第5話

 十代の私は、兼平知毅と宗形龍明、二人のことばかり、考えていた気がする。どちらも私にどこか似ていて、私とはまるで違っていた。

 二十五歳になった年の夏。知毅は私に言った。

「おまえをはじめて見たとき、周囲から浮き上がって見えた。あの時からずっと、おまえは俺にとって、特別な人間だ」

 二十六歳になった年の春。二十四歳になったばかりの龍明に囁かれた。

「はじめて会った日、あんたがやってくると、雨が上がった。居間に現れたあんたの後ろに光が差して、あんたは光のなかに、浮き上がるようだった。見つけた。そう思ったな」

 学校をさぼって、雨の海岸を一緒に歩いた。小春日和の博物館。夏休みのキャンプ。並んで横になり、なかなか眠れなかったテントの夜。

 二人からの告白を受けて、いくつかの甘い記憶が、恋の思い出となった。この時には、どちらに恋を求める気持ちも消えていた。

 1984年の四月、三十七歳の春、私はどちらにもしつこく恋をしていたが、二人に恋を求める気持ちは、遠い過去の出来事となっていた。


「いつ、僕が君の恋人になった?」

「公爵。俺はこの酷い人に、随分悩まされたんだ」

「僕がいつ君に酷いことをした?」

「思春期の俺を誘惑しただろ」

「君は動じなかった」

「こっちがその気になると、氷のように冷たくなった」

「拒まれたら追うのが、恋の作法だ。なのに君は、追いかけてこなかった」

「あんたはいつも知毅を見ていた。あんたたちは相思相愛で、どっちもとびきりのハンサムで、実にお似合いだった」

「中学時代、あいつは教師と付き合ってた」

「知ってる」

「大勢に騒がれる人じゃなかったが、脚の形が抜群で、どこか色っぽい人だった。彼女のことに気づいたとき、こいつはかなりの女好きだと、そう思ったもんだ」

「あんたが押せば、知毅はあんたと付き合ったさ」

「君の最初の相手は、レストランを経営する未亡人だった」

「どうして知ってる?」

「麗しい人だった。君は面食いだな」

「あんたに少し似ていたと思わないか。あんたが俺を選んでくれたら、彼女と付き合い始める前に、俺はあんたに交際を申し込んだ」

「僕に?君が?」と私は笑いだし、「たぶん」と、龍明も笑った。

いつの間にか、龍明の気持ちを、追及する気が失せていた。

 毬子さんが窮屈そうに、タオルのなかで暴れた。タオルもかなり水気は吸っていた。私はタオルを広げて、私は毬子さんに訴えた。

「こいつは子供の頃から、人を誑かすのが上手かった」

 毬子さんは膝のうえで、体を伸ばした。あらまぁ。緑の瞳が、そんな相槌を打っていた。

 龍明は公爵に訴えた。

「誑かされたのは俺のほうだ」

 ほうと相槌を打つように、公爵は私と龍明を見比べた。目と尻尾が鷹揚に笑っていた。そして凄い勢いで、扉が開いた。私が龍明を追求できた時間は、期待していたより短かく終わったのだった。


「龍!」

 飛び込んできた孫悟空は、龍明のもとへとすっ飛んできた。おかまの気分になっても良いのか。この日はスカートを履いていた。白地に黒い棒縞の入ったワンピースの裾が、勢いよく翻った。

 私の存在に気づくと、親にしがみつく幼児のように、怜於は龍明の腕をとった。つまらなそうに言った。

「こんにちは。来てたんだ」

 幼い恋人を甘やかす男にも、優しい父にも見える顔で、龍明は怜於の手をとった。

「授業はおしまいか」

「うん」と、怜於は目を輝かせて、龍明を見上げた。二人の大きさと逞しさのためか。龍明と知毅を見上げる時だけ、怜於は少女に、見えなくもなかった。

 私は二人の様子に、少しばかり違和感を覚えた。その違和感に首を傾げながら言った。

「随分早いな」

 甘えた顔を瞬時に引き締め、怜於は知毅のように右眉を上げた。怜於はよく知毅の顔つきや仕草を真似た。この顔つきをすると、知毅は尊大に、怜於は生意気に見えた。

「ジェーンは今日、用事ができたのさ」

 龍明が怜於に尋ねた。

「彼女はもう帰ったのか」

「うん。今日はごめんなさいだって」

 怜於は公爵とは反対側の、龍明の足元に座り、胡坐をかいた。もう龍明から離れないだろう。そう思った私は、龍明の追及を、ここで完全に諦めた。

 怜於は私たちを見比べて、龍明のシャツの裾を引っ張った。

「風呂に入ってたのか?」

「入ってた」

「先生と?」

「この人と?まさか」

 怜於は私と龍明を見た。

「何だ?」と尋ねると、むすっとした顔でこう答えた。

「龍と知毅には、先生が貴婦人に見えてる。時々そう思う」

 私は龍明に尋ねた。

「そうなのか?」

 龍明は言った。

「俺はあんたに求婚してないだろ」

 怜於の眦が吊り上がり、その手が龍明の腕をぐいと引っ張った。

「前から聞きたかったんだ。あんたと知毅、先生は昔、どっちと付き合ってたんだ?」

 私は腕組みをして、二人を眺めた。怜於に言った。

「どっちとも、今も付き合ってるさ」

 怜於は龍明を問いただした。

「どっちとも付き合ってたのか?」

 龍明は優しく答えた。

「知毅はあなたと婚約したし。タカさんは松本さんと婚約した。昔のことは気にしないことだ」

「気になるんだよ。なぁ。龍はセンセイと付き合ってたのか?」

 龍明は私を見て微笑んだ。

「この人と知毅は俺の兄で、永遠の恋人だが。どちらとも、恋をしたことはないな」

 怜於が突っ込んだ。

「永遠の恋人?恋をしたことがないのに?」

 龍明は怜於の髪に指を差し入れた。私はまた違和感を覚えた。

「あなたも俺の、永遠の恋人だ」

「ひょっとして、トッキーと薫もか?」

「もちろん」

「一番好きなのは誰なんだ?」

「順番はつけられないな」

 私は怜於に言った。

「こいつにとって、惚れた相手はみんな大切な恋人だ。お相手がいる恋人とは、友達付き合いをする。そのお相手とも友達になる。恋に執着はしない。そのくせ、いつまでも恋人だと思っている」

 嫌な男だとは、声を出さずに呟いた。

 怜於はしかめっ面で言った。

「何人も恋人がいることを、一凛は許してるのか」

 龍明は言った。

「怒られたことはないな」

 私は言った。

「彼女のことなんてお構いなしで。君はこいつを追いかけまわしてたが。彼女がこの男の配偶者だと、わかってはいるようだな」

 ばつが悪そうな顔で、怜於は言った。

「俺、一凛が好きだから、ちゃんと言ったぞ。知毅が好きだけど、龍も好きなんだって。俺が龍を落としたら、龍は俺にくれるって。離婚してもいいって。一凛はそう約束してくれた」

 龍明は言った。

「俺の知らないところで、二人でそんな約束をしてたのか」

 膝の上の毬子さんが、寝たまま四本の脚を伸ばした。可愛い喉を擽りながら、私は言った。

「龍明は君の養父になって、知毅の舅になりたいそうだ」

毬子さんは喉を鳴らした。公爵が怜於の顔を見た。怜於は目を見開き、口をへの字に引き結んだ。叱られた腕白小僧の顔で、龍明を睨んでいた。



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