顔を覆った。

 強く叱られ、絵を描くことを完全に禁じられた少年は、翌朝、学校へ行かず、近所の団地の裏庭に入り込んだ。ここで彼は、団地の白い壁に、なんと自分の身を叩きつけて死んだのである。あまりに信じがたいことだが、全身の骨が隅々まで砕け、内臓が潰れて、壁に飛び散るほどに己を強打して、死んだのだ。

 だが九歳の子供に、そんな力があるとは到底思えない。たとえ大人がどんなに自分から頭をぶつけても、そうやすやすとは死ねない。よほど打ち所が悪かったり、出血が酷ければ死ぬだろうが、全身をぐちゃぐちゃに破壊するまで叩きつけるのは無理である。どこか折れたり大怪我をすれば、必ず力が抜け、気を失ってしまうからだ。

 ところが守の場合は、まるで巨大な圧力で何度も壁に投げつけたように、体が徹底的に壊れ、ねじれて複雑骨折し、顔も胴体も無惨に潰れていた。肉が滅茶苦茶に裂け、血が彼の数倍の面積にまで飛び散って壁中にねっとりと広がり、凄まじい惨殺の様を呈していたのである。

 警察はむろん殺人の線で調べたが、ここまで残酷な殺し方をするには、それなりの人数と道具が必要で、人目に触れないはずがない。しかし目撃者はいっこうに現れず、容疑者は浮かばなかった。


 そんなある日、とつぜん向かいの住人ら数人が証言し、世間は驚愕した。見たものがあまりに非現実的で信じがたいものなので言い出せなかったが、同じ境遇の者同士が近隣にいると知り、彼らはついに勇気をふるったのだった。

 窓から見た主婦は言った。

「はい、確かに男の子が壁に自分からぶつかっていました。何十回目にもなると、もう恐ろしくて見ていられませんでした。

 ……いいえ本当です。あの子は、自分の体を自分で壁に叩きつけて死んだんです。物凄く恐ろしい顔でした。何かを心の底から呪い、骨の芯から激しく憎んでいる目でした。まるで鬼でした。私は、あんなに恐ろしい目をした人間を見たことがありません。あの目なら、あんなことが出来ても不思議はない、とさえ思いました。

 なにが原因にせよ、あの子は鬼になったのでしょう。もう人間をやめるよりほかに、行き場がなくなったのかもしれません」


「そうですか。あの事件の母親が、あなた……」

 耳にしていた、あのむごく不思議な事件を思い出して私が言うと、彼女は床に両手をつき、つらそうな顔でうつむいた。

 そして、ゆっくりと顔をあげ、続けた。

「いえ、それは……始まりでしかなかったのです。


 守が死んで一ヶ月ほどして、周囲が落ち着いてきたころです。祖母が肝臓がんで入院したのです。でも、おかしいのです。祖母はその二月ほど前に健康診断を受けたばかりで、なにも悪いものは見つからなかったし、ちょっと血圧が平均より高いくらいで、持病もありません。それがある朝、突然、体が切れるように痛いと言いはじめ、病院へ行くと、肝臓がんの末期だというのです。医者の話では、誰でもわずかにがん細胞は持っている、それが繁殖したら検査で発見されて、それで手術をするなど対策を講じるものだから、急激にがんが増えることは、ありうるそうですが、さすがに、たった二ヶ月で、ここまで巨大化するのは珍しい、とのことでした。

 確かにあの人は、孫が死んだことを気に病んでは、いました。自分が絵を描くことを禁止したせいで自殺したかもしれないからです。ただ、遺書もないので、本当の動機は分かりません。それに、そのくらいのストレスで、死に至るほど腫瘍が肥大するなんて考えられません。元から肝臓が悪いわけでもないし、飲酒もしないのです。

 祖母は入院すると、たちまちのうちに衰弱して、植物が枯れるみたいになりました。入ってわずか一週間で亡くなりました。

 ただ、これも不思議なことですが、死に際は安らかでした。がんで亡くなる間際になると、酷い苦痛でモルヒネを使う患者さんが多いそうですが、祖母は今までに見たこともないほどに穏やかになり、態度も優しく、控えめになりました。そして眠るように静かな死を迎えました。

 祖母から厳しさが消えたのは、体が急激に弱って、気力がうせたせいもあったでしょう。こうして守に続いて、家族の一人がまた逝ってしまったのです。

 ところが、これで終わりではありませんでした。


 その翌月、今度は夫が交通事故で死にました。バイクにはねられたのですが、完全に相手の不注意でした。それが妙なことに、そのバイク乗りの男性は、普段からスピードを出すような人ではなかったのです。ただ、その日の夕方、住宅地を抜けて角を曲がるときに、ふと、このままブレーキを踏まずに曲がってやろう、と思い立ったそうです。道に入るときはツユほども思わなかったことが、角にさしかかると、「大丈夫、誰もいやしない、やってしまえ!」という気持ちが、自分の中に、頭に血が一気にがーっとのぼるように、急激に湧き上がったというのです。

