第一章 粟津 櫂人

 ーー欲しいものは、何だって手に入れてやるーー


 ノートパソコンのキーボードを叩きながら、その文章を打ち込んだ俺はうーんと首を捻りながら考え込み、しばらくするとため息混じりに文章を消した。やっぱり自分には思いもつかない考えを文章にするのは俺には向いていない。小説家を目指す者としては、身も蓋も無いことを考えてノートパソコンをそっと閉じた。


「そろそろ潮時やな……」


 俺は昔から物語を考えることが大好きだった。

 元々絵本や小説をよく読んでいたこともあり、子供の頃は眠れない夜に自分を現実から連れ出して、別の世界へと誘ってくれるような妄想にふけていた。

 それがとても煌びやかで、何処か自分の中に眠っている、常人とは違った特別な才能を持っている様に思えていたのだが、実際に大人になった今、その妄想を文章にしてみるとそうでも無い。よくある作品の二番煎じか、それにもなり得ない出来損ないの文字の羅列が完成してしまう。むしろ俺は自分の考えや意見を文章はおろか、口に出す事も苦手だ。

 自分の苦手分野に気づいた頃には、対人関係どころか、時には生活にも支障をきたす程、俺はどうしようもない口下手だった。


 そんな自分が子供の頃から憧れていた小説家の夢を諦めきれず、空いた時間にこうして物語を書き溜めているわけだが、ひとつも作り上げた作品がない。途中で自分の伝えたいことを、どう表現していいか分からず毎回挫折してしまうのだから、夢見がちな子供の自分に会えるのなら「残念ながら俺はただの凡人だ」と一言伝えてやりたい。


 ーーブブッ


 バイブ音が鳴る。はっとしてスマホを手に取り、画面に表示されるメッセージ通知に目をやる。

「凛:おはよう。少しやったけど話せてよかった! また今度ご飯でも行こ! いつ空いてる?」

 俺はその文章を何度も読み返した。昨日の出来事は夢では無かったのかと安堵したが、同時に今更自分が他人と上手く会話を交わしながら、食事を楽しむなんて光景が想像出来ず、彼女の提案にうまく応えることが出来ないと知るとひどく落ち込んだ。

 子供の頃、よく遊んでいた幼馴染みの凛と数年ぶりに再会したのは昨日の事で、それは仕事に向かう道中だった。

「もしかして……櫂人?」

「……え」

「やっぱり櫂人やんな? 凛やで、覚えてる?」

「……っ」

 俺は驚いて言葉が出てこなかった。一瞬、時が止まったかのように俺の身体は硬直して、恐らく目は見開いて声が出なかった。

「こんなところで会えるなんて……偶然やな! 櫂人が引っ越してからやから、何年ぶり? 引っ越し先って東京やったっけ?」

 彼女の喋る関西弁が、俺に懐かしさと切なさを感じさせる。

「……悪い、今から仕事やから」

 一気に飛んできた質問に何一つ答えられず、そう答えるしか術が無かった俺は、思い返せば返すほど、とても情けなかった。

「あ! ごめん、えっと……じゃあ連絡先聞いてもええ?」

 そのまま流れで連絡先を交換した後、俺は仕事の時間が迫っていたのですぐに別れた。彼女は今の俺には縁の無い、恋愛に唯一関係する相手で、つまり俺の初恋相手だ。

 仕事の道中……そう思い返すとはっとして時刻を見るなり俺は急いで立ち上がって、出掛ける準備をいつもより手短に済ませ、自分の家を後にした。


「おはようございます」

 息を切らしながら、少し古びた喫茶店の裏にある倉庫に入り挨拶をする。

「おはよう、粟津くん。今日は珍しくギリギリだね」

 にこやかに挨拶を返してくれるのは、この店のマスターである進藤さんだった。彼は俺の中で、気負いせず会話できる数少ない人間のうちの一人だ。柔らかな物腰に加え、相手に対して一定距離を取りつつ心の壁を感じさせない彼は、年齢が五十手前である事を忘れさせる様な、何処か若々しさも兼ね備えた不思議な雰囲気を持つ人物だ。

