river. もしくは不たしかな冒険

@kaco_mo4mo

第1話

 彼はいつも、寒い場所にいるようだった。長身をわずかにかがめ、両手をポケットに突っ込んで。

 彼は寒がりというわけではなかった。実際のところ彼は、制服の上にマフラーを巻いただけの姿で、セーターやコートで着ぶくれた僕たちの間を擦り抜けた。

 彼はいつも目を細め、吹きつける風を避ける術を探っているような風貌で、一人立っていた。

 僕にとっては、彼が吹きつける風そのものだった。彼は僕の全てを晒し、破壊し、押し流し、消えた。



 十六歳になる少女の誕生日は盛大に祝うものと、この国ではいつからか決まっている。

 少女時代の階段を登り切って淑女の扉を開けるこの日は、どの女の子にも特別なものだ。特大のケーキに花束、クラッカーにプレゼントの山、すべてが彼女のために用意される。

 ニューヨークはマンハッタン、五番街と五十五丁目の角。格式高い老舗ホテルのバンケットは隅々まで今日の主役――全米で五指に入る自動車部品製造メーカーの創業一族の娘――の特別な一日を祝うにふさわしく飾り立てられていた。

 九月の第一週にあるクロエの誕生日はいつも、バックトゥスクールシーズンの到来を華やかに告げる。彼女が十六歳になる今年は更に特別だ。一日三万ドルで貸し切られたフロアは休暇前より大人びた自分を演出しあう少女たちで埋め尽くされていた。

予定より遅れてホテルに到着したクリスは、廊下を埋め尽くした淡いピンクの芍薬の、控え目な美しさとは不釣り合いな強い香りに顔を顰めた。

百名を超えているだろう招待客が織りなす喧騒が、バンケットの扉から漏れ出ている。クリスは歩調を緩めると壁際に寄り、何枚もの花弁が重なる丸っこい花――彼女のお気に入り――を飾るリボンを意味もなく引っ張った。

 するりとほどける手ごたえを期待した指先は、デコレーション用に固められた紐ごと花をちぎりそうになり、クリスは慌てて手を引っ込めた。

 こういうものは大抵嘘なのだ。風にそよぎそうな花々もふんわりと結ばれているかに見えるリボンも、より見栄えがするように、決して崩れないように、裏側でガチガチに固定されている。

 クリスは花の前を離れ、バンケットの入り口にある大きな鏡で自分の姿を確かめた。

 馴染みのテーラーで仕立てたスーツ、磨きこまれたストレートチップの革靴。極めつけは今日の主役から贈られた腕時計をはめた十六歳は、会場中の誰よりこの場にふさわしい。けれどバンケットへと入るクリスの足取りは、充満する華やいだ空気とは対照的に重かった。

 毛足の長い絨毯を一足踏み込むと、むせかえるような熱気に押し返される。同じ年頃の少年少女だけではない。ニューヨーク社交界の重要人物であるクロエの父のご機嫌を窺いに、子供と同じくらい親たちも顔を揃えている。その顔ぶれのほとんどがクリスとは顔見知り、ここはクリスの生きる世界だ。

「クリス、遅かったわね」

 喧騒の中から咎めるような声がして、クリスは顔を上げた。ダークブロンドを一分の隙もなく結い上げ、ミディ丈の上品なスーツに身を包んだ女性が、三インチはあるヒールで歩いてくる。

「母さん」

「一緒の車で来るべきだったわ。さっき、マッカートニー夫人に挨拶したの。知ってるでしょう、彼女は今年ロータリーの」

「支度に手間取ったんだ。適当なチーフが見つからなくて」

 クリスは早くもうんざりして、でたらめに母の小言を遮った。簡単な嘘は、クリスの日常だ。チーフを探して遅れたわけじゃない。実際はクロエにブランドと品番までを指定されたものを、三か月も前に購入していた。ただ今日、自室の鏡の前でのそのチーフを胸に当ててみたとき、すべてがどうにも億劫になってしまっただけだ。