 とつじょ別人になったように、彼は暴走して、角を曲がろうとした夫に正面から突っ込みました。すぐ我に返り、救急車を呼びましたが、夫は病院に着く前に死にました。

 こうして我が家には、私だけが残ってしまったのです。


 ただ、恐ろしいことがあるのです。夫を看取った看護の方が、ある言葉を聞いているのです。

 彼は死に際に、あえぎながら、「守、守」と言ったそうです。これはどういうことなんでしょう? 彼は死に際に守を見たのでしょうか。

 家族で生き残っているのは私しかいませんから、今後を心配して私の名を言うとか、でなければ親戚でもいいですが、ともかくこの場合、生きている者の名を言うのが普通でしょう。とうに死んだ息子のことを、いきなりそんな場で口にするのは、不自然です。もしかしたら、彼は守に会ったのでしょうか? 

 バカげた考えだとは思います。でも、どうしても、そう考えてしまうのです。バイク乗りの男性は、いきなり人が変わったようにスピードをあげて夫を轢きました。取り憑かれた、と考えるのは不自然でしょうか? 夫は曲がり角で、突っ込んでくるバイク乗りの顔に、息子の顔を見たのではないでしょうか。

 もちろん、これは想像です。でも、自分の体を滅茶苦茶にして死ぬほどの、深い恨みと未練を残した子です。祖母も病死ではあっても、やはり異様な死に方です。彼女も守が連れて行ったのでしょうか?

 いえ、きっとそうです。あの子は自分の生きがいを奪った祖母のことも、それを放って助けなかった夫と私のことも、深く恨んで死んだはずです。そうなると、次は私の番なのです。

 ……いえ、守が死んでからは、毎週あの子のお墓に行って、手を合わせて謝っていますよ。それでも、二人は死んでしまったのですから。

 今度は私です。そうとしか考えられません。先生、どうか助けてください。恐ろしくて、このごろは一睡もしていません。先生。先生。どうか、聞いてください! あの子が、守が、私を殺しに来るんです!」


 この切羽詰った話を聞き、これは尋常でないと判断、翌日、A市の彼女の家に向かった。

 だが、このYさんの場合、本人の勘違いの可能性もある。祖母が急に病死したことは一見不自然だが、患者が急激なストレスを抱えた場合、それまでなりをひそめて増殖していたがん細胞が、一気に噴き出すことはありうると思われる。しかも祖母は高齢だった。

 また夫を轢いたバイク乗りの場合も、魔が差しただけかもしれないし、夫の死に際の一言も、意識がもうろうとしていれば、場違いな名を口走ることもあるだろう。それらがみなただの偶然なら、母親のただの思い込みで片付くかもしれない。

 そうなれば一番良いのだが、どうしても引っかかることがあった。守くんの死に方の異常さである。今さら現場へ行ってみても、霊的な痕跡は残っていないかもしれないが、あとで彼の死んだ団地の壁あたりを調べてみなくてはなるまい。本当に壮絶な恨みと憎悪の力によって自らの肉体を破壊し尽くしたのなら、彼は死後、すさまじい悪霊か、鬼になっている可能性がある。それが、もし母親に害をなそうとして現れた場合、私ごときの霊力で清めることが出来るか、不安だ。師匠の助けも借りなくてはなるまい。


 住宅地の奥に入ると、林に囲まれた平地に出た。その真ん中に一軒家がぽつんと建っている。一人で暮らすには大きすぎるが、今や四人家族の中で、この母親だけが生き残り、残り少ない貯金で食いつないでいるのである。

 彼女と夫の部屋、祖母の部屋、そして息子の部屋を見せてもらったが、特に霊的なものは感じなかった。引き出しには、白紙の画用紙が数枚突っ込んであるだけで、他の持ち物にも、特に変わったものはなかった。

 

 守くんの写真を見せてもらった。ぎょっとした。確かに、この世を恨み、腹の底から憎んでいる荒んだ病人の顔をしていた。とくに目がすごかった。濁りきった刺すような目。何ものも信用せず、全てを侮蔑しきった悪意の目だった。

 一見して、誰もが嫌な子だと目をそむけるタイプの顔だが、一方に、ある種の漠然とした物悲しさも感じた。誰かひとりでも、この子の撒く毒の裏に隠れた小さな悲しみに気づいていたら。

 今さら言っても仕方のないことだと、人は言うだろう。が、我々はちがう。人は死んだあとでも、やり直すチャンスがある。救われる希望がある。霊能者とは、そういう仕事なのだ。


