第9話 火の酒

 温泉から出た周作が、ケモ耳姿で廊下を歩いていると、加茂が悲しそうな顔をする。


「もう、温泉に入っちゃったんですか? 誘ってくれたらよかったのに」


 肩に載せた手拭いと浴衣姿で、温泉に一人で入ったことが分かったのだろう。

 だが、誘う訳はない。

 女であることがバレる。

 いいから、放っておいて欲しい。面倒だ。


 できれば、加茂を崇拝する元子に目を向けていただきたいのだが、周作がそうできる訳もなく、困惑している。加茂を邪険にすれば元子が悲しむし、加茂に全く興味はないのだから、周作はできればなるべく関わりたくない。


「それにしても、ケモ耳、似合いますね」


 加茂が、ケモ耳を触りながら、周作を褒める。


「嬉しくないな。別に好きで付けている訳ではないよ。良かったら、この役は喜んで加茂君に譲るよ」


 周作は、そっけなく答える。このケモ耳のお陰でロビーでも注目を浴びてしまった。できれば、外したい。だが、同僚にくすぐられるなんて、人との関りは最小限に抑えたい周作にとっては、震えあがるほどの苦痛。だから、我慢してつけている。


「そうだ。バスの中で、元子の様子で、何か気になることは無かった?」


 加茂も中村と一緒に前の席に座っていた。何か知っているかもしれない。

 避けてばかりいても仕方がない。どうせなら有益な情報は手に入れておくべきだ。


「木根さんですか? ああ、あんなに酔っていましたものね。でも、そんな大量に飲んでいた印象は無かったな。目にしたのは、……ビールと、酎ハイくらいですかね。木根さん、そんなに弱くないでしょ? 水もちゃんと飲んでいましたし。体調でも崩していたんですか?」


 加茂が思い出しながら、答える。

 弱くないどころではない。元子は酒豪だ。

 一度、元子と一緒に弟夫婦と藤沢とのメンバーで飲んだことがある。元子の飲みっぷりに、周作も優作もあおいも震えあがったくらいだ。ビールと酎ハイ二本、それに加茂や中村が見ていない間に飲んだ物を合わせたとして、酒に強くない周作と違って、その程度で元子が酔うはずがない。


「酎ハイは、中村さんからもらった物?」

「他にも飲んでいたかもしれないので、何とも言えませんが、一本は、そうですね。隣の席でしたので、中村さんと木根さんが自分の持っていたものを交換していたのを見ました。ビールは、誰からもらったのか分かりません。同僚の誰かからでしょうか。同じ銘柄のビールが何本もバスの中で受け渡しされていたのを見ています。……水は、どうだっけ。ああ、一人一杯ずつ、大きめの紙コップに入れて旅行会社の人が配ってくれていたので、たぶんそれです。赤野さんの席にもあったでしょ? お弁当を配ってくれていて、その時に水ももらいました。あ~赤野さんのお弁当は、他の人に木根さんがあげていました。どうせ起きないからって」


 起きた時、周作の席に水は無かった。無かったのは、きっと、元子が飲んだから。


 なるほどね、特に恨みを買っているわけでもない同僚からもらった物より、仙石の息のかかった旅行会社の用意した水に何かを混ぜられていた可能性が高いと考えられる。

 旅行会社の者が入れたならば、恐らくは、狙いは周作。ならば、何かが入っていたのは、元子の水ではなく、周作の物。今のところ、あの男は周作を生け捕りにするか、身動きが取れないようにしたいだけのようなので、殺しはしないだろうし、警察関係者だらけの中での行動、見つかって誤魔化せないような毒物の混入はしないだろう。


 毒性の高い物でなくて助かった。自分の代わりに元子が死ぬなんてことにならなくて良かった。


 摘発したいが、残念ながらすでに時間が経っている。証拠はもう処分されているだろう。


「それよりも、赤野さん。宴会に参加しましょうよ」


 加茂が強引に周作を引っ張る。力が強く、上手く振り切れない。


「か、加茂君、ちょっと。僕、用事があって……」


 そろそろ松岡に連絡しないと、松岡に怒られる。なのに、加茂にがっちり腰を掴まれて、グイグイと宴会場に誘導されてしまう。


「駄目だから。ヤダって! 離して」


 周作が抗議の声を上げても、ますます加茂の周作をつかむ力が強くなる気がする。

 この男、何考えているんだろう? 周作は、イライラがつのる。


 仙石の手先ではないかと疑いたくなる。以前に、あまりに加茂が周作に近寄ってくるので調べたが、特に仙石の関係者と接触した痕跡はなかった。ただただ強引な奴なのだろうとは思うが、周作には迷惑以外何物でもない。


 結局、宴会場に連れ去られた周作は、部屋の隅で加茂に掴まれて座らされていた。広い和室の宴会場で、署員が大騒ぎしている。元子も中村も姿が見えないのは、まだ部屋で休んでいるのだろう。


 周作は、できるだけ目立たないようにしたいのに、イケメンで人気者の加茂目当てに女性がまず集まり出して、その女性を目当てに男性もこちらに集まり出す。


 ビールを飲みながらあまり美味くもない刺身を少しつまんで、俯いて不機嫌そうな周作を他所に、隣で加茂は楽しそうに笑って応対している。

 ケモ耳がついているためか、何人もの署員に写真を求められて、仕方なく周作は応じる。


 予定より、押している。


 スマホが気になる。チラリと見た画面に映った物に、ヒュッと周作の喉が鳴る。松岡がそうとう怒っている。周作は涙目になる。


 慌てた周作が目の前のグラスの水に口をつけると、入っていたのは水では無かった。


 スピリタスだ。これ。


 スピリタス。度数が九十を超える恐ろしい酒。しかも、スポーツドリンクで吸収されやすくブレンドしている。サッと周作の肌が赤くなってくる。頭がクラクラする。

 

 元子の一件があったから、用心していた。だから、それほどの量は飲んでいないが、それでも、カッと体が熱くなって鼓動が早くなってくる。これは、元子のような化け物の酒豪か、周作のような対応が分かる人間でなければ、急性アルコール中毒で死んでしまうだろう。


 なるほど、宴会場で持ち込みしているような集まり。誰かがいたずらで持ち込んでいたっておかしくない。毒物でもないから、足もつきにくいだろう。


 皆に囲まれている加茂の目を盗んで、フラフラとしながら、宴会場を周作は抜け出す。トイレで指を喉奥に突っ込んで無理矢理胃の中の物を吐き出し、水道水を蛇口から飲む。その繰り返し。それでも、頭はフラフラして脳は機能が低下しているのが分かる。


 今なら、部屋は、誰もいないはずだ。そこで、松岡に連絡をとらないと。もう、時間がない。

 スピリタスの件はどうせ小物が命じられて訳がわからないまま犯行に及んだのだろう。それよりも、青野あおいの安全が気にかかる。

 優先すべきは、そっちだ。小物は見逃してやる。


 このまま周作が行動不能になってあおいが連れ去られてしまったりすれば、全ては仙石の思惑通りになってしまう。それだけは、避けたい。


 ……見てりょやう、仙石。ふざけたマネしにゃがって。


 呂律の回らない周作の怒りに火が付いた。

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