「あ、すみません、すぐ着替えます」

「急がなくていいよ、今日はお客さんもあまり入りそうに無い。ゆっくりな日だよ」

「はぁ、そうですか」

「もうすぐ雨が降るみたいだから」

 そう告げると進藤さんは置いてあったコーヒー豆の袋を手に取り、倉庫を出て店内へと運んでいった。傘を持ってきていないことを後悔し天気予報を確認すればよかった、と思ったがバイトの時間が迫っていることを忘れて小説を執筆していた俺にそんな余裕は無かったなと自分で納得すると、仕事着に着替えて彼の後を追った。

 俺は仕事が続かない。口下手なせいか、周りとコミュニケーションが上手く取れないので、よく対人関係でトラブルが起こり、退職に至る。


 ーーちゃんと自分の口で説明してーー

 ーーどうして動く前に意見を言わないの?ーー

 ーーちゃんと話聞く気ある?ーー


 もしかすると、これは誰にでもよくあるただの上司との会話の一部なのかもしれない。しかし俺の場合は、この様な威圧的に感じる物の言い方は、常に「罵声」と見做してしまう。

 こんな「罵声」を浴びせられるのは、俺が不運にも環境が良いとは言えない職場を選んでしまうせい…と思いたくなるところだが、いつも自分の思っている事を上手く伝えられないことが原因だった。


「どうして勝手に行動したの?」

「……別の先輩にやれって言われて」

「あのね……どうして事前に相談してくれないの?」

「はぁ」

「はぁ、じゃ無いでしょう。何でって聞いてるんだけど」


 上司によって言っていることが違っても、きっと大抵の人は上手くやり過ごすのだろう。俺の場合はその上手くやり過ごすというやり方が分からないのだ。誰にも教えられていないのに、何故他の人は対処方法を知っているのだろう。

 とにかく、どうして? 何で? に対して俺は上手く答えられた試しが無い。それに比べて、この場所は上手くやり過ごす必要が無く、意見を求められない。俺にとってとても居心地が良い職場だった。

 

 俺は偶然通りがかりに何となくこの古びた喫茶店に入った。静かで丁寧な佇まいのマスターと喫茶店の雰囲気が一体化したような、そんな空気がとても魅力的に感じた。まるでこの空間だけ現実の喧騒から切り取られているような気がして、何時間も居続ける客も珍しくない。俺もその一人だった。そうして通い続けるうちに、マスターである進藤さんに声を掛けてもらったのがここで働き始めたきっかけだ。


 進藤さんの言う通り、雨が降り始め今日は客の出入りが少なかった。ただでさえ店内は時間がゆっくりと流れている雰囲気を思わせる為、今日は一段とそう感じた。

 ふと、カウンターを挟んでこちらの厨房側に置かれてあるエスプレッソマシンの液晶に目をやる。十九時二十分と表示されていることに気づくと、店内にいた客は全員帰ったことを確認し、俺はそろそろ閉店準備に取り掛かろうとしたその時だった。


 ーーカラン


 入口に付けられたベルが店内に静かに鳴り響く。そこには見慣れない女性が一人で黒い傘を片手に立っていた。少し濡れている肩と背後に降り注ぐ雨に気づくと、俺は傘を持ってこなかったことに再び後悔した。


「すみません、ラストオーダーが半までなんですが大丈夫ですか?」

 近くにいた進藤さんが優しく彼女に声をかける。

「はい」

 彼女は目を伏せ答えると傘立てに傘を置き、濡れたロングブーツのつま先を迷うことなくこちらに向け、俺のいるカウンターの方に向かってくる。俺は少しだけ驚いたが特に表情には出さなかった。

 驚いた理由は二つだ。


 一つは窓際の景色が見えるテーブル席に座ると思ったため。何故ならテーブル席には写真映えするインテリアが多く飾ってあり、女性客には特に人気だったからだ。また、彼女はすらっとした背の高い女性で、俺はファッションに関して疎い方だが、そんな俺でも分かるくらい少し独特で洒落た格好をしていた。そういう女性は特にテーブル席を好むからだ。

 もう一つの理由は女性客が一人でカウンターに好んで座ること自体、常連では無い限り珍しいからだ。


 そして彼女は俺の目の前の椅子に手をかけた。


 店内に客は一人もおらず、座る席は選び放題だというのにわざわざ知り合いでも無い店員の、ましてや目の前の席に座るという選択肢が俺の中には無い。俺は人より少しだけパーソナルスペースが広いので、ただ俺の性格上で選択肢が無いだけなのかもしれない。別に気にならないという人もいるだろう。カウンターが何となく好きなだけ、という人も恐らくいるだろう。

