第2話 もう一人にはしない

 不可解な状況に混乱しながらも、私は思考をめぐらせる。さっきまで私は、異形の飛竜のブレスに晒されて、サウナ状態になった車内にいたはずだ。努力も虚しく、アーティファクトタングステンの壁イデアブレスに打ち砕かれ……。

 

 私は、死んだはずだ。お母さんを一人、残して。だったらここは天国なのだろうか。ひまわりや青空のように、お姉ちゃんもこの世にはもういない。


 お母さんには本当に悪いことをした。もう少し早く壁を生み出していれば、生きて帰れたかもしれないのだ。罪悪感で心が壊れそうだった。けれど、それでもお姉ちゃんと再会できた喜びも確かにあって。


 私は感情をぐちゃぐちゃにしながら、飛び込むようにお姉ちゃんに抱き着いた。


「お姉ちゃん。お姉ちゃんっ……」

日葵ひまり……」

「ずっと会いたかった。ずっと、ずっと、ずっと……!」


 涙をあふれさせながら胸に顔をうずめていると、お姉ちゃんは優しく私を抱きしめ返してくれる。


「私も会いたかったよ」


 歪んだ視界でお姉ちゃんを見上げると、うるんだ右目には今も氷の結晶のような美しい幾何学模様が浮かんでいた。もう二度とお姉ちゃんを離したくなんてなくて、私はなおさら強く腕に力をこめる。


「お姉ちゃん。これからはずっと一緒にいてくれるんだよね? 天国では、ずっと一緒なんだよね? もう、悲しいことも、苦しいことも、何もないんだよね? 大切な人も失わなくていいんだよね?」


 私が問いかけるとお姉ちゃんは小さく首を横に振った。


「ここは天国じゃないよ」


 そう言われて辺りを見渡すも、やっぱりここを構成するすべては、世界から失われたものばかりだった。現実にはひまわりも青空もない。当たり前のように青空に浮かぶ太陽も、現実ではにこやかな顔のついた太陽。通称「太陽よりも素晴らしい太陽」に置き換えられてしまっている。


 それなのにここが天国でないというのなら、一体なんだというのだろう。


 疑問に思っていると、お姉ちゃんはつげる。


「空間転移のイデアで、日葵を助けに来たんだ。本当にギリギリだったけど、私も日葵も生きてる。……ここは、千年前の世界の再現。全てを物理法則が定める空間。イデアの存在しえない人類最後の砦。私はこの空間を「失われし基底世界アーキタイプ」と呼ぶ」


 決め顔とかっこいい声で、顔の前に手を持ってきてポージングするお姉ちゃんを前に、私はどんな反応をすればいいのか分からない。思わず後ずさりをしてしまう。


「……アーキタイプ?」

「そう。「失われし基底世界」と書いて、アーキタイプ」

「へぇー。かっこいいね。ふーん……」

「ちょっと。なんで残念な人を見るみたいにお姉ちゃんをみつめるの!」


 ただひたすらにジト目でお姉ちゃんをみつめる。私の視線に耐えかねたのか、お姉ちゃんは顔を真っ赤にしてぷいと目をそらした。


「だ、だって。日葵も分かるでしょっ!? 私だけの世界だよ? こんな、こんな選ばれしものみたいな能力手に入れたら、誰だってかっこつけたくなるじゃん!」

「……はっきり言うね。お姉ちゃん。ださいよ?」

「なっ……」

「少なくともあなたの妹の心には響きませんでしたっ」


 お姉ちゃんはショックを受けたように、目を見開いている。


「だ、だったら、どんなネーミングがいいと思うわけ?」


 不服そうに問いかけてくるものだから、私は「んー」と顎に手を当てた。


「ノスタルジア、とかどう?」

「……どや顔を浮かべてるところ申し訳ないけど。我が妹よ。君も大概だよ?」

「お、お姉ちゃんにいわれたくないよ! 私は漢字かな交じり文に変なカタカナの当て字とかしてないもん!」


 顔が熱い。せっかくお姉ちゃんのノリに乗っかってあげたのに。本当に酷いお姉ちゃんだ。私は頬を膨らませて、全力で不服を表現した。するとお姉ちゃんは「まぁでも」と口を開く。


