第16話

 「あなたは結婚したいとは、全く考えないの?」

 私の生母は、この年六十二歳になったはずだが、姿が良いので、実年齢よりだいぶ若く見えた。龍明はこの人を美しい人だと言ったが、普段のこの人を、美人という人は少ない。きつい顔をした女。ほんとに女優か。地味。この人に惚れこんだ父も、はじめて会ったときは、そんなふうに思ったという。

 ただ化粧映えのする顔で、戦前生まれの日本の女としては長身で、姿が良く、気品と貫目があった。舞台上の姿は、無双の麗人だった。この当時でもだ。だからまだ美女の役を、よく演じていた。ただ若い頃は、可憐なオフィーリアも演じたが、この頃はもう、年下の恋人を守るやりての貴婦人、異世界の妖しの上臈、そんな美女ばかりだったが。

 「何ですか。突然?」

「一度ちゃんと聞いておこうと思って。それで今日は来てもらったの」

 1984年。六月一日。私は生母に呼ばれて、母の住居を訪れた。

 生母の家は、五階建てマンションの、最上階の一室だった。三間あって、広さ80㎡ほどの角部屋だ。すべての部屋にガラス戸か窓があり、神楽坂の街並みが見えた。

 私と生母は、ダイニングキッチンの、樫の食卓で向かい合っていた。昼食をとりながら、二時間ほど話をしたか。

 食卓には、私が手土産に持参した、薄紅色の芍薬が、飾られていた。近所から出前でとった鰻の重箱と平目の刺身に、お手製の茶わん蒸しと野菜の炊き合わせと、酢の物が並んでいた。通いの家政婦に下ごしらえをさせて、母が味を付けた手料理は、いつもなかなかに美味だった。

「ねぇ。薫センセイもご結婚なさったんでしょ。私、あの方は一生独身だと思ってたのに」

「早耳ですね。披露宴もしていないのに」

 薫の君をこの人に引き合わせたのは、私だ。宗形薫の名が世に広まる前に、生母は彼女の写真を発見して、後援者となった。なかなかの目利きだった。

「先生のとりまきには、女優やモデルの卵がたくさんいるでしょ。女は噂が好きで。芸能界は、噂が広まりやすい業界なの」

 この当時の薫の君は、すでに後援する側でもあった。資産家の娘で、高名な写真家。気に入った娘には気前よく奢るし、人を紹介する。そんな彼女の寵愛を得ようと、多くの女子が、彼女を取り巻いていた。なかには自分に見切りをつけて、彼女の秘書や侍女になった娘もいる。そのお嬢さんたちは薫の君の家で暮らしていた。薫の君は彼女たちを、「うちの女の子たち」と呼んでいた。

「ねぇ。あなたも一度は、結婚してみたらどう?お嫁さんも事情を承知していて、家庭生活を円満に送りながら、男の恋人がいる男なんて、珍しくないじゃない」

 誰のことを言っているのか。

「龍くんも結婚してる。トモくんだって、女性とお付き合いしてる。あなたが女性の交際相手をつくっても、文句を言える立場じゃないわ」

 龍明と知毅は、私の父とも親しいが、生母とも親しくしていた。私は二人を友人と紹介したのだが、生母はなぜか二人を、私の恋人というか、情人というか、そんなものだと思いこんでいた。そして我々三人の関係に、首を傾げていた。

「ねぇ。あなたは、女性とお付き合いしたことはあるの?」

 性癖と人間関係を追及されそうな気配に、仕方なく私は言った。

「ある女性と結婚したいと思っています。相手の意向によっては、来年あたり、良いご報告ができるかもしれません」

 生母は顔を輝かせた。

「その方とお付き合いを?」

「そうですね。現在、お付き合いをしていただいております」

「結婚のお申込みは?」

「しましたが、返事はまだいただいておりません」

「どんな方?私が存じ上げない方よね?」

「二回会ってますよ。良いお嬢さんねとおっしゃいました」

「そんなお嬢さん、あなたに紹介されたかしら」

「名前を憶えてらっしゃるかな。松本信乃さん。昔、知毅の許婚だった人です」

 私の顔をまじまじと見て、生母は言った。

「仲が良い男同士って、どうしてそういうことをするのかしらね」

「そういうこと?」

「相手の奥さんや女を盗んだり。盗まなくても、そっと思っていたり。昔の恋人の面倒をみたり」

 知毅の許婚だったから、好きになったわけではないが。彼女に目を向けたきっかけは、知毅と彼女の婚約だった。

 知毅に紹介されずに、街で会ったとしても、必ず彼を発見した。龍明についてはそう思うが。彼女を知毅に紹介されなかった場合、街で出会った彼女を、私は発見できただろうか。とは思う。