「あら。お父様のクロゼットから出しておいてあげたでしょう。クロエの瞳にぴったりな薄いブルー。今日はあなた、主役のエスコートなのよ」

「父さんのなんか嫌だって言っただろ。それより……」

「ああ、それにしてもあの人、わざわざ今日ワシントンへ戻ることないのに。ここへ顔を出してからでも十分間に合ったはずだわ。あの人の社交嫌いには困ったものよね」

 だいたい、ワシントンへの転勤なんか承諾すべきじゃなかった、といつもの愚痴が始まってクリスは更にうんざりした。同じ家に居たってどうせロクに口もきかないくせに、世間体を何より重んじる母は父が単身でワシントンに赴任していることが気に食わないのだ。

 父の社交嫌いより、たかだか十六歳の少女の誕生祝いが大げさな社交の場になる慣習が、クリスには我慢ならなかった。まさにそんな慣習の只中で生まれ育ったのが自分だと、そのことはよく理解していたけれど。

「そういえばクリス、さっき聞いたのだけどベンジャミンはもうSATで目標スコアをクリアしたんですって」

「わかってる」

 何気なさを装った母の言葉をクリスは素早く遮って、顔を背けた。花を活けた銀の水瓶に、ぼんやりと不貞腐れた輪郭が映る。

 母譲りのダークブロンド。父譲りのグリーンアイズ。母譲りの頼りない顎。父譲りの薄い唇。父ほど社交が嫌いではないが、母のように社交に生きることはできそうもない。

 では、父のように法曹界のエリート街道を制限速度オーバーで爆走することは?

母の望むことには際限がない。遅刻しないで、クリス。セドウィック家の人間たるもの、挨拶はできるだけたくさんの方に。クロエは良い御嬢さん、大事にするのよ。受験の準備は抜かりなく。もちろん、お父様のようにならなくては。ああでもクリス、あの人のように社交を避けるのはいただけないわ。挨拶はできるだけたくさんの方に。

「ねぇ、クリス。聞いてるかしら?」

「クリス! ここに居たのか」

 その時聞き覚えのある声がして、クリスは救われたような気持ちで振り返った。

「ライアン」

「早く来いよ。お姫様が爆発寸前だ」

 この会場で――そしてこの場所のみならず、学校でも、この世界でも、唯一クリスの友人と呼べる男が、そこには立っていた。

 抜けるような金髪がやや軽薄な印象を与えるけれど、全体としては美しいとしか言いようのない顔立ち。あと数年もすれば、今着ているスーツの高級メゾンのモデルが務まりそうな、すらっとした長身。彼が通るところにはいつも、自然と道ができる。それは、ニューヨーク中の上流階級の子息を集めたこの会場でも変わらない。