 彼女もきっとその類の人なんだ、そうに違いない。と自分に言い聞かせ、少し驚きはしたものの表情には出さなかった。


 しかしそれも束の間だった。


 彼女は俺の目の前の椅子に腰掛けたかと思いきや、まじまじと俺を見ている。

 一体何なんだ。

 俺はこの女性を知っているかどうか必死に記憶を辿ったが、やっぱり知らない。

 記憶力に関しては昔から自信が無かった。物忘れも酷く、人一倍……いや二倍三倍と言っていいほど俺は記憶があやふやなことが多かった。


「…ご注文お伺いします」

 俺は沈黙に耐えきれず、取り敢えず心地の悪い視線にそう答えるしかなかった。

「温かい飲み物が欲しいんですけど、お勧めは?」

 はぁ、何だ。知り合いを忘れてしまったのでは、無礼を働かせてしまったのではと焦った俺が馬鹿だったようだ。

「……うちはエスプレッソがお勧めですが、もし苦手でしたらカフェラテが女性に人気です」

 俺は決められた言葉をなぞるロボットのようにそう答えた。彼女は少し考え何か言いたそうにしていたが、俺には彼女が何を考えているのか全く読み取ることが出来ない。次に彼女が答えるまで実際にはおおよそ十秒にも満たなかっただろうが、俺にとっては一分は経っていたのではないかと錯覚するほど動揺していた。

 それは彼女が美人だからとか、まじまじと見つめられて緊張したとか、やたらスタイルが良く、大きな胸の谷間が強調された服を着ている女性だからとか、恐らくそういう理由だろうが認めたく無い自分がいるのも確かだった。

「何で私がエスプレッソを苦手だと? どうして思ったの?」

「……いえ、えっと……」

 まさかの思わぬ質問に俺は更に動揺した。また他人に不快な思いをさせてしまっただろうか。しかしこの台詞はこの仕事を始めてから何度も口にしているが、怒られたことは一度もない。俺は必死に頭を回転させて何とか答えた。

「エスプレッソが苦手だというお客様も多いので…その、もし、苦手だったら、と」

 真っ白になった頭を無理矢理回転させたので言葉が多少詰まってしまうのは仕方が無い。

「いいえ、苦手では無いです。それをください」

「……かしこまりました」

 少し不思議な客なだけだ。こういう変わり者の客もたまに居る。大丈夫、これで会話は終わった。俺は少しハラハラしながらも自分を何とか落ち着かせ、グラインダーから挽いたコーヒー豆をエスプレッソマシンにセットしていた。しかし温められたエスプレッソカップを手に取ったところで、思わぬ事態が発生してしまう。

「粟津くん、少し出てくるね。焙煎所で打ち合わせがあって」

 進藤さんにそう声を掛けられ俺は持っていたカップを思わず落としかけた。打ち合わせとなると、すぐには戻ってこないだろう。となると必然的に俺はこの少し不思議な客としばらく二人きりになる。

「分かりました」

 当然だが引き止めるわけにはいかないので、そう答えるしか無かった。そして進藤さんが店を後にしたのを尻目に俺は目の前の彼女にエスプレッソを提供した。

「お待たせしました」

 彼女はカップを手に取るとカウンターに置いてあるスティックシュガーを二本入れ、二口でスッと飲み干した。エスプレッソの正しい飲み方を見せつけられた俺は、彼女がエスプレッソを苦手どころか、もはや好んでいるのではと気付いて申し訳ない気持ちになった。

「エスプレッソも好きだけど、このカップの底に沈んだ砂糖が好きなの」

 彼女はティースプーンで砂糖をすくって、それを食べた。こんなに詳しくエスプレッソの味わい方を知っているのは余程のコーヒー好きか、はたまたコーヒーに詳しい人が身近にいるのだろうと想像を掻き立てられた。そんなことより俺はどう答えようかと口ごもっていると彼女は更に驚く言葉を付け加えた。