「気の合う者同士で、好みも似ているんでしょうけど。まるで共有したいみたい」

 この大切な女を、彼らもまた大切に思っている。そう思うと、喜びを感じた。あの感覚を、さてなんと言い表すべきか。

 私は生母の言葉に興味を覚えた。それでこの日は、しばしおかしな話をすることとなった。


「そういうご経験が?」

「男二人に挟まれた経験?ないわね。はたで見ていたことはあったけど」

 父と話すのは苦手だった私だが、母とは、生母とも養母とも、よく話をした。生母はなかなかの読書家で、手ごたえのある話し相手だった。時々面白いことを言って、私を驚かせた。

「昔は今より、よくあったことなのかな。仲の良い男二人の間に、女が一人。夏目漱石が、繰り返し書いたネタだ」

「向田先生も、『あ・うん』を書いたわねぇ」

 白洲正子氏は、河合隼雄氏との対談で、彼女が見た文壇の男たちの、そんな関係について、述べている。

「突然炎の如く。冒険者たち。鎌田行進曲。浪人街。映画は色々あるけど。現実にはこの頃あまり見ない?」

「戦後に生まれた男は、まず男とあまり仲良くしたがらない。まぁ、男同士の繫がりが強い業界なら、まだあるのかもしれない」

「そうか。そうね。この頃ほんとに仲が良い男同士って、あまり見ない気もするわね」

「『ハイト・リポート』って、読んでますか」

「読んでないわ」

「一九八一年に、アメリカで七千人以余の回答をまとめたものですが。男同士の友情についても調査されてます。多くの男が、現在親友はいない、学生時代にはいたが、今は親しくないと答えている。現在の我が国で調査しても、たぶん同じ結果になるんじゃないかな」

「へぇ。どうしてそうなっちゃったのかしら」

「戦後日本でも、男色嫌悪が強くなった。そのせいかな」

 世の中には、不思議なほどの「ゲイ嫌悪」がある。これは女よりも男のほうに強い。橋本治氏は『美男へのレッスン』に、そう書いている。氏はその原因をこう分析している。

『男はどっかで、自分が一番エライもんでありたいと思ってる。それがゲイになっちゃったら、誇りも何も捨てて、他の男にブザマに愛を乞わなければならなくなるのじゃないかと思って、それがこわい。また、その一方で、「セックス」というのは、「気持ちいいけどなんだかよくわからない正体不明の欲望」というところがあって、ゲイというのは、うっかりするとそのセックスの中でぽっかりと口を開けて待っている「恐ろしいもの」でもある』

 男が「ゲイ」であることをなぜこわがるのかといったら、千差万別の理由があるだろうが、大きな理由は、ブザマがこわいか、セックスがこわい、そのどちらかであろうと述べていた。

「男色ね。芸能の世界では珍しくないことだけど。たしかに昔より、コソコソやってるかな」

「罪深い行為とみなされる国はありましたが、昔はどの国でも、現代ほど、異形の行為とは、みなされていなかったようです。十九世紀になって、性を科学的に研究しようとする思想が、ヨーロッパに生まれて、同性愛者ホモセクシャルという分類が誕生した。男色は病気、異常アブノーマルな行為となった。嫌悪とともに、世にこのレッテルが広まった。戦後日本でも広まった。その結果かもしれない」

「異形ね。ヘンタイと人に思われるのが嫌で、同性の恋人どころか、同性のオトモダチも作りにくくなっちゃったってこと?」

「今や日本は一億総中流時代だ。人並みでいることに汲々としている人間も、増えたのかもしれない」

「私が知ってる面白い男は、みんな仲良しの男を持ってた。おかまの仲だった人たちもいるし、ただのオトモダチだった人たちもいるけど。どっちも並みの親しさじゃなかった。その相手の男から、女からは得られない養分を貰っていた。そんな気がするけどねぇ」