 光沢のあるグレーのスーツの腕を広げてクリスの母に近づいたライアンは、さらさらとした金髪を揺らして母の頬から一インチのところへキスを贈った。

「お久しぶりです。ミセス・セドウィック」

「ああライアン、最近顔を見なくてさみしいわ」

「僕もです。ゆっくりご挨拶できなくて恐縮ですが、クリスを借りますよ。クロエが待ちかねていて」

「ああ、もちろんそうね。お話は今度ゆっくり。お母様にもよろしくお伝えして、ライアン」

 クリスの母にそつなく挨拶したライアンは、そのままクリスの腕を取ると奥の扉の方へと引っ張っていった。

「お前が何事もなくここにいるってことは、どうやら元通りなんだな、お前とクロエ」

 控室へ続く廊下へ出ると、ライアンが素早く耳打ちする。引きずられるようにして歩いていたクリスは、唇を引き結んだ。何も答えずにいると、ライアンは探るように続ける。

「……あのあと夏中、ハンプトンに戻らなかったな」

 クリスは足を止めて、ライアンに掴まれた腕を振りほどいた。

 ライアンとクロエ、ふたりの幼なじみと夏を過ごすのは幼少期からの伝統で、クリスは今年初めてそれを破った。その不実を彼は責めているのだ。

 立ち止まったクリスを、ライアンが振り返る。青い瞳がじっと答えを待っているのを見て、クリスは一呼吸した。

「ごめん。ちょっといろいろ……ひとりで考えたくて」

「ま、そういう時もある」

 ライアンは肩をすくめてあっさりと答え、クリスはほっとした。親友だからといって、べたべたした人間関係を望まないが彼の美点だ。

「にしても、パーティーを途中で抜けたのはいただけない。お前のバースデーだったのに。クロエがどれだけ心配したか」

「ああ」

 そう。クロエ、クロエだ。今日は彼女の名前から逃れられそうもない。

 ライアンとクロエはよちよち歩きのころからの知り合いで、息をするより自然にライアンは親友に、クロエはガールフレンドになった。

 夏休みの初めの七月、クリスの十六歳を祝うパーティーは、ライアンが中心となって彼の一族の別荘で開かれた。今日のパーティーとは全く違う、子供だけのいささか過激な集まり。遊び慣れたライアンの手配でアルコールもふんだんにあり、同じ年頃の――親がハンプトンに別荘を持っているという共通点で知り合いの――連中とはめをはずした。

 けれどその最中で、正確に言えばスピン・ザ・ボトルで立て続けに五、六人とキスし、十組以上の酔っ払いのキスを見たあたりで、クリスは突然何もかもが嫌になった。

 これまでも時々そういう感覚に陥ることはあったけれど、その日のその衝動は強力にクリスを支配した。だからクリスはそっと部屋を抜け出して、一人でマンハッタンへ戻った。

 パーティの途中で放り出されたガールフレンド――同い年だけれどいつも年上のように振る舞う少女――クロエは、最初は怒り、次には浮気を疑い、最後にはただいつもと違う幼なじみを心配してメッセージを寄越した。

 クリスは夏中、それらを放置し続けた。つい先週、ライアンが電話を寄越すまでは。

「君が連絡をくれたから……ちゃんと、フォローしたよ」

「俺が教えたとおりに? 花も添えて?」

「ああ」

 そう答えると、ライアンが満足げに微笑んだ。一学年上の彼は、クリスに対して時々こういう――面倒見の良い、兄のような――態度をとる。

 クリスは兄モードのライアンを嫌いではないし、ことクロエとの交際についてはほとんど彼の助言に従ってきた。異性交遊という分野で彼はクリスの数十倍の経験値を持っているからだ。ライアンがクロエに謝ってよりを戻せと言うのなら、それが最適な道なのだろう。そこを歩いて辿り着く先が、天国なのか地獄なのかクリスには分からないとしても。

 それに、新学期が来る。あの灰色の舞台で、クロエは重要なパートナーだ。学園きっての優等生は、姉妹校一美しい少女をガールフレンドに持つ。そういう配役になっている。

 だからクリスは倦怠を頭の隅に押し込めて、ライアンの言ったとおりの花とアクセサリーを謝罪とともにクロエに送った。

「クロエはお前の逃れられない運命ってやつだ。あんまり粗末に扱うなよ。遊ぶならもっと、うまくやれ」

 男同士の理解を示すライアンに、クリスはそうだな、と頷いた。

 誰もが望んでいることに、抗うのは難しい。誰のものでもない、自分の望みを見つけられないでいる場合はなおさら。それが今まさにクリスがここに立っている理由だった。

 クリスは考えることを止め、ライアンが促すままに控室へと急いだ。



「クロエ、おめでとう!」

「このドレスって、おとといテイラースイフトが着てたのと同じ?」

「クロエのは、デザイナー本人に仮縫いさせたんだって!」

 クロエと会場の中心に立っているクリスは、既に疲れ切っていた。押し寄せる人波とひっきりなしの歓声に、あとどれだけ耐えられるか分からない。

「登場も素敵だった! あなたとクリスはパーフェクト!」

 向けられた視線から思わず顔を逸らし、クリスはこっそりと苦い息をついた。その後若干の憎しみを込めて、隣に立つ華奢な少女を盗み見る。

 二カ月ぶりに顔を合わせたクロエは、あろうことか会場の中央をバージンロードさながらに行進するというプランをクリスに打ち明けた。彼女が思いついたのか、あの絶対にゲイのパーティープランナーが唆したのかは知らないが。

