第十一章 進藤

 昔の不倫相手と偶然にも再会したのは行きつけのカフェだった。そこは知り合いが経営しており、コーヒー豆の焙煎所と併設しているような本格的な店だ。私自身も喫茶店を開こうと独立を控えている為、勉強を兼ねて頻繁に通っていた。最初は気が付かなかったが、声をかけてきたのは向こうからだ。

「アンタ今でも続いてるん?」

 彼女は昔と変わっていなかった。主語なく会話する部分も含めて。推理すると恐らく、私の婚姻関係についてだろう。

「もう別れたよ」

「へー。もしかして原因って私?」

 悪びれも無く尋ねてくる彼女を見て、私は相変わらずだなと感じつつも「違うよ」と答えた。

 離婚の原因は元妻の不倫だった。元々お互い仕事に熱中するあまり、すれ違いが多く気がついた時には夫婦仲は修復出来ない状態にあった。別に元妻に対して、やり返してやろうというつもりじゃ無かったが、離婚目前で彼女と知り合い、その時の私の目には自由奔放な彼女が輝いて見えた。そして関係を持つのには時間を要さなかった。後になって彼女には私の他にも複数人関係を持つ男性がいると知り、それっきりだ。

「そっちはどう? いつ引っ越してきたの?」

 とっくの昔、若かりし頃の思い出となった人物が突然目の前に現れて、私は幾分か動揺したが世間話を少し交えてこの場を去ろうと考えていた。ましてや彼女とは以前転勤で大阪に居た時に関係を持ったので、まさか東京に戻った後に再会を果たすなど想像もつかなかったのだ。彼女の今の状況に興味があったわけでは無いが、社交辞令として尋ねてみた。すると驚きの返事が返ってきた。

「最近や。それよりアンタとの子供、もう小三やで」

「……え?」

「大きくなったモンよねぇ。顔見に来る?」

 私との子供? そんな筈は無かった。離婚してから彼女と再婚をしたがそれも半月ほどのことだ。彼女との結婚生活は想像していたものと違って、男関係や金銭感覚もお互いの努力でどうにかなるものではなかった。私はそういった現実的な生活面を不倫関係の際に見抜けなかった自分が悪いと妖艶な彼女に流されることなく、夜を明かす際にも必ず避妊をしていた記憶があった。勿論前妻と書類上でも夫婦であった頃も子供ができるような無責任なことはしていない。それについてはしっかり自信を持って答えられた。しかし彼女はそれでも私の子だと言い張るので、そこまで言うなら一目見てみようと彼女の家へと招いてもらった。そして実際に会ってみたわけだが、その子から私の面影はどこにも無かった。当然だと思ったが、心のどこかで安堵している自分もいた。

 そもそも彼女はよく嘘をつく女性だったなと、その時やっと思い返したものだ。私との関係だって彼女の嘘で終わったのだから……と。

 しかし、そんな事より私が気になったのは小さな男の子の身体に似つかわしく無い、幾つかある大きな痣だった。

「こんにちは」

「……」

 挨拶に返事もせず、じっと私を見上げているだけの男の子は小学三年生と聞いていたが、何処かもっと幼く見えた。

「お名前は?」

 私がそう尋ねると男の子の代わりに彼女が答えた。

「櫂人、やろ。ほら喋りぃや」

「……」

「櫂人くん、こんにちは」

「……」

 母親とは対照的に、無口な子だなと感じた。部屋に戻っていなさいと言われると櫂人くんはそそくさと奥の部屋に入って行った。

「一人で育ててるの?」

 櫂人くんがドアを閉めるのを確認してから私は彼女に尋ねた。

「んな訳ないやん」

 しかし部屋を見渡す限り、父親の存在を感じさせるものが無い。と言うより、子育てを出来るような環境ですら無いように感じた。部屋中散らかっており、洗濯物は山積み。台所のシンクは洗い物とインスタントのカップヌードルなどのゴミで溢れかえっており、床にはビールや焼酎の空き瓶が転がっていた。室内はカビ臭い匂いと生ゴミの匂いが混じって小蝿が飛んでいる。

