第4話 ヴェルタの聖女
ヴェルタとは、水清めの神殿の建つ一帯を含む土地の名だ。
それゆえ、水清めの聖女は、ヴェルタの聖女とも呼ばれる。
先代のヴェルタの聖女の力が完全に失われ、次の聖女として選ばれたのが十三歳の時だ。
覚悟していたこととはいえ、正直戸惑いもあった。
唯一の肉親である祖父母や温かく見守ってくれていた村人たち、リアを育んできたエデル村との別れは、胸が裂かれるような痛みが伴った。
けれど——
「リア、大丈夫。俺がいる」
神殿からの迎えの馬車に揺られながら、村を後にするとき、隣に座るゲルトの温かな手が頭に乗った。
横を見れば、励ますように口元に笑みを浮かべるゲルトがいた。
馬車の揺れで、ふわふわ揺れる毛先の跳ねた蜂蜜色の髪に、森を思わせる深緑色の瞳が、リアの心に温かなものを運んでくれる。痛みを和らげるように。
物心つく前から常に共にいて、たくさんのことを共有してきた友達。
ヴェルタの聖女を守る、たったひとりの騎士——ヴェルタの聖騎士。
ゲルトは引退して田舎に引っ込んだ騎士に頼み込んで、剣術を習っていた。パン焼き職人である両親を手伝いながら、聖典の勉強も欠かさなかったらしい。
そして、彼は見事聖騎士の座を射止めた。
ただ、もちろん、努力の力だけではない。
もともとヴェルタの騎士は、聖女の親族や親しい知人から選ばれることが多いのだ。
だから、ヴェルタの聖女にリアが選ばれれば、ゲルトが選ばれるのも自然の流れと言えたかもしれない。だが、そう言ってしまうと、ゲルトの努力が軽いものに見られそうなものだが、彼が血の吐くような思いで努力し続けたのは嘘ではない。
二人が十三歳の時に始まった、水清めの神殿での生活は、思った以上に退屈で、そして穏やかなものだった。
神官長をはじめ、数人の神官や、身の回りのお世話をする小間使いの少女などはいたが、リアが過ごす大半の時間はゲルトと二人きり。ゲルトと離れるのは、清めの儀式の他は、着替えや湯あみ、就寝中くらいなもので、常に一緒にいた。
本来小間使いがやるべき仕事も、ゲルトは率先して行った。
リアの衣服の準備や、腰まである銀糸の髪を丁寧に梳くこと、食事の配膳、片づけまで。
「服ぐらい自分で出すよ。髪も梳かせる。ずっと自分でやってたんだよ?」
最初のうちは抵抗していたリアだったが、ゲルトがさっさとこなしてしまうため、すっかりそれが当たり前となってしまった。怠惰というのは怖ろしい。
「リアは聖女様なんだ。身の回りのことは全部、俺がやるよ」
いつも笑ってそう言いながら、ゲルトは細やかな心遣いを配る。
同い年なのに、お兄さんみたいな顔をして。
聖女の力は有限だ。
いつかその力は尽きる。
だからこそ、力が果て、次の世代に役目を引き継いだ時、聖女と聖騎士は生涯困らないだけの富を得る。
リアの前の聖女は、二十代半ばで引退した。共にあった聖騎士と婚姻を結ぶという。
引継ぎの時に顔を合わせた彼女は、晴れやかな笑みを浮かべ、堅物そうな聖騎士の腕を取った。
「私たち、結婚するのよ」
聖女である限りは、婚姻は禁止されている。
心身ともに清らかな乙女でなくてはいけないのだ。
はじけそうな彼女の笑顔が眩しくて、リアは素直に思った。
恋するって、素敵なことだなと。
自分の力がいつまで続くかわからない。だいたいは三十を超える前には力を失うらしいので、きっと自分もそのころまでには聖女ではなくなるだろう。
だが、果たしてそこから、心がときめくような恋が見つけられるだろうか。
「ねえ、ゲルト」
神殿を後にする幸せな元聖女と元聖騎士の馬車を見送りながら、リアは呟いた。
「ん?」
着慣れない白い騎士服を身に着けたゲルトが、身をもぞもぞしながら返事する。
「もし、聖女じゃなくなって、ここを出ても……一緒にいてくれる?」
それは恋愛だとか、結婚だとか、そういう思いがあって口にしたことではなかった。
単純に、神殿を出て、ひとりで生きていく自分を想像できなかったからだ。
あとから思えば、ずるい発言だったかもしれない。
ゲルトにはゲルトの人生があるのだから。リアが縛り付けてはいけないのだ。
けれど、この時のリアにはそんなことは考えられなかった。
ゲルトがわしゃわしゃとリアの髪を掻き混ぜる。
「ちょ、ちょっと」
抗議しようと顔を上げると、ゲルトは面白そうに笑った。
「当たり前だ。俺はずっと、リアと一緒だ」
風が吹き、蜂蜜色の髪がふわりと揺れた。
まだ幼さの残る顔。
だが、着実にゲルトは大人の男性へと変わっていく。
その証拠に、高かった彼の声は、既に低くなりはじめているのだ。
ゲルトの言葉がくすぐったくて、リアはそっと目を伏せた。
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