 十六歳で、初めて付き合った相手と結婚式の予行演習をするなんて正気の沙汰とは思えない。けれどクリスは今日の主役の――しかも夏中放置したボーイフレンドに寛大にも許しを与えた――彼女の望みを拒む術を知らなかった。結果、招待客で埋め尽くされた広間に、クロエに腕を取られて阿呆面を晒しながら入場する羽目になったのだ。

「もう三千!」

「何が」

「私たちの最初の写真についたライクの数」

 本当に珍しい、とクリスは同い年のガールフレンドの、明るい金髪に縁取られた顔を見た。クロエは聡明で、どういう態度が自分を「高く」見せるか知っている。自己主張が強く声の甲高い十代女子の中で、一足早く淑女の態度を身に着けているのがクロエだ。SNSの写真につく無数のハートマークより、高級紙の日曜版を読む大人たちの反応を重視したりもする。

 けれど今日の彼女はクリスの腕を取り、誰かれなく構えるスマホの前ではしゃいでいる。飾り立てた幸せを、とにかく見せびらかしたいみたいだ。その脇でクリスは、控え目な笑みを顔に張り付けて、されるがままにポーズを変えた。

 何が彼女をそうさせるのだろう。彼女は十六歳になった。そのことがそんなに特別なんだろうか。クリスには分からない。バースデイパーティーなんて大嫌いだし、自分のことをいえば十六歳になりたくもなかった。

 幼いままでいたいわけではない。ただ、時々死ぬほど居心地が悪くなるこの世界で、一方的に時間が積み重ねられていくことが恐ろしいのだ。

 クリスは既に、十六歳になってしまった。きっと十七歳にも、十八歳にも、二十五歳にだってなるだろう。今のクリスはそれをよろこぶ気には到底なれない。

「ねぇ、あの彼、誰だか知ってる?」

 シャッター音の中、クロエはクリスの肩に手をかけ、耳打ちする。被写体のポーズが変わったのを見て、カメラマンたちがまた矢継ぎ早にシャッターを切った。

 肩に乗ったクロエの手が指さす方向を、クリスはまぶしさに目を眇めながら見遣った。

 こんなに人の多い中で「知らないヤツ」を探すなんてと思ったが、彼女の言う「彼」が誰だか、何故だかすぐにわかる。

 「彼」は人の溢れかえる会場で、ひとり立っていた。

 ドレスコードがフォーマルなのはクロエのたっての希望で、だから酷くつまらなそうな顔で壁に凭れた彼も、スマートな黒のスーツに身を包んでいた。同い年くらいだろうか。けれどすでにほとんど大人の体つきで、背がすらりと高い。灰色がかったごく暗いブルネットに、くすんだような白い肌がどこか東欧を思わせる。

 誰もが笑みを浮かべて言葉を交わすこの会場で、彼はひとり、恐ろしいほどの無表情で立っていた。まるで、世界から隔離されたように。

 クリスは目を瞬いた。一度でも会っていたら忘れないと思うけれど、見覚えはない。

「知らないな。っていうか、君のパーティーだろ?」

「誰かの兄弟かと思ったんだけど、分からないの。さっきライアンにも聞いてみたけど、見たことないって。なんだか謎めいてる」

「謎っていうか、怪しいだろ。僕も君も、ライアンも知らないヤツなんて」

「そうよね。リストに載ってる家族の子なら、絶対に今までどこかで会ってる」

 興味津々で彼に視線を固定したままクロエが呟き、クリスは頷いた。

 クロエの言う通り、このパーティーの招待リストに名を連ねるのはニューヨーク社交界の核にいる名家の子女ばかりで、誰もが親戚のごとく顔見知りだ。

「なんだか居心地が悪そう。来るパーティーを間違えたとか? それか、どこか海外から最近帰国したばかりとか」

「実はどこかの国の王族がお忍びで紛れ込んでるとか」

「あり得る? そうだったら素敵!」

 ふざけたつもりの回答にクロエははしゃいで、クリスの頬にキスをする。面食らったクリスは、女子というのは秘密に弱い生き物だ、とライアンがもったいぶって教えたことを思い出した。

