第10話 仕組まれた罠
生命の間に着くと、既に数名の人間が待機していた。
神官長、二名の神官、そして、クラウスとアンナだ。
彼らは何の躊躇もなく、生命の水を湛える清らかな井戸の前に佇み、思い思いの表情を浮かべている。
未だかつて、生命の間にこれほどの人間が集結したことがあっただろうか。
毎日の水清めの儀は、ヴェルタの聖女がたったひとりで取り行う。
儀式以外の時間、ここの扉は鍵により厳重に閉ざされているのだ。
リアが聖女になることが決まってから一度、説明を受けるために、先代の聖女と当時の神官長がいたこともあるが、それも三人だった。
神殿内で最も重要であり、神聖であるはずのこの場所に、土足で踏み込んできている者たちがいる——そう思えば、意識せずとも表情は堅くなる。
ヴェルタの聖女である自分自信が踏みにじられているような錯覚にさえ陥り、奥歯を噛みしめた。それでも、表面上は穏やかな表情を取り繕い、手を前で軽く重ねてから、頭を下げる。
「ヴェルタの聖女リアが参りました」
リアが顔を上げる前に、鼻で嗤うような声がした。
背後に立っていたゲルトが、身構えるのがわかる。
「これで揃いましたな。それでは、聖女様こちらへ。今から、おふたりにこちらの水瓶の水を清めていただきます。さあ、こちらへ」
言いながら、神官長が手で指し示したのは、床に置かれた大きな白磁の水瓶だ。
一度、肩越しに振り返りゲルトと視線を交わしてから、迷いや恐れを振り切るように前を向き、水瓶に歩み寄った。
向かって左側の水瓶の前に立ち、目線を落とせば、縁まで並々と満たしているのは、黒く淀んだ泥水だとわかる。しかもただの泥水ではない。禍々しい邪気をも多分に含んでいるのだ。
一体こんなものをどこから用意してきたのか。
顔を上げ、詰問するような目で神官長を射抜くと、彼はすいと目を逸らした。
「では、初めてください」
右の水瓶の前には、アンナが余裕の笑みを浮かべ立っていた。
何気なく目を向けたとき、彼女の右手に光るものが見えた。
(石……?)
吸い寄せられるように、彼女の掌からはみ出す透明の球体を見つめていたとき、体を貫くような衝撃が走った。
(あれは……!)
確証などもてない。
けれど、直感が告げていた。あの石は、先程リアが浄化した、クラウスの手にしていた石であると。
(でも、なぜ……?)
混乱する頭で、神官長から数歩離れた位置に不遜な態度を隠しもしないで立つクラウスを見ると、彼の挑発的な漆黒の瞳と視線がかち合った。彼はニヤリと口元を歪めた。
冷水を浴びせられたように体が冷えていく。
「聖女様」
叱責するような声音に我に返り、リアは慌てて水瓶に手をかざした。
隣でも、アンナが石を持たない方の手をかざし、祈りの言葉を口にしている。
リアも震える両手を穢れた水面に向けながら、必死に唱える。
だが、心は波立って、全く集中できない。
それに、力が全く集まって来ないのだ。いつも感じているはずの光の奔流、体内で循環する聖なる光の流れが、ほとんど感じ取れない。あるにはあるが、あまりに細く、弱々しい流れのため、それを集め、力に集約することができないのだ。
リアは焦り、知らず知らずのうちに額や背中に嫌な汗をびっしりかいていた。
アンナ側からは、温かな力の波を感じ、穢れた水が浄化されているのが見なくてもわかる。
(どうして……どうして上手くいかないの?)
焦りが余計に、神経を逆撫でする。
怒りにも似た感情が湧き出して来たとき、がくりと膝から力が抜けた。
「リア!」
視界が下がり、目の前には白磁の水瓶の腹部分がある。
無理に力を振り絞ったために、立っている力が根こそぎ奪われたのだ。
立ち上がろうにも腰が抜けたように動かない。
腕を持ち上げようにも、やはり力が抜けている。
その現状に、自分でも驚いていた。石床から肌に伝わる硬さや冷たさが、どこか遠くのものに感じる。
「本当に力ある者こそが、ヴェルタの聖女にふさわしい」
そのとき、不遜なまでのそんな声が、生命の間に響き渡った。
それは、先程も同じ声で聞いた台詞だ。
リアは機械人形のように顔を動かし、その言葉を放った青年を見つめた。
クラウスは、頬に掛かった一房の髪を掻き揚げるように払うと、リアに対して不敵な笑みを向けた。
(騙したわね……!)
そう、リアは騙されたのだ。
クラウス・フォン・アーレントと名乗る男に。
かっと頭に血が上ったのは一瞬で、すぐにさーっと血の気が引いた。
視線を巡らせれば、勝ち誇ったようなアンナがクラウスの隣に移動し、水瓶の向こう側にいる神官長はほっとしたような表情を浮かべている。見届け人であったのか、二名の神官は、神妙な顔で事の成り行きを見守っている。
(もう、いいか)
言い繕ったところで、状況が変わるとは思えない。
もう、何もかも疲れてしまった。
そうリアが思うのは、水清めの力のほとんどを、あの得体の知れない黒い石につぎ込んでしまったからかもしれなかった。
だが、今、何かを考えるには、あまりに疲れすぎていた。精神的にも、肉体的にも。
「リア……!」
「で、では、これで決しましたな」
神官長が水瓶の間を通り、リアに立つよう目線で促す。
リアは力の入らない足をどうにか動かし、よろよろと立ち上がる。
神官長にこれ以上軽んじられたくないという気力でリアは立っていた。
「たった今より、ヴェルタの聖なる乙女はアンナ・バーレ嬢となる! 以後、バーレの姓を捨て、聖女として生きよ!」
軽々しく口にされた宣言に、リアは神官長を睨み据えたとき、温かな手がそっと肩に置かれた。
その温もりの主だけがリアを正気でいさせてくれる気がして、リアは縋るように振り向く。ゲルトの豊かな森のような色の瞳が心配そうに揺れていた。
「リア」
「心配しないで」
ゲルトがいてくれれば大丈夫だ。
「さっさと準備して、村に戻ろうか」
「そう……だな」
微笑み合って、その場を後にしようとしたとき、クラウスが声を上げた。
「待て」
足音を響かせながら、背後に迫るのを感じる。
「お前は、俺がもらい受けることになっている。支度をしろ」
反射的に、リアは振り返っていた。
「お前は俺の女となるんだ」
ぎらつく漆黒の瞳には苛烈な光が宿り、クラウスの意志の強さを感じさせた。
——そうして、ヴェルタの聖女であったリアは、ある日突然、神殿を追われたのだ。
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