第六章 終止符

 次に俺が目を開けると先程と風景は変わっていなかった。さっきまで居た場所と同じ部屋、同じソファー。そのソファーの上に俺は寝転がっていた。ホテルのロビーにあったソファーよりこっちの方が少し低反発気味な気がする。それはそれで好きという人もいるだろうが、俺は跳ね返りをしっかりと感じられる高反発ソファーの方が好きだな。だけどこのソファーは限定品って言ってたっけ……こっちの方が高いのか?

 俺は頭がぼーっとしていたせいか、どうでも良いソファーの性能に気を取られ、現状を把握しようとするのに遅れてしまった。

「おはよう、思ったより早く目が覚めたね」

 はっとして身体を起こそうとした。起こしたのでは無く、起こそうとしたという表現を使ったのは、身体の自由が効かなかったからだった。

「……っ!」

 手足が動かない。手首は身体の後ろで固定されていたので目線を足元に向けると、どうやら結束バンドのようなもので縛られているようだった。

「ごめんね、少し手荒だけど許して欲しい。あ、飲んだのは睡眠薬だけだから、身体に害は無いよ」

 先程と変わらない笑顔で速水さんが俺に笑いかける。ここに来て俺が口にしたのはさっき彼が出してくれた紅茶だけだ。恐らく薬が盛られていたんだろう。

「な、何で」

「何でって……帰られたら困るからだよ。勿論、理由は分かるよね?」

 分からない。分かるはずもない。もしこんな事態になると分かっていたら、のこのこ彼に着いて行ったりしていない。俺は意味が分からないといった素振りで首を大きく振った。今俺が感じているのは焦りと恐怖、ただそれだけだった。パニックで頭がうまく回らない。まさかこのまま、この人に殺されるんじゃ無いだろうか。そう思うと居ても立っても居られず俺は何とか身体を捻り、ここから脱出しようと動いた。低反発のソファーが身体を包み込んでいるようで、それがこの場から逃さないとされているように感じて、とても気持ち悪かった。

「あ、ちょっと暴れないで。危ないよ」

 彼の言葉通り身体を動かした反動で俺はソファーから勢いよく落ちた。

「うっ」

「大丈夫? 頭は打ってない?」

 運良く肩から落ちたおかげで頭は打たなかったものの、少しの間うずくまっていると見かねた速水さんが俺を見下しながらこう言った。

「類さんとはまるで違うんだな」

 俺は言葉の意味が分からず、ゆっくり顔を上げ、速水さんの方を見た。

「……あの」

「早く類さんを解放したらどう?」

「……はい?」

「とぼけるなよ。類さんを隠しているのは君でしょ」

 一体何故そうなったのだろう。どこに疑われる部分があった? その言葉たちが喉まで出かかったが、俺はとにかく自分の無実を伝える方が先だと判断した。大して面識も無い人間を家に招き、睡眠薬を盛り、手足を縛るだなんて……人付き合いの少ない俺でも分かる。この人は危ない人だ。何をしでかすか分からない。

「俺は本当に知りません、本当です。だって会ったことも見たことも無いです。兄が居るなんて知ったのもつい数日前で……」

「嘘をつくな!」

 穏やかだった速水さんが突然大声を上げ、目の前のテーブルをガンッと足で蹴った。その表情は先程までとはまるで別人のよう。冷たい、白けた虫を見るような目つきで俺を見下ろしていた。

「お前以外誰が居るんだよ。早く類さんを返せ」

「……」

 どうする? このままこの男を逆上させてしまえば俺の命が危険だ。だからといって犯してもいない罪を認める事も出来ない。一旦落ち着いて話をしたいところだが、どう宥めればいいのか。ここに来て俺のコミュニケーション能力の無さに悔やまれる。対人関係のスキルは時として命を脅かすものであると知っていたならどうだろう。俺はもう少し能力向上のために努力しただろうか。いや、きっと出来ない。俺はそういうろくでも無い人間なんだから。