「まぁ、まだ籍は入れてへんけどな。はぁ、暑いわ」

 彼女はそう言うと羽織っていたカーディガンを脱いだ。その拍子に櫂人くんと同じような痣が、彼女の腕に広がっているのが見えた。

「……」

 なるほど、大まかな彼女の状況は何となく理解ができた。私は今の彼女とは何の関係も無い訳だが、それでも目を瞑ってこの場を去る事は人としてどうなのだろうかと考えた。この劣悪な環境に子供まで居るのだから尚の事だ。

「人んちをそんな目でジロジロ見んといてや」

「こんな環境を見て放っておけないよ。とにかく、まずは……」

「今までの分、養育費払ってや」

 私が言おうとしているのはそういうことでは無かった。然るべき自治体に相談して生活を改善するといった提案だったのだが、彼女にとってはそんな事よりも金銭面の話の方が大切だったようだ。

「もし本当に払って欲しいならDNA鑑定をしよう。費用はこっちが持つから」

 そう言い切れる程に、私は自分が父親では無いと言う自信があった。そんな私の様子を見た彼女は少し言い返して来たものの、途中で話を逸らしたので諦めたようだった。どうやら私が父親というのは、やっぱり嘘だったらしい。それどころか、彼女は当時から複数の男性と関係を持っていたようなので、父親が誰か分からない可能性すらあるのではと思った。

「今の相手との関係を見直した方がいい」

「なんでアンタにそんなこと言われなあかんねん。養育費も払われへんのやったらもう帰ってや」

 彼女は苛立った様子で座っていた椅子から立ち上がった。その拍子にテーブルに山積みになっていた本が崩れ落ちて床に散らばってしまった。私はため息をつきながら本を拾おうと手に取った。どうやら櫂人くんの教科書が落ちたらしい。しかしそこには子供の筆跡で「あわづ るい」と書かれていた。そういえば彼女の名字は粟津だった。だが先程の男の子は櫂人と名乗っていた。これは一体誰の教科書だろう。

「同じクラスの子の教科書?」

 特別気になったわけではないが、彼女を落ち着かせるためにも一旦話題を変えようと思った私は、咄嗟に手に取った教科書の話をした。恐らく同じ名字のクラスメイトが居るのだろう、と。それなら間違えて持って帰ってしまうのも分かる。

「それ二年生の教科書やん。知らへん」

 彼女はそれがどうしたという様子で、この話題に興味を示していなかった。それより早く出て行ってほしいと言わんばかりに険しい表情を浮かべていた。自分から招いたにしては相応しくない態度ではあったが、それでも私は……過去の情からだろうか。この親子を何とか助ける事は出来ないかと考えていた。

「さっき櫂人くんは三年生って……」

 言いかけた言葉が途切れる。教科書は床に散らばった他に、テーブルにも何冊か置かれていた。そこには二年生、一年生の時の教科書まであった。そのどれもが「あわづ るい」と書かれていたのだ。

「これは……」

 私はハッとして櫂人くんが戻った部屋の前へ行きドアを叩いた。

「櫂人くん、開けてもいい?」

「ちょっと! 何やってるん⁉︎」

 後ろから彼女が追いかけて来るが、私は構わずドアを開けた。その部屋はどう見ても子供部屋ではなく、山積みになったゴミ袋や壊れた古い掃除道具、ボロボロの絵本や小説などが散乱した物置部屋だった。隅っこに座り込んでいた櫂人くんは驚いた様子でこちらを見ていた。この部屋は隙間風が入って来ているようで、特別寒かった。寒さを凌ぐ為か、櫂人くんはさっきは着ていなかった制服のブレザーを羽織っていた。

「聞きたいことが……」

 ブレザーには学校の校章が刺繍された名札が付いていた。そこには「粟津櫂人」と書かれていた。櫂人くんが持っていた三年生の教科書にも「あわず るい」と記載されている。私は彼に背を向け、先程とは打って変わって怯えた表情を浮かべる彼女と対面した。

「この教科書の名前は? この子は櫂人くんじゃないのか? 類って……」

「やめて‼︎」

 彼女は突然叫び、取り乱し始めた。すると部屋中の物を投げつけたり荒らし始めたりとしたので、私はしばらくの間は彼女を宥める事で精一杯だった。

 

 

 

