第22話

 六月二十一日。薫の君と久世くんの、結婚祝賀会は、午後六時開始となっていた。

 平日でもあり、みなが参加しやすいように、夜の集まりにしたらしい。主賓の二人さえ、それぞれ用事があって、会場に到着するのは、午後六時近くになるという。

 信乃はこの日、職場を早退した。職場に近い住居に戻り、着替えてから、最寄り駅の上大岡へ。上大岡からJRを利用して、鎌倉に向かった。

 私の生母と父、他数名が、車で来ると聞いたので、船の駐車スペースを考え、私は愛車の利用を諦めた。

 タクシーを呼び、鎌倉駅前で信乃を拾い、船へと向かった。私たちが船の門前に到着したのは、午後五時を少し過ぎた頃だった。

 身内ばかりの集まりだが、祝いの席らしく、セミフォーマルとしようか。龍明に、そう言われていた。

 信乃は菫色のツーピースを着ていた。足首までの長さで、裾も広がっていない。袖なしのシンプルなドレスにジャケットという出で立ちで、靴は白。薄化粧をした顔の耳元に、真珠のイヤリング。彼女の人柄によく合った、清らかで落ち着いた装いだった。

 私は暫く袖を通していない、好きな服を選んだ。フォーマルに仕立てた、ミッドナイトブルーのツーピースにボウタイ。ベストは着用せず、カマーバンドを締めた。

 車から降ろしたとき、信乃は私に、賞賛の眼差しを向けてくれた。私も彼女の耳元で囁いた。

「とても素敵だ」

「蓮實さんも」

 はにかんだ微笑みを浮かべ、優しく答えた声に心が躍った。

 玄関へと進んでいく道では、臨時に雇われた人々が、庭で立ち働く気配を感じた。すでに到着している、客のざわめきも聞こえた。船の敷地には、祝いの席の空気が、はや満ちていた。

 別棟の横を通ろうとしたとき、その空気を切り裂くような声を聞いた。

「あんたとはもう話をしない。そう言っただろ!」

 怜於は私たちに駆け寄ってきた。

「俺の傍に寄るな!」

 襟のつまった、白いレースの、丈の長いドレスを着た怜於は、信乃の背後に立ち、黒いタキシードの知毅を睨みつけた。

 

 六月十二日。

 知毅の首尾が気になった私は、龍明とともに、葉山の御用邸前から、船へと向かった。

 私たちが玄関ホールに入った時、チカちゃんが階段を下りてきた。私たちを見ると、近づいてきた。龍明の前に立つと、淡々と言った。

「この離婚協議書は返す。私は何にもいらない。頼みたいことが二つ。離婚後も宗形姓を名乗りたい。姓を変えると、色々面倒だから。あと、今日出てくけど、住処を整えるまで、住民票の住所は、ここにしておきたい」