「あなたは、粟津櫂人さんですよね?」

「……は」

 何故俺の名前を知っているのか、やはり俺が忘れているだけで知り合いだったのだろうか。働かない頭を働かせても先程から失敗続きだ。考えようと考えたが、その考えを辞めて俺は素直に質問した。

「……あの、どこかでお会いしましたか」

「いえ、会ったことは無いわ。あなたとは」

「……」

 沈黙が流れる。分かることは、この沈黙は断じて俺のせいではないということだけだった。困っている俺を見かねて、彼女は伏し目がちに言葉を続けた。

「あなたのお兄さんと知り合いなの」

「…俺に兄弟はいませんけど」

 この言葉に嘘偽りはない。家族は俺と母の二人だけで、その母とも今では疎遠だ。もしも再婚していつの間にか俺に義理の兄が出来た、なんて事があればさすがに分かるはずだ。

「お兄さんからあなたのことを聞いたのよ。粟津櫂人さん。あなたは二十五歳で今はこの喫茶店で働いている、違う?」

 見ず知らずの彼女にフルネームや年齢に加え、勤め先を知られている事が、とても気味悪く感じた。彼女が知っている俺の個人情報は全て正しい。

「……でも本当に兄はいません。俺は一人っ子です」

「戸籍上ではね」

「……」

 再び沈黙が訪れる。何故この人はいちいち含みを持たせた言い回しをするのだろう。言いたいことを一言でまとめてくれなければ、口下手な俺は聞きたい事が溢れていても言葉に詰まってしまう。

「確かあなたとお兄さんは父親が同じ、つまり腹違いの兄弟のはずよ」

 衝撃的な事実を唐突に知らされ、俺は口を開けたまま硬直していた。腹違い…つまり義理の兄? 俺が先程あり得ないと浮かんだ考えが当たっていたことに、驚きを隠せなかった。

「……信じられません。そもそもあなたが何でそんなことを知っているんですか」

 何で? どうして? が苦手な俺でもさすがにこの言葉を使うしかなかった。

「お兄さん本人から聞いたのよ。知り合いだって言ったでしょ」

「……あの、ひ、人違いじゃないですか。俺はそんな話、聞いたことも……」

「お兄さんの名前はルイ。聞いたことない? あなたとよく似ているから私も一目見てすぐ兄弟だと思ったわ」

 “ルイ“

 その名前を聞いた瞬間、脳裏に浮かんだ映像があった。


「お母さん、あの子だれ?」

 子供の俺が母に問いかけている。母は何と答えたんだっけ。俺は父親ではない大人の男と、そして母の顔を見比べながら首を傾げていた。確かに居たのだ。同じ場所に、昔住んでいた俺の実家に、確かに俺と同じくらいの子供がいた。


「……ねぇ、大丈夫? 聞いてる?」

 はっとして俺は顔を上げる。どれくらい俯いて考えていたのだろうか。

「……す、すみません。大丈夫です」

 すっかり忘れていた幼少期の記憶を思い出そうとしていた俺は声を掛けられるまで自分が別の何処かに居るように感じていた。彼女をある意味一人にしてしまっていたことを詫びた。

「突然こんなこと言われて混乱するのも無理はないわ」

 相変わらずティースプーンで砂糖をすくっている彼女を見る限り、特に気にしてはいないようで俺は少し安堵した。

「で、私があなたを訪ねてきた理由だけど」

「……はぁ」

「失踪したの。あなたのお兄さん」

「……」

「あなたなら何か知っているかと思ったんだけど、その様子じゃ何も知らないみたいね」

「失踪って……」

「突然いなくなったの。困るのよ」

「……はぁ」

 この人は俺の兄とやらの彼女か何かなのだろうか。そんな質問すら俺には出来ないが、勝手にそうなのだろうと解釈していた。

「彼、来週末に父が主催するパーティに私と同席する予定だったんだけど、今更断れなくて。あなた変わりに出てくれない?」

「……あの、それってどういう、何でですか」

 こんがらがった頭では言葉をまとめることも出来ないが、先程から予想外の言葉が飛び出すので無理もない。俺が彼女ならこんなにも何でを連呼する相手とは話したくもないが、そうもいかずに俺は続けた。