「そんな事が……」

 私は進藤さんの話を要所要所、相槌を打ちながら聞いていた。

「私、何も知りませんでした。それで、その後どうなったんですか?」

 進藤さんはグラスに水を注ぎながら少し小さな声で私に話を続けた。

「彼女の交際相手には子供がいたそうだ。しかしまだ幼い頃、事故で亡くなってしまった。ちょうど櫂人くんと歳が近かったようだ」

「その人……結婚してたって事ですか?」

「そうだね。そして彼女……櫂人くんの母親は当時の彼氏にとても熱心だった。だから二人の子供として櫂人くんを育てようとした。そこまでは理解出来る。ただ、どうしてそうなったのかは……彼女にしか分からないけれど……」

 そこまで言うと進藤さんは言葉を詰まらせたので、代わりに私が言葉を付け加えた。

「きっと、お母さんはとても愛していたんですね、その彼氏さんの事を。例え手をあげられたとしても……自分の子供を名前ごと差し出してしまうほど……」

 私自身も口に出したものの、驚きを隠しきれなかった。しかし無理もないだろう。自分の子供の名前を、相手の子供の名前に変えて生活してしまうほどに狂信的に愛しているなんて、言っては悪いがどこか不気味に感じる。そしてそんな生活に巻き込まれた子供は、一体どういう心境で毎日を過ごしていたのだろう。

「私、櫂人とは幼馴染なんです。地元は大阪で……大学がこっちだったので引っ越しして来たんです」

「そうだったんだね」

「私と櫂人は小学校が別だったので、事情を知る機会が無かったんです。そして何も言わずに突然櫂人は引っ越してしまったので、それっきりで……」

 先日、櫂人に引っ越した理由を尋ねたが「忘れた」とはぐらかされてしまった。子供の頃とはいえ、小学生の頃に引っ越しした理由を忘れてしまうものだろうか。

「それは彼氏が東京に住んでいたからだよ。出張か何かで大阪に来ていた時に二人は知り合ったらしいが……そして追いかけるように彼女は東京へ引っ越したんだ。全ては落ち着きを取り戻した彼女が語ってくれたよ。」

「結局その後、進藤さんはどうされたんですか?」

「とりあえず、その場はどうしようも無いから連絡先を渡して帰ったよ。それでも連絡がいっこうに来ないから何度か訪ねたよ。それでも追い払われ、挙げ句の果てには警察を呼ばれた。仕方が無いから、櫂人くんにも連絡先を渡して直接家を訪ねるのはやめにしたんだ」

「その時、警察に事情を伝えれば……」

「証拠が無いっていうのと、私が元夫という事実が相まって取り持ってくれなかった。側から見れば押しかけているのは私だからね」

「そんな……」

 私は落胆した。こんな事実があって良いのだろうか。そして、当時の自分を憎みもした。私があの時気づいてあげられていたら、何か変わっていたかもしれないのに。

「櫂人は、類さんの事を本気で別人だと思っていますよね? 私には嘘をついているように見えませんでした」

「私もそう思うよ」

「一体どういう事なんでしょう……」

「正確な事は分からない。でもきっと櫂人くんが……類くんになろうと頑張った結果なんだろうね。親を心の底から嫌いな子供は居ないよ。類くんになれば愛されると思った。実際、自分を類くんだと思い込めば、演じていれば、彼女は機嫌が良かったんだろう。それを愛されていると取ったんだね」

「……」

 自分自身を騙して、自分が何者か分からなくなるまで、櫂人は類に入り込んでしまった。長い歳月をかけて少しずつ……。最早、今更病院に連れて行って薬を処方してもらうのは、悪い方法とは言わずも根本的な解決では無い気がする。

 今までの腑に落ちない出来事が段々と繋がった気がする。つまり、城崎さんも知っていたんだ、きっと最初から。櫂人を監禁したという男の人も、そして進藤さんも……。

「櫂人はどうしてここで働いているんですか?」

「うん……ある日電話がかかってきてね。『僕らの精神状態じゃ、仕事を続けるのは難しい。助けて欲しい』電話口は櫂人くんでは無く類くんだったんだ。うちなら私がオーナーだから、融通を効かせられる。私から提案したんだ」