 キスやそれ以上のことをするために女子を誘うには、秘密をちらつかせるのが一番いい、とクリスのベッドに寝転んだ彼は得意気に言った。ミドルスクールに上がったばかりの頃だ。その時にはすでにクロエはクリスの運命の相手、ということになっていたけれど、クリスは彼女にキスをねだったことはなかった。誘ったことも仕掛けたことも、突き詰めれば自分からそうしたいと思ったことすらなかったけれど、クロエは度々クリスの唇に自分のそれを重ねた。

 だからクリスの秘密といえば、クロエにとってその行為は随分重要な意味を持つらしいけど、自分は全然そう思っていないってことを彼女に悟られてはいけない、というようなものだった。

 その秘密がクロエにキスをさせ――今もさせ続けているのだとしたら、何と矛盾に満ちた循環の中に、自分とクロエはいることだろう、とクリスは他人事のように考える。

 今この瞬間も、自分はクロエに隠し続けている。何か、とても大事なことを。

 また居心地の悪さが頭をもたげた。何故自分がこの場にいるのか、分からなくなる。この馬鹿げた写真撮影に、いつまで付き合っていればいいんだろう。

 けれど目に映る誰も彼も、ちっともクリスの倦怠に気付いていない。繰り返されるキスとハグ。挨拶と笑顔、笑顔、笑顔――。

 いや、誰も彼もではない。さっきの「彼」だけは、自分と同じくらいこの場所を持て余しているように見えた。

 ふと、この状況から逃れる良い言い訳を思いついてクリスは口を開いた。

「クロエ、あの彼、気になるなら僕が声をかけてみようか」

「あなたが?」

「挨拶はできるだけたくさんの方に、っていうのがセドウィック家のモットーだしね。君は主役だから、皆と話をしていて」

「そう? 誰か分かったら、すぐに教えてね。あと、ダンスタイムには戻って来ること!」

 いたずらっぽく微笑むクロエの頬に、了解のキスを贈る。そうしてクリスは首尾よく輪から抜け出した。

 さあ、どうしよう。一度会場を出てもいいとも思ったが、やはり気になって背後を振り返る。

 はたして、彼はまださっきと同じ場所に立っていた。

 人波の向こう、少女たちより頭一つ分高いところにある彼の目は虚ろに空を眺めていた。彼の周りにだけ静寂がある。ひょっとしたら、クリスのものと同じ静寂が。見つめているうちに、動けなくなる。

 彼は何度かまばたきをした。まるで彼のいた世界からパーティー会場に照準を合わせようとでもするような仕草だった。そして少し頭を振ると、次の瞬間、彼の目は唐突にクリスを捕らえた。

 それは奇妙な感覚だった。大勢の人間に囲まれていたけれど、クリスは彼が自分を見つけたのだと分かった。

 彼の目はクリスを見据え、しばらく動かなかった。

 クリスは自分が希少動物にでもなったように感じ、そのあとに自分は彼と知り合いだっただろうか、と考えた。彼と話がしたい。吸い寄せられるように踏み出した足はしかし、足止めを食らった。

「ああ、クリス! ライアンはどこにいる? 今日まだ彼を見つけられなくて」

「ディアナ」

 スーツの袖を引かれて会場の喧騒が急に蘇る。クロエの女友達が、露出過度なドレスの胸元を寄せてクリスを見上げていた。

「今日、このホテルのロイヤルスイートを案内してくれるって約束してたの。だけどさっきから全然携帯に出てくれなくて」

「あ、ええと、今ライアンがどこかは知らない。クロエとずっと一緒にいたから。ごめん、今ちょっと急いでて」

 舌打ちしたいのをこらえながらクリスは彼女を適当にあしらった。

――彼、彼が僕を見つけた。

 早く捕まえなければ彼は行ってしまう。無性に焦って振り返ったクリスの目はしかし、彼を見つけることができなかった。

 クリスは慌ててきょろきょろと周囲を見回した。

「あなたも誰か探してるの?」

 少女の言葉は耳に入らなかった。周囲はただごった返すばかりで、彼は忽然と消えていた。

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