 その夜十一時ごろ、電話が鳴った。Yさんからだった。守が枕元に立った、自分を殺すと言ったと、酷く怯えた様子で、歯の鳴る音も聞こえんばかりに繰り返した。

「どうかすぐ来てください。私も連れていかれます!」


 すぐ行くと言って切り、念のために師匠も呼んだ。彼には夕方に電話して、事情を話してある。

「小百合くん、結界の札をあと五枚は持っていきたまえよ。大妖怪かもしれん」

「感じますか?」

「はっきりじゃないが、嫌な予感がするのだ」

 師匠は初老に差しかかった掘りの深い顔を、ややゆがめて言った。困ったことに、彼の嫌な予感は当たる。


 袈裟で正装してYさん宅に着いたのは四十分後だった。彼女はまだ無事だったが、顔は血の気がうせて蝋のように真っ白だった。

 彼女が言うには、布団に入ってうとうとしだしたころ、自分の寝ている脇に、ぼうっと子供の姿が現れた。守だった。

 たちまち恐怖で金縛りにあって動けなくなった。守はかつてないほど恐ろしい憎悪と怒りの形相で母親を見下ろし、吐き捨てるように言った。彼がはっきりしゃべるのを聞いたのは、これが初めてだったという。

「お母さん、あんたも連れてくよ。お父さんも、婆あも、みんな、こっちにいるんだ。次は、いよいよあんただ」

「ま、守」

 母親は必死に言った。

「私たちを恨んでるのは分かるけど、あれは仕方なかったのよ。でも本当に悪いと思っているわ。どうか許して」

「許すわけねえだろう!」

 口を蛇のようにあけて怒鳴った。

「なんでもあの婆あの言うとおりにして、俺を殺しやがって! そうだ、あんたは俺より我が身の安泰を守る方が大事なんだ。俺は、お前を絶対に許さない! 殺してやる! ここで、婆あは一番酷い目にあわせてるんだ。このまま永遠に苦しめてやる。みんな俺が連れてきたんだ」

「でも、お婆ちゃんは病気になったけど、安らかに死んだじゃないの」

 彼女が言うと、息子は不気味な和人形のようにニタアと口をあけて笑った。

「だってそのほうが、あとでもっともっと絶望するじゃねえか」

 彼女は血が凍りついた。再び鬼の形相で毒づきだす息子。

「殺してやる! お前をここに連れてくる! 必ず連れてくる! 死ね! 死ね! この地獄で苦しみ抜くために、とっとと死ぬがいい!」

 気づけば子供は消えていた。彼女は、あおむけでがたがた震えていた。


 部屋を調べても、霊がいた痕跡はなかった。ただの悪夢であれば幸いだが、私がとりあえず彼女に付いて、師匠が各部屋を周った。

「小百合くん、ちょっと来てくれ」

 呼ばれて行くと、そこは守くんの部屋、机の引き出しから取り出した画用紙を見て、眉間に皺を寄せている。

「なにも書いてないと思いますが」

「そうだ。上の三枚はな」

 彼は数枚の白い紙を重ねたまま左に持ち、右手で指した。

「画用紙は四枚ある。探したが、ほかには無い。四枚だよ、小百合くん」

「あっ」

 私は気づいた。家族の人数だ。息子の部屋に、四人家族の人数分だけの白紙がある。

「そうだ、それで上の三枚が白紙だが、最後の一枚を見てくれ」

 一番下の紙を渡され、よく見ると中央にぽつんと人間の形が描いてある。

 背筋がぞっとし、思わず顔をあげた。

「じゃあ、これは……!」

「そうだ」と、うなずく師匠。「おそらくほかの三枚にも、元は小さな人間が描いてあったろう。彼が、守くんが残した最後の絵は、家族を描いた四枚の絵だったのだ。彼が死ぬと、まず一枚目の人間が消えた。誰かが消したのじゃない、勝手に消えたのだ。ペンのインクだから、ここまで跡形もなく消せるはずがない。次に祖母が死ぬと、その下の紙からまた人型が消えた。次に父親が死に、三枚目の絵が消えた。だから今、四枚目に残っているその絵は、母親のぶんだ。その人型は、彼女なのだ」


 そのとき、絹を裂くような悲鳴があがった。飛び込むと、怯えきった母親が部屋の隅にうずくまっていた。

「ま、守が来たわ! 外に来てるの! ほら、壁をどんどん叩いてる!」

「風の音です。どうか落ち着いてください」

 そうは言ったものの、かすかに嫌な感じはしていた。それも彼女の言うように、表からである。いつも悪霊が近づくと、感じ取る気配だ。

 師匠も急いでカバンからお札と塩を出そうとしたが、母親は憑かれたように「あの子が来る、あの子が連れにくる」と繰り返しながら、押入れに入って襖を閉め、閉じこもってしまった。


 ここで騒がれるよりは、このほうがむしろ都合がいいと、私は結界を張るべく襖の周りにお札を貼りだした。だがそのとき、師匠は不意に諦めたように目を閉じ、ただ、その場にじっと立ちすくんだ。

 ぎょっとして周りを見ると、隙間風に吹かれたあの白い画用紙たちが、水に浮くように、静かに部屋に滑り込んできた。一枚、二枚、三枚、そして四枚目が畳みに舞い降りたとき、私はそれをまじまじと見た。そこには、何もなかった。それは他の紙と同じく、ただのまっさらな白紙でしかなかった。


 師匠が読経をあげはじめ、私は襖を思い切りあけた。押入れの中には何もなかった。薄暗い空間が、ただぽっかりと、写真のようにそこにあった。

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