「その、類さんの時は……櫂人の事を覚えているんですか? 櫂人は覚えていないようでしたけど」

「類くんは櫂人くんの事を、恐らく全て覚えているし、邪険に扱ったりもしていない。不規則に類くんと櫂人くんが入れ替わるような精神状態を起こすんだ。大人になって母親と離れてからは、随分と頻度は減ったようだし、ある程度は類くん側がコントロール出来てるみたいだね。過去の事に触れた時に櫂人くんから類くんに代わる事が多いみたいだよ。」

 ここまで話しておいて何なのだが、とても現実味を帯びた話とは思えなかった。過去の虐待からの精神疾患か何かの類だろうが、確かに進藤さんは嘘を言っていないと思うし、話にも筋が通っている。しかし全ての疑惑が晴れたわけではなかった。

「……城崎さん、城崎くいなさんを知っていますか」

「そこまで話していたんだね」

 やっぱり。私はクイズや推理が好きな方であるが、これほど答えを当ててすっきりした気持ちになれたのは今日という日ほど無かっただろう。

「どうして城崎さんは、櫂人に類さんを探させたんですか? しかも、ここを訪ねて来たんですよね? 進藤さんは最初から知っていたんですか?」

 矢継ぎ早に質問を投げつけてしまったが、進藤さんは動じず丁寧に私に答えを教えてくれた。

「ある程度、類くんは精神をコントロール出来ると言ったけど、どうしても難しい時があった。どういう時だと思う?」

「え? えっと……」

 その質問は予想出来なかった。そういえばこの話は私の想像の範疇を超えていたのだという事を、私は今になって思い出した。

「君と会っている時だよ」

「……私?」

「幼馴染と聞いて確信したよ。君は櫂人くんの初恋の人だね」

「それって……」

「昔から君と会っている時だけは、類くんはどうしても櫂人くんの状態から出ることが出来なかったそうだよ。思い出話として話してくれた事がある」

「……私と再会したから、ですか?」

「城崎さんに君の事を話していたかどうか、確信は持てないけど恐らくそうだろうね。ただ、もし櫂人くんから一日経っても変われない時があったら、助けてくれないかと頼んでいたそうだよ。仲が良かったみたいだから」

「えっと、じゃあ城崎さんと櫂人の関係って……」

「櫂人くんは城崎さんのことを知らないよ。類くんとは仲が良かっただけで」

 進藤さんが和かに答えてくれているのにも関わらず、申し訳ないが私は正直良い気持ちにはなれなかった。いくら別人だと思っているからといって、櫂人は類さんで類さんは櫂人なわけで……そこは切り離せないのであって、それってつまり、浮気では無いのだろうか……?

 私は額に手を当てて深くため息をついた。進藤さんの前だというのに、私は気にしていられないほど動揺してしまっていた。何となく類さんと櫂人の関係については予想を組み立てていたが、城崎さんの事にまで頭が回っていなかったのだ。ここに来て醜態を晒さない為にも、事前に熟考してきたというのに全てが水の泡だ。

「楠瀬さん、気持ちは分かります。真実を隠していた事、私の方から謝らせてください」

 私は気を取り直して頭を上げた。

「いえ、進藤さんのせいじゃ……」

 そう、進藤さんのせいじゃない。しかし全て櫂人のお母さんのせいだと、丸投げしてしまえる程に単純な問題でも無かった。

「……私、話したいです。櫂人と。進藤さんは刺激しな方がいいって言いましたけど、ずっとこのままじゃ……」

「うん、そうだね。だからきっと、そろそろ気づいているんじゃ無いかな。城崎さんとも、もう話しているかもしれない」

「……」

 城崎さんの名前が出る度、キュッと胸の奥が締め付けられる。

「あの、色々聞かせて頂いてありがとうございました」

 私は席を立った。進藤さんは何も言わずに和かな表情を崩す事はしなかった。その代わりに小さな紙切れを差し出した。

「何かあれば、連絡してください」

 私は電話番号が書かれた紙切れを受け取ると、軽く会釈をして店を出た。ミルクティーの代金を払い忘れた事に気づいたのは後になっての事だったが、進藤さんは恐らく私を無銭飲食した泥棒だと騒ぎ立てる人ではないだろうと考え、申し訳ないと思いながらも後から改めて支払いに行く事にした。

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