「おい、聞いてんのか」

 俺が自問自答をしている間にすっかり口調が変わってしまった速水さんは、反応が無い事をじれったく思ったのか今度はテーブルを思い切りバン! と叩いた。

「……」

 駄目だ。終わった。俺の人生はここで終わりだ。せめてもう一度くらい、凛に勇気を出して飯に誘ってみるんだったかな……

 絶望の末、俺の脳内には走馬灯が流れ始めていた。大した思い出も無いくせにこういう時は一人前に記憶を捻り出すのだから、人間の身体とは不思議なものだ。


『このままでいいの? ぼくは嫌だよ』

 聞こえたその声の主は速水さんのものでは無かった。

『怒られるかもしれない? お父さんやお母さん、大人は怒られないのに。それって社会で言うところの理不尽ってやつだよね』

「りふじん? って何?」

『理にかなってないってこと』

 それでも意味が分からない。でもこれ以上聞いても、やっぱり分からなそうだ。

『だからね、気にせず言いたい事を言ったらいいし、やりたい事をやれば良いんだよ』

「そうかなぁ、でもそうするとお母さんはすごく怒る」

『じゃあ、会いに行かなくていいの? もう会えないよ。君の……』


 ーーピンポーン


 遮るようにインターホンの音が脳に響いた。はっとして俺は目を開ける。いつの間にか目を瞑っていた……いや、眠っていた? まさか、そんなはずは無い。じゃあ今の映像は何だ? 夢じゃ無いなら一体何だろう? これは……俺の記憶?

「……ちっ」

 速水さんが舌打ちをすると、インターホン越しに聞き覚えのある声が聞こえた。

「ここに居るのは分かってるのよ。開けないとどうなるか……分かってるわよね?」

 紛れも無く城崎さんの声だった。良かった、助かる。彼女がきっと警察を呼んで……その瞬間、俺は意識を手放した。


 見慣れない白い天井が視界に広がる。俺は先程とは違い目覚めて一呼吸置くとすぐに意識を失った事を思い出した。勢いよく起き上がると、俺は知らない部屋の知らないベッドの上に居る事が分かった。

「またか……」

 身に覚えのある展開だった。しかも最近だ。同じような状況下だが一つ違うのは今、この部屋には誰も居ないという点だった。俺はベッドから降りると自分の身体を確認した。もう手足は縛られていない。そういえば気を失う前に城崎さんが来てくれたような……

 俺は急いで部屋のドアを開け、見覚えのある廊下に出るとリビングへと向かった。

「あら、おはよう」

 そこに居たのは城崎さんとーー

「粟津くん……」

 どうやら落ち着きを取り戻した速水さんだった。

「えっと……あの、俺……」

「本当にごめん!」

 俺が喋り終える前に、速水さんは目にも止まらぬ速さで俺の前に正座をし、勢い良く頭を床に付けた。

「俺、てっきり粟津くんが類さんを攫った犯人だと思ってて……絶対捕まえてやろうって思ってたんだ。城崎さんから唯一の身内だって聞いたから……だけど、彼女から一通り話を聞いて君は潔白だって分かったよ。本当にごめん……」

「いや、ええと……あの、頭を上げてください」

 顔を上げた速水さんは潤んだ瞳で俺を見つめる。

「手荒な真似をしてごめんね。でも粟津くんのことをどうにかしてやろうとか、そんなつもりは最初から無かったんだ。ただ、類さんが今こうしている間にも……そう思うと……」

 速水さんは手をグッと握りしめて言葉を詰まらせた。余程仲が良かったのだろうか。彼の悔しそうな態度を見ていると、先程俺に向けた仕打ちが何だかどうでも良くなってきた。話の流れを聞く限り城崎くいなは兄から連絡があった事を伝えてないようだ。