「あなた何なんですか? 誰ですか? 何で俺が知りもしないパーティに出るんですか?」

「……ごめんなさい、自己紹介もせずに言いたいことだけ伝えちゃって。悪い癖なの」

 謝られても困るものは困る。それに彼女の悪い癖なんて教えられても俺にはどうでもよかったし関係無い。苛々とやり切れない思いが恐らく顔に出ていたのだろう。彼女は俺の顔を見ながらすぐに話を続けた。

「私は城崎くいな。あなたの兄の知人で、城崎財閥の一人娘。そして前からあなたの話を聞いていて、あなたの兄であるルイが失踪したから困り果ててここに来たの」

 はぁ、なるほど。彼女は金持ちのお嬢様で、兄が失踪して困っている、そうだったんですね。ともいかず次々に浮かぶ解消されない疑問をぶつけた。

「何で俺は何も知らないのに、俺の兄と名乗る人は俺の職場まで知っているんですか? あなたは迷わず俺の目の前に座りましたが、俺の顔を知っていたんですか? 何でそのパーティーとやらに俺が代わりに行かなきゃならないんですか?」

 一息でここまで他人に言葉を投げかけたのは久しぶりかもしれない。いや、投げかけたなんて優しいものではなく苛立ちと興奮から早口になって捲し立てて、声を荒げてしまった。自分がされて嫌な話し方をしていると気づいた俺は、途端に冷静になった。

「……すみません」

 彼女は初対面の相手に無礼と言っていい程の頼み事をしていると思ったが、俺も初対面の相手に対する態度では無かったと思い直し一先ず詫びを入れた。

「いいえ、本当に突然だもの。気にしてないわ」

 ……俺が謝ったんだから彼女も俺に謝るべきなのでは、と自己中心的な考えが脳裏によぎったが話がややこしくなりそうだったので心の中に留めておいた。

「よくルイはあなたのことを気にかけていたわ。名前や勤め先も自分で調べたんじゃないかしら? だから連絡くらい取り合っていると思ったの」

「…はぁ、残念ながら、その、ご期待に添えそうも無いです」

「でもあなたは腹違いだけれど、ルイの血縁者でしょ? 私より彼の行方を辿れると思うの」

「だからって何で俺が……」

「私、困ってるの」

 俺は先程、自分を自己中心的と考えたが撤回しよう。彼女こそ自己中心的だ。

「……えっと、あの、申し訳ないですが、俺には……」

 俺には関係ないので。冷たいかもしれないが得体の知れない相手の頼み事など引き受けるつもりもない。俺はそう断ろうとしたその時、彼女は持ってきていた自分の鞄に手を伸ばすと中から封筒を取り出した。

「私もタダでとは言わないわ」

 その封筒を俺の前に差し出すと彼女は更に

「ここに二十万円あるわ」

 と付け加えた。

「……」

「これは手付金よ。もしルイを見つけてくれたら残り百八十万円をあなたにお渡しするわ」

「……何を」

「つまり二百万、あなたは報酬を得られるし私はルイを見つけられる。どう? 悪くない話じゃない?」

 突然舞い降りた大金の話に目眩がした。何処からそんな大金が……と疑問が浮かんだが彼女はそう言えば何とか財閥のお嬢様ということを思い出した。それが本当なら、まぁ信じられなくもない。しかしそこまで大金を出して見つけ無くてはならないのは何故だろう。俺からしてみれば二百万という現実離れした金額を提示され、この話の全てを胡散臭く感じさせた。

「見ず知らずのあなたに、ここまでして頼み込むくらい私は困っているの」

 何だか馬鹿げた話のように思えてきた。そうだ、こんな現実離れした話はあり得ない。もしや新手の詐欺か何かだろうか。それにしては標的にされるほど俺は金を持っているわけでは無い……様々な思いが頭の中で駆け巡る。それでも二百万だ何だと言われて、二つ返事ではい、やりますと答えるほど俺の脳はまだ腐っていない。……辛うじて。