 セックスへの恐怖には、挑戦する喜びがあった。私がある男に抱かれたのは、その男に人として惹かれたからだが、一つの挑戦でもあった。

 では、私が知毅とも、龍明とも、そんな関係になろうとしなかったのは、そこに行く必要を感じなかったのは、無様を恐れたからか。

 人並みの人間になりたいと思ったことはないが、人並みの人間の目は、気になった。 愚かな男女にどう思われようともかまわないが、愚かな男女に笑われるのは、たしかに屈辱だ。


 食後の煎茶と、お手製のわらび餅を私にすすめると、生母は私に訊ねた。

「結婚したら、あの二人との仲はどうするの?」

 あの二人とはあの二人のことかと、私は笑った。

「どちらとも、法子のりこさんが思っているような仲じゃない」

 生母はもう少し柔らかく、派手な芸名も持っていたが、本名は法子といった。

「つまり、恋人じゃないってこと?」

 どちらも恋人に思えるが。恋仲になったことはない。その説明をするのは面倒に思えた。説明できるとも思えなかったし、二人への思いを語りたくもない。だから私は言った。

「まぁ、そうですね」

「どっちも?」

「ええ。どっちも」

「あらあら。そうなの」

 ほんとうかしら。そんな顔で、生母は私の顔を見たが、甘味と煎茶を味わう手を止めて、彼女はこう呟いた。

 「まぁどんな仲でも。どちらとも長い付き合いで、三人でいつも楽しそう。うらやましいわ」

 この人は淋しいのだろうか。ふとそう思って、私は尋ねた。

「マネージャーの谷さんはお元気ですか」

 突然何?生母はそんな顔をした。

「あの人とは長いお付き合いですよね」

「そうね、もうだいぶ長い付き合いで、良き相棒だけど。でも、個人的な仲良しじゃないわよ」

 谷氏は生母に惚れこんでいる様子だったが、片思いのようだった。

「僕は法子のりこさんの交友関係を全く知りませんね。俳優仲間で親しい人は誰ですか」

「役者はみんな競争相手だもの。おまえたちみたいな仲良しにはなれないわ」

「お友達は、どんな業界にいるんだろう」

「オトモダチね。そうね。あなたのお父さんはそうかも」

「お父さんが友達ですか?」

「違う業界の人とは、知り合う機会がない。女学校時代の友達とは、長く会ってない。私の友達といえば。今はもう、あの人と。演出家が一人。でもどっちも昔付き合ってた相手で。嫌な思い出もあって。気は置けないけど。ムカつく相手でもある」

「お母さんとは、仲が良かったですね」

 私の言葉に、生母の顔つきがやわらいだ。

「そうね。あの人は友達だった」

 父と結婚できなかった元恋人と、父に望んで迎えられた正妻。子供をとられた母と、子供の養育を押し付けられた母。仇敵になりそうな関係だと思うのだが、どういうわけか、私の養母と生母は、仲が良ろしかった。

「知り合った頃は、なんでこの子、わたしをお姉さまなんて呼ぶんだろうって。不気味に思ったのにね」

 生母の写真を見つけると、嬉しそうに雑誌から切り抜いていた。その切り抜きを集めたスクラップブックを、とても大切にしていた。私の養母は、私の生母を慕っていた。

「良い家のお嬢さんで。小さくて可愛らしくて。肌なんて玉のようでね。私にはない女の魅力をたっぷり持ってて。妬ましくもあったわ。でも着物を仕立ててくれたり。ハンカチに刺繍をしてくれたり。病気の時は、寝ずに看病してくれて。あんなに優しくしてくれた女の人は、母と彼女だけ。どんな時も私の味方だった」

 あれはどんな場面だったのか。幼い頃の記憶だ。生母がいて、養母がいて、父がいた。おとなしい養母が、生母を守るように父の前に立ちはだかり、父を優しい声で攻めていた。小鳩の怒りに、父は仰天していた。呆れた顔で言った。君はいつもこいつの味方をする。

「彼女がそばにいると、心が休まった。彼女には何でも話すことができた。おかしな仲だったけど、天使が私にくれた贈り物だった。逝ってしまったあとで、そうわかったわ」

 大切な人との時間は、ありふれた日常の一瞬さえ、記憶の中で輝いている。そんな輝きがまぶしかったのか。生母の目は軽く潤んでいた。 

 

 どうしてだろう。私はおかしな関係を、色々と見た。私自身も、おかしな関係を、いくつか持った。そのどれもが幸福の記憶だ。

 時はとどまらない。すべては流れ、失われていく。幸福の確信も。けれど幸福の記憶は、美しさを増してゆく。

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