「あの、大丈夫です。何か、兄の為に、その……ありがとうございます」

「そこ、お礼を言うところなの?」

 黙って見ていた城崎さんが突っ込みを入れる。

「え……」

「粟津くん、この人に睡眠薬を飲まされて手足を縛られて尋問を受けたそうだけど? それだけで済ませる気?」

「えっと……あ、じゃあ警察に届ける……?」

「警察に届けられたら私も面倒なのよ。取り調べで類の話になるじゃない。もし大事になって父の耳に入ったら……」

「じゃあ、どうすれば」

「示談で解決しましょ。慰謝料でも貰ったら?」

「勿論、示談で良ければお支払いします!」

 速水さんが俺達の会話に大声で割って入った。

「いや、いいですよ。本当に、なんか面倒なんで……」

 解決していない点は幾つかあるが、俺はどっと疲れていたので早く家に帰りたいという一心だった。

「俺、もう帰っていいですか?」

「せめて連絡先だけでも……類さんの事で何かあれば連絡してくれないかな⁉︎」

「……はぁ」

 ここまでくると断るのも面倒だったので、俺は速水さんと連絡先を交換し、城崎さんと一緒に速水さんのマンションを出た。

「……あの、城崎さん、その、ありがとう」

「こちらこそ、面倒事に巻き込んでごめんなさい。あの人……悠は類に対して狂信的な信者のような人なのよ。だから見境無く貴方を攫ったのね。私もうっかり口を滑らせて彼に粟津くんの話をしちゃったから」

 妙に饒舌で説明口調だったのが気に掛かったが、とりあえず俺は事の成り行きを城崎さんに話した。

「悠も同じ話をしていたわ。本当だったのね」

「……それで、えっと、途中で抜け出してしまって……その」

「ううん、いいの」

「え、いやでも、親御さんに……」

「悠にも言われたわ。別人を紹介しようだなんて、私もどうかしてた。彼のことをとやかく言う資格無いわね」

「それでその……婚約者っていうのは……」

 この話については聞き辛かったが、真偽をハッキリさせない事には話が進まないので仕方が無い。俺は恐る恐る城崎さんにおぼつかない視線を向けた。

「粟津くんは嘘だと思った?」

 歩いていた城崎さんのあしがピタリと止まる。俺は城崎さんの後を追うように歩いており、突然立ち止まったので危うくぶつかりそうになった。

「……嘘だと思ったから、悠に着いて行ったんだものね」

「……」

 ここで半信半疑だった、と言うのも何だか胡散臭い。もしくはあの場から逃げたかった、と言い訳するにも格好悪いので、彼女に返す言葉は何も無かった。

「籍を入れてる訳でもない、婚約指輪すらない、私とは知り合ったばかり。信じられなくて当然よね」

 振り返った城崎さんの表情は、いつもと変わらず無表情に見えたが、何処か寂しそうな目をしているように感じたのは気のせいだろうか。

「でも信じて、粟津くん。私の言っている事は本当よ。じゃなきゃここまでするなんて、おかしいでしょう」

「……本人が」

「……え?」

「本人が見つかったら、すぐ確認出来るのにな」

 俺は何だか気まずくて彼女から目を逸らし、遠くのスーパーらしき建物を眺めるフリをした。家族連れが多いので、そういえば今日は土曜日か……と、ついでに思い出したりもした。

「……」

 俺も城崎さんも何も言わない。そして沈黙が訪れる。街の喧騒が騒めく路上で、男女二人が何も言わずに突っ立っている。周りからすれば誰がどう見ても不自然だ。

 ここで「信じる」なんて言うのは簡単だ。だけど俺はつい先程まで速水さんの言葉を否定せず、行動を起こして彼女を裏切っている訳だ。そんな言葉はとても使えなかった。しばらく黙っていると先に口を開けたのは彼女だった。

「まだ類を探してくれる気はある?」

「……どうやろう」

 どっち付かずな返答をしてしまったのには理由がある。俺は二百万円という金に釣られた訳でも無く、ただ良く知らない身内がいたという好奇心からこの話に乗った。あわよくば小説のネタにならないかとも考えた。