「ノスタルジアの方がそれらしいね。流石私の妹だ」


 そう笑って、私の頭をよしよしと撫でてくれた。


 そうしてお姉ちゃんだけの世界の名前は「かつて簒奪されたものたちの理想郷ノスタルジア」に決まった。


 ……うん。やっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんだったよ。


 まぁそういうところも可愛い、なんて思っちゃうんだけどさ。


「……それで、このノスタルジアは厳密にはどういう場所なの? 現実との関係は?」


 私たちはひまわり畑の中の小さな東屋に入って、木製の長椅子に二人で腰かけていた。


 私がタングステンの壁を呼び出したように、お姉ちゃんもこの世界そのものを生み出した、ということなのだろうか? 私がさっきまでいた電車がどこにも見当たらないのが引っ掛かるけど。


 現実世界そのものを上書きしてしまったのか、あるいは現実世界とは別の次元にこの空間があるということなのか。そもそもどうして世界なんて複雑なものを再現できるのか。私はタングステンの壁を生み出すだけでも疲労困憊だったというのに。


「ノスタルジアはまぁ分かりやすく言うのなら、一時的に世界を上書きする力だね。それを可能にしているのはこの目。見える?」


 お姉ちゃんは自分の右目を指さした。ほのかに赤みがかった黒目には、氷の結晶のような青い幾何学模様が浮かんでいる。


「この幾何学模様が、私を補助してくれている。人間には世界に干渉する力が大昔から備わっていたんだ。でもそれはほんのわずかだった。引き寄せの法則、なんてものがあったみたいだけど、その程度だったんだ」


 引き寄せの法則は確か、頭の中で幸せを思い描けば現実でも幸せになれる、かもしれないみたいな、そんな話だった気がする。古典で少しかじっただけではあるけど。

 

 きっとお姉ちゃんが言いたいのは「かつての人類に思いや願いだけで世界に確実に干渉する力なんてなかった」ということだと思う。


 千年前、イデアがこの世に生まれるまでは。


「でも千年前、この世界にイデアが生まれてからは、事情が変わった。人は絵を描いたり、物質の性質や機械の構造を学ぶことで、自分の願いを現実に叶えさせることができるようになった」

「イデアとアーティファクトの根元は同じなんだよね」

「まぁね。「願い」であることは共通してる。……話を戻すけど、個人のもつ世界に与える影響力には限りがある。この瞳の幾何学模様――「空眼スカイアイ」は私の世界への影響力を大きく強化してくれているんだ」

「それって、どうやってできてるの?」

「これはイデアでできてる。「桜の魔女」ってすごいイデア職人が作ってくれたんだ。物理法則が支配するここ、ノスタルジアですら効力を発揮できるように、特注で作ってくれたんだって」

「……」


 イデアはお父さんを殺した。お姉ちゃんと私たちを引き裂いた。幸いにもお姉ちゃんは生きていたけれど、お母さんも私も悲しむことになった。世界だって侵食するし、全くいい感情は抱けない。


 お姉ちゃんがこれまでの三年間どこにいたのか、とか誰が連れ去ったの、とか。聞きたいことは山ほどある。でも今はお姉ちゃんの力について知るべきだ。イデアという言葉を聞いただけでなんとなく、嫌な予感がする。


「その眼は、力は、これまでに失われたものを復活させられるの?」


 私としては、お姉ちゃんにそんな大きな力なんて持って欲しくない。お姉ちゃんは正義感が強いから、きっと余計なことに首を突っ込んでしまうはずだ。


「復活は難しいね。この空間だって一時的なものだし。ほら見て」


 お姉ちゃんの指さした先の空が、割れていた。つぎはぎな青くない汚い空が覗いている。安全な卵の内側から、いつかは殺伐とした外の世界に飛び出さないといけない雛の気分だった。


 お姉ちゃんは悲しげな声でささやいた。


「私だって、日葵のためにも、ひまわりを取り戻したい。けどそんな力は私にはないんだ。世界では「ひまわりはもう存在しない」というのが常識になってる。ひまわりや青空を否定する「人の意志」が充満しているんだよ。だからね、こういう風に失われた青空やひまわりの存在するノスタルジアを生み出しても、最後には世界の圧力に負けて侵食される。侵食されれば、また元の世界が蘇る」


 その言葉を聞いた瞬間、私は異形の飛竜のことを思い出した。


「だったら私たちは、この世界が崩れた瞬間に……」


 あの飛竜のブレスの餌食になるのではないか。やっぱりお母さんの元へは帰れないのではないか。恐怖に顔を引きつらせていると、お姉ちゃんは私を横から優しく抱きしめてくれた。


「大丈夫だよ。それに関しては対抗策がある。そもそも私がこの空間を生み出したのは、日葵にひまわりと青空をみて欲しかったからなんだ。日葵はひまわりが好きだったでしょ? イデアの適性検査のときにひまわり畑を描くくらいだし」

