第6話 母

「あれは、私が小学五年の時だった。母がね、実年齢よりも若く見える人なんだけどさ、だからって……」


 その時のシーンが、目の前に見えている。何とも言えない、胸がざわざわするような感じだ。



 学校の帰り道、沙羅さらは何の気なしに、その喫茶店の中を見ていたが、「あ」と声が出そうになった。そこに、よく知っている顔があったのだ。見間違いかと思い、目を見開いてよく見てみたが、やはりその人に違いなかった。鼓動が速くなっていた。


(一緒にいる人、誰?)


 心の中で呟いた。


 母と一緒にいる人は二十代くらいの若い男の人だった。沙羅は、母たちが自分に気が付いていないのをいいことに、二人をじろじろと見ていた。


 母は、家で見るよりもずっと若くてきれいに見えた。その男の人と、何か話しては楽しそうに笑い合っている。


 二人は、それぞれ違うケーキと飲み物を注文したようで、フォークに刺したケーキを相手の口に入れ合っていた。


(何……してるの、この人たち……)


 汚い、と母とその人を、心の中で罵った。母には当然、沙羅の父親という夫婦関係にある人が存在している。それなのに、この人たちは何をしているんだろう。恥ずかしくないのだろうか。


 沙羅は、見たくないと思いつつも、二人から目が離せなくなっていた。随分と経ってから、ようやく母が沙羅に見られていることに気が付いた。


 彼女は、美しい微笑みを浮べながら沙羅に手招きする。二人の所に来い、ということだろうか。沙羅は首を勢いよく振って、その場を離れた。


 家に帰り着くと、急に気分が悪くなってきて、ベッドに横になった。


(何なの、あれ。どういうこと? 何、考えてるの?)


 目を閉じても、さっき見た二人が浮かんでしまう。頭を振って、布団を頭まで被った。


 その時玄関の方から、「ただいま」と声が聞こえた。妹が習い事を終えて帰宅したようだ。「お帰り」と声を掛けようとしたが、その気力もなかった。


 妹が、ドアを開けて中に入ってきた音がした。妹は、


「お姉ちゃん?」


 沙羅を呼んだが、返事もしないのをおかしいと思ったのか、布団の上から沙羅を軽く叩き、


「お姉ちゃん。どうしたの? 具合、悪いの?」


 妹の言葉に、沙羅は、


「何でもないよ。ほっといて」


 きつい口調で言った。妹は、驚いたのか、それ以上何も言って来なかった。


(お母さんなんか、もう信じられない。お父さんがいるのに。お父さんを好きなんじゃないの? 何であの人と、あんなことしてるの?)


 その日、帰宅した母は、沙羅を見ても特別悪びれる様子もなかった。いつもと同じように沙羅に向かって微笑むと、


「沙羅。今日のお夕飯、何にしようか」


 沙羅の頭に、そっと手を置いた。沙羅は、鳥肌が立つのを感じていた。人に触られてこんな状態になったのは、その時が初めてだった。


「やめてよ」


 母に向かって大きな声でそう言うと、沙羅は母の手から逃げ出した。母は驚いたように、「あら」と言っただけで、またすぐに笑みを浮かべた。


(お母さんは、汚い)


 それ以来、沙羅は母を嫌悪し近付かないようになった。母は、そんな沙羅をどう思っているのか、いつでも余裕の表情だ。いつだったか、夕食中に妹から、


「お姉ちゃん。それ、ちょっと私にちょうだい」


 そう言われて、沙羅は分けてやろうとして皿を手に取ったが、その瞬間、母とあの人が浮かんできてしまった。目を見合わせて笑い合い、自分のケーキを相手に食べさせる。思い出して、手が止まった。食欲は、すっかりなくなってしまった。


「いいよ。全部食べて」

「ちょっとでいいの。お姉ちゃんも食べなきゃ」

「いらない。あんたが食べな」


 食事の席を立ちあがると、急いで自分の部屋に戻った。椅子に座って、机に突っ伏した。こんな自分が嫌だ。そう思いながら、涙を流した。



「くだらないと思うでしょう。自分でもそう思うよ。あの二人の、そんなシーンを見たからって、その後もずっと嫌悪する必要なんかない。たいしたことじゃない。わかってる。でもさ、人と分け合おうとすると、気分が悪くなるし、人を好きになりそうになると、あの時の二人が浮かんでくるんだ。だから、人を好きにならないようにって思ってたはずなのに。好きになっちゃってたんだね。馬鹿みたいだ。それからしばらくして、本当に上司から呼び出されたんだ」


 沙羅は、伊藤いとうから目をそらしたいのをこらえて、話を続けた。

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