青野海と赤居苺1

 葉子が「あ、」と言ったのは覚えている。私はお客さんと目と手を合わせていたところだった。若い女の子で、すこし気が弱そうで、紫のリボンをつけていたのできっとすみれのファンだろうと思った。

 すみれが救う女の子は、たしかにこんな顔つきをしているかもしれない、と、そんなことも思った。私も青い色を身に着けた子を見て、なんとなく納得するようなことがある。私を好きでいてくれる子はこういう子なんだと。

 視界の端で何かが動いたような気がした。でも目に見えるものと、手に感じるものと、音と空気の震えと、それらが情報になって理解されるより前に、すべては終わっていた。

 だからこれは全部、後から統合された記憶だ。

 雄叫びのようなものが聞こえた。でも本当はその前に、もっとはっきりとした言葉があったのだ。なぜか、私には雄叫びよりもあとにその言葉が脳に届いた。

「死ね!」

 悲鳴は誰のものだったのかわからない。剥がしの人たちが一斉に動いて、私が目を向けたときには、その男は腕を振りかぶっていた。殴ろうとしているのかと思った。カッターを握っていたというのは、あとから知ったのだ。

 私は一番端にいて、横には葉子がいて、その奥にゆーかりの二人がいて、すみれと桃がいて、最後に苺が立っていた。ハイタッチ会の時はいつもこの並びだった。私は苺から一番遠いところにいた。

 何も認識が追いつかなかったけれど、男が苺に向かっていることは分かっていたのだ。それも今の感慨なのか、その時の感慨なのかわからない。

 いや、でも、きっとあの時、あの瞬間にそう思ったのだ。私は、なぜだかわからないけど、その時がきてしまったと思ったのだ。なぜ、そう思ったのかわからないけれど。

 すみれが桃を囲うように腕を伸ばして、ちょうどその手の甲の所に、男の手が振り降りた。その位置は、苺の顔の目の前だった。悲鳴は、今度は誰もがあげていた。男女の悲鳴は重なって、空気がずれるように揺れた。

 私は、目の前の女の子を抱きとめていた。

 背の丈が、ちょうど苺と同じで、ひどく混乱したのを覚えている。血が流たのが見えた。それはすみれの手だった。カッターはすでに男の手から落ちていた。

 それでも男はまだ苺に向かっていこうとしていたのだ。体全体で突進しようとするように。その時、うずくまるすみれの上から、怒号を上げながら桃が飛んで、男を蹴飛ばしたのが見えた。

「ぎ」

 男が間抜けな声をあげた。あれだけ恐ろしいことが起きたのに、私が一番鮮明に覚えている音はそのバカみたいな音だ。他に残っているものといえば、遠くに突っ立っている苺の姿だけ。

 苺はぼうっと突っ立って、こちらを向いていた。

 目が合った気がした。

 そのとき私は、腕の中にいる女の子を抱きしめながら、一瞬だけ、私たちがちいさな女の子だったときのことを思い出したのだ。

 長い長い夢のような一瞬だった。

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