 しかしどうだろう。蓋を開けて見れば手がかりは何も無く、掴んだと思って手を広げてみたら何も無い。更には今日のような散々な目に合ってしまうのだから、俺の頭には諦めようという考えも既によぎっていた。そして城崎さんの事も、速水さんの事も……誰を信じれば良いかも分からなかった。

「粟津くん」

 突然腕を取られ、俺はハッとして再び彼女の目を見るなり動揺した。何故なら無表情だったはずの城崎さんの顔が今にも泣き出しそうだったからだ。

「お願い、信じて。類がいないと……私」

 俺の腕を掴んだ手が震えている。城崎さんは女性の中では長身な方だが、手は思ったより小さくて俺が本気で握れば折れてしまいそうだった。

「何でもするわ。金額が少ないのなら、後いくら出せばいい? それとも他に何か……」

 彼女の瞳からひとつ、ふたつと涙がこぼれ落ちる。さっきも思い出したが今日は土曜日だ。そうで無くてもこの辺りは人が多いのに、いつもより人通りがあるせいで、俺達の隣を通りすがる人々からの目線が痛かった。

「ちょ……待って待って……えぇ……」

 泣いている女性を宥める術など俺が持ち合わせている訳もなく、ただ狼狽える事しかできない。


 ーーブブッ


 ポケットのスマホが振動したのに気がつき、俺は逃げるように城崎さんから背いた。スマホを手に取り画面を確認すると新着メッセージが一件。俺のスマホが鳴る時はたいていコンビニやよく行く定食屋の公式アカウントからだが、最近の送り主は凛一択だった。

「凛:あれからどう? 今日空いてたら近況報告も兼ねてご飯行かへん?」

 こんな状況にも関わらず、俺は凛から誘いが来た事に嬉しくなり二つ返事で連絡しようとした。

「彼女?」

「うわっ!」

 背中越しに城崎さんが声をかけてきたので俺は心臓が飛び跳ねたかと思うほど驚いた。

「泣いてる女の子を放っておいて他の女と連絡取るって何? 信じられない仕打ちなんだけど?」

 泣いている女の子なんて……自分で言うか? と思ったのも束の間、彼女は既に泣き止んでいた。それどころかその表情には怒りすら感じられた。

「全世界の女性がドン引きする貴方の態度に涙も引っ込んだわ」

「……今の、嘘泣きちゃうよな……?」

「さぁ」

「……」

 俺と城崎さんは少し睨み合ったが、埒が開かないのでさっさと帰宅する事にした。

「じゃあ、俺用あるから」

「ちょっと」

「何やねん」

「私がいなきゃ粟津くん、どうなってたか分からないのよ?」

「……はぁ?」

「だから、悠の家に私が助けに行かなかったら? もっと酷い目に遭ってたわよ。アイツ何をするか分からないんだから」

 やっと本性を現したとでも言わんばかりに彼女は太々しい態度へと豹変した。

「いやいや、さっきまで面倒事に巻き込んでごめんって言ってたやん」

 しかし実際はそう言われればその通りだった。そもそもの発端は、この話を持ちかけてきた城崎さんにあるが、最終的に話に乗ったのは俺なので、よく考えなくとも彼女に助けられた事実そのものは変わらない。

「諦めたって顔ね」

「もう泣き落としには引っかからへんけどな」

「じゃあこれからも類探し、よろしくね?」

 何が「じゃあ」だ。ついさっきまで泣いていたくせに。今度は満足そうな笑みを浮かべる城崎さんを俺は恨めしく思った。

「今、気づいたんだけど」

 再び城崎さんが歩き始めたので、俺も渋々後に続いた。

「ずいぶんと普通に会話してくれるようになったわね、粟津くん」

 そういえば言葉を選ぶ事も吃る事も忘れてスラスラと話していたような気がする。俺にとってはここ数年で稀に見ない、かなりの進歩だった。

「城崎さんが本性見せたからちゃう?」

「だからその城崎さんってやめて」

 ほんの少しだったが、俺は城崎さんと会話することで所謂「普通の人」になれた気分だった。

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