「承知した」と、龍明は即答した。

 肩の力をいくらか抜いて、チカちゃんは言った。

「六月二十一日は、あんたと一緒に、ホステス役を務めてほしい。センパイにそう頼まれたけど、どうする?」

 龍明も静かに言った。

「それは、こちらからお願いしたい」

 チカちゃんは口元に、いくらか固い微笑みを浮かべた。

「ありがとう」

 龍明も微笑み、彼女に言った。

「俺からも頼みがある。そこに記載したものは、貰ってもらいたい」

「要らない」

 このチカちゃんの声は、断固としていた。

 私をちらりと見て、龍明は言った。

「それと。何度も引っ越しをするのは、面倒じゃないかな。あそこは誰も使っていない部屋だし」

 チカちゃんは龍明の言葉を遮り、手に持っていた大判の封筒を、龍明の手に押し付けた。

「離婚届も入ってる。あんたが役所に提出して」

「提出したら報告する。連絡先を教えてくれないか?」

「しばらくは、薫さんのとこにいる」

「薫ちゃんの家?」

「あのさ。怜於が出ていってから、もう三十分くらい経つ。気になるから、探しに行ってほしいんだけど」

「知毅は?」

「二人の婚約は、解消成立だ。私とトモ兄は今、あの子に近づかないほうが良いと思う」

「悪いが」と私の顔を見た龍明に、「行けよ」と私は言った。龍明は脱いだ靴に、再び足を入れた。その手が玄関の扉を開けた時、チカちゃんは言った。

「トモ兄と私は、もうずっとキョーダイだから」

 龍明が振り返ると、チカちゃんのほうが、我々に背を向けた。食堂の方角へと歩みだした。

 龍明は後を追いたそうだったが、怜於のほうがが気がかりだったか。扉を押して、外に向かった。

 私がチカちゃんの後を追った。食堂の入り口で捕まえた。

 名残惜しそうに食堂を見回して、チカちゃんは言った。

「終わりって急に来るんだな」

「どうして薫くんの家に?」

「あの人、だいたい事情がわかってるだろ」

「ああ」

「今は色々聞かれたくない。実家なんか。帰ったら、大騒ぎになる。リューチンは、オヤジと母の、お気に入りの息子なんだ」

「僕のところでもいいよ。狭いかな」

「俺はあんたを信頼してるし。あんたにとって、俺は女じゃないのかもしれないけど。シノリンがどう思うかな」

「美しい女性だと思ってるけど。君は僕にとって、もう妹みたいなものだな」

「今回は薫さんを頼る。あそこは女ばかりで気楽だ。早く結婚してよ。そしたら遠慮なくお邪魔できる」

「ほんとに出ていくの?」

「うん」

「龍明とも、知毅とも、もう少し話し合ったほうが」

「トモ兄と怜於の婚約を、壊しちまったのに?」

「君は何もしてない。龍明と知毅がしたことだ」


 六月二十一日。

 信乃の肩に置かれた怜於の指に、婚約指輪がないことに、私は感慨を覚えた。

 五月に信乃を追い越した怜於の背丈が、さらに大きくなっている気がした。短い髪を撫ぜつけ、化粧をした怜於の顔は、ぐっと大人びた気もした。そして随分艶やかに見えた。もしかしたら、女になっても。目つきは烈しすぎるが、これは、もしかしたら。はじめてそう思った。

 知毅と怜於の間に立たされた信乃は、何も知らない。目を見開いて二人を見比べ、私を見た。

 私は左手を振り、知毅を追い払った。

 知毅は何も言わずに、私たちに背を向けた。本館へと去った。その表情は、髭とサングラスで隠されていた。

「どうしたの?また喧嘩?」

 信乃が怜於に、そっと尋ねた。

 信乃にしがみついたまま、怜於は唸った。

「知毅とは、もうおしまいだ」

 門の方角から、人の声が聴こえた。私は二人を、北東の庭の四阿へと、連れて行った。

 この日の会場は本館と南の庭だ。北東の庭と別棟には誰もおらず、静まり返っていた。

 信乃は四阿あずまやのベンチに、怜於と並んで腰かけた。私は二人と向かい合うベンチに、腰を下ろした。丈の長いドレスで、脚が見えないから良いものの、怜於の座り方は、男のままだった。私はその様に苦笑した。

 たおやかに腰を下ろしている信乃は、乱れた怜於の髪を、指で優しく直しながら、尋ねた。

「おしまいって、どういうこと?」

 怜於は必死の目で、信乃に訴えた。

「龍が一凛と離婚した。だからチカを諦めきれないって。知毅はそう言うんだ」

 信乃が困惑した顔で、私を見た。

 私は怜於を見て言った。

「君に求婚したときは、あいつ、あの二人が別れるなんて、思ってもみなかったんだろう」

 怜於を抱き寄せ、信乃が呟いた。

「兼平さんは今、一凛さんが好きなのね」

 この人には聞かせたくない話だな。私はそう思った。

 信乃の腕のなかで、怜於がまた唸った。

「知毅がチカを好きなのは知ってた。でもずっと諦めてたんだ。だから結婚すれば、そのうち俺が、一番になれるかもしれない。そう思ってた」

 私は言った。

「君が結婚したいと言えば、知毅は君と結婚するはずだ」

 怜於は声を上げた。

「結婚しても、チカが好きなら。いつ離婚すると言い出すかわからないじゃないか。一凛は、龍明と離婚して、自由になるんだぞ」

 私「あいつはチカちゃんにも、振られたらしいぞ」

 怜於「知ってるよ。でもチカだって。知毅がずっと好きなんだ」

  信乃は私と怜於を見比べて、おろおろしていた。

  信乃の腕のなかで、怜於は体の力を抜いた。小さな声で呟いた。

 「もう良いよ。知毅のことは。一生許さないだけだ」


 六月十二日。

 チカちゃんへの思いを、知毅が告白すると、怜於は本棚のなかのものを、片端から投げつけたらしい。

 知毅は怜於の部屋を片付けている。私はチカちゃんから、そう聞いた。行ってみると、猛獣が暴れまくった室内は、まだ凄い有様だった。床に散乱する、無残に破壊されたもののなかには、怜於が大切にしていたものも、かなりあった。知毅が怜於にねだられて買ったという、大きな地球儀も、見事に壊されていた。そのそばに、怜於が自慢していた、婚約指輪を見つけた。私は指輪を拾って、知毅に渡した。

 知毅は笑った。

「どっちにも振られた」 

 もう良い。俺にもう近づくな。声をかけるな。

 怜於が口にした言葉は、それだけだったという。

 婚約は解消しない。怜於がそう言い張る可能性はある。その権利もある。私はそう思っていたのだが、 怜於は龍明の予想通り、怒り狂っただけで、執着は見せずに、知毅を解放したらしい。

 二人が好きだ。どちらも諦めないというのは、まともではない主張だが。怜於の二人を慕う気持ちは、真剣なものだと、感じていた。だからその様子を聞いたとき、私は自分の生徒に、礼を言いたい気分になった。

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