「何故そこまでするんですか?」

 俺は呆れたように答えた。この詐欺師の容疑が掛かった彼女の正体を暴いてやろうと、俺は会話を続けることにした。

「私の大切な人だから、何としても探し出したいの」

「それなら俺なんかに頼むより、警察に捜索願いを出せば早いでしょう」

「大ごとにしたくないのよ」

「人が一人行方不明なのに?」

「父に知れたら私も大変なの」

「ご家庭の事情は知りませんが、それしか方法は……」

「……彼からの置き手紙があるの」 

 俺は矢継ぎ早に彼女に質問を投げ続けるのを止め、一旦落ち着きを取り戻したかのように目の前のカウンターに手を置き、ひと呼吸おいてから彼女に尋ねた。

「内容は?」

「この通りよ」

 彼女はまたもや自分の鞄に手を伸ばすと、今度は横長の真っ白な封筒を取り出しひらひらと俺に差し出した。俺は戸惑いつつもそれを受け取ると封筒の表裏を確認した。

「宛先や差出人は書かれてないけど、ルイと会った後すぐ私の鞄に入っていたから、恐らく彼が入れた手紙と見て間違いないわ」

 なるほど、それだと何も書かれていない封筒でも頷ける。俺は封を開け一枚の便箋を取り出した。封筒同様、真っ白の染み一つない便箋だったが一文だけ黒いインクでしっかりと文字が綴られていた。


 ーー僕を探してーー


 ……何とも不可解な文章だろうか。まるでこれから自分が行方不明になる事を暗示しているようだった。その場合、僕を探さないでください。だとか心配しないで。などと綴られているのが良く見るパターンでは無いだろうか。

「……あの、これじゃあ意味が……」

「そうね。これを見てあなたはどう思う?」

「……」

 どうだろうか。正直、俺には分からない。俺は人の気持ちが人一倍分からない人間だ。そしてその兄とやらの人間性を全く知らないので、俺には更に分かるわけがなかった。

「私はルイが何を考えているのか分からない、けど手紙の文章通り彼を探したい」

 まぁそれはそうだろうな、と納得したところでハッとした。先程まで俺は疑ってかかっていたのにも関わらず、彼女に手紙を出されていつの間にか半信半疑……いや、すっかり信じ込んでしまっていたことに気がついた。

「少しは信じてくれた?」

 そう言うと彼女はカウンターから身を乗り出して俺の顔を覗き込んできたので、驚いて咄嗟に一歩後ろにのけ反った。

「そんなに驚かなくても」

 少し笑って目を細める彼女に腹が立った。

「……あれ、もしかして照れてる?」

「……もう閉店時間なので」

 確かに顔が火照っていた。しかし断じて下心があるからでは無く、彼女が美人だからとかそう言う事でも無く、俺は女性に対して暫く免疫が無い為だった。つまり女性が顔を近づけてきたという事柄に、俺が赤面してしまったのは自然の摂理だ。

「何か書くものある?」

 相変わらず少し笑いながら、そして俺の顔をどこか不思議そうに横目で見つめ彼女は尋ねた。何がそんなに可笑しいのだろうか。容姿端麗な彼女にしてみれば、異性が自分に赤面するなんて珍しい話でも無いだろうに。何だか馬鹿にされている気がして釈然としないが俺は自分の服のポケットに挟んでいたボールペンを抜き取り渋々彼女に渡した。

「ありがとう、ここに私の連絡先書いておくから。それと……この後予定ある?」

 彼女は先程差し出した二十万円が入っているという封筒に、恐らく自分の名前と携帯番号であろう数字を書きながら同時に俺に問い掛けた。

「……えっと」

 カチッという音が店内に響いた。これは彼女が書き終えたのでボールペンのノック音を鳴らした音だった。それほど大きな音ではなかったが、何だか返答を急かされているような気がして俺はドキリと心臓が跳ねた。どうする? この後の予定は特に無い。だからと言って正直に伝える必要があるだろうか? 突然現れた正体不明の詐欺師かもしれないこの女に、俺は警戒心を緩めることはしなかった。

「忙しいので」

「じゃあいつなら空いてる?」

「暫く空いていません」

「……あらそう? 人気者なのね」

「閉店時間ですので、お引き取り願います」

 それを聞くなり彼女はボールペンを俺の目の前に差し出しながら答えた。

「気が変わったら連絡して。私のことを怪しむなら調べてみるといいわ」

 彼女は立ち上がり、鞄を手に取るとそのまま出口へと向かった。思ったよりあっさりと引き下がってくれたので、俺は呆然としながら帰っていく彼女のロングブーツを眺めていた。

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