「私がひまわりを描いたのは」

「ん?」

「……なんでもない」


 私は月の方が好きだ。月はお姉ちゃんの可愛い笑顔を見せてくれるから。


 お姉ちゃんが私の名前の由来であるひまわりのことを大層気に入っていたから、お姉ちゃんに褒めてもらいたいって思って、ひまわり畑を描いただけ。でもお姉ちゃんが私のためにこんな美しい世界を生み出してくれたのなら。


 それは本当に幸せなことだと思う。


「ありがとう。お姉ちゃん」


 私はぎゅっとお姉ちゃんを抱きしめた。ちょっと恥ずかしいけど、そうしたい気分だった。ちらりと見るとお姉ちゃんはほのかに顔を赤くしている。


「まぁ、私はいいお姉ちゃんだからね」

「うん。お姉ちゃんはいいお姉ちゃんだよ」


 微笑むと、お姉ちゃんは目を見開いて、私から視線をそらした。


「なんていうか、普通に照れるんだけど……」

「照れてるお姉ちゃんも可愛い」


 私がささやくと、お姉ちゃんの顔はますます真っ赤になってしまう。


「……ま、まぁとにかくあの変な飛竜に燃やされる心配はしなくていいよ。世界がここを潰してしまう理由は青空やひまわりにある。つまりは青空やひまわりの存在しない「全てを物理法則が定める空間」だけを現実世界の上に生み出せば、その内側においてはあのブレスも、当然飛竜も存在できなくなる」


 照れ隠しなのか早口でつげるお姉ちゃんが可愛くて、私はそっと寄りかかる。やっぱりお姉ちゃんは凄い人だ。いつだって私を助けてくれる。私の初恋の人で、大切な人。


「……もうすぐ、崩れるね」


 お姉ちゃんがぼそりとつぶやいた。目を向けると、ひまわり畑はその金色の花を散らし萎れ、空も青を失いひび割れ、今にも砕け散りそうになっている。気付けば太陽も消滅していた。辺りは夜よりも暗い闇に包まれていく。


 私たちはお互いの体温を感じながら、世界の終わりを見届けた。


 ノスタルジアは消え、私たちは現実世界に戻ってきた。灼熱のブレスが眼前まで迫っている。けれどお姉ちゃんと手を繋いでいれば、少しも怖くなかった。


 お姉ちゃんの右目の氷の結晶のような幾何学模様、スカイアイが青く光る。大気中を電流が走ったその瞬間、時間が戻っていくみたいにブレスが飛竜の口元へと消えていった。目には見えないけれど「物理法則だけが支配する空間」がお姉ちゃんを中心に広がっているのだろう。異形の飛竜は何が起きているのか理解できないらしく、苛立たしげに咆哮をあげた。

 

 けれどやがてはその咆哮すらも聞こえなくなる。


 ブレスが全て消えると飛竜は、自らの鮮血で全身を更に紅く濡らした。翼をはためかせるも空を飛ぶことすら叶わず、口から制御できなくなった炎を絶え間なく漏らす。悲痛なうめき声を漏らしながら、地上へと勢いよく墜落していく。


 飛竜はかつて、空想上の生物だった。人の想像する飛竜は屈強で暴力の化身のような存在だ。でも根本的には、飛竜について考える人間がいなくなれば、この世から存在ごと消滅してしまうような儚い存在だった。

 

 現代においても飛竜は、この地球という環境に適応することもなく、生存競争を勝ち抜くことすらもなく、ただ人間の想像力だよりでこの世界に生まれ落ちた生物だ。そんなものが何よりも厳密な物理法則に勝てるわけがなかった。


 人によって生み出されたその生物は決して最強なんかではなかった。体内を自らの熱から守る物理的な機構を持たず、空を飛ぶための合理的な翼もなく、その巨大な体を支えるだけの骨格も持たない。


 全ては、ただ空想という鎧によって守られていただけだ。


 そしてその鎧は今、物理法則という矛によって容易く穿たれた。


 歪んだ巨体が地面に墜落し、轟音と共に砂埃が舞う。それを見届けたお姉ちゃんは感慨にふけることもなく、すぐに車内を見渡して乗客たちに呼びかけた。


「みなさん。大丈夫ですか? 怪我してる人はいないですか?」


 乗客たちは何が起こったのか、全く理解できていないようだった。けれどそれでも自分たちの命が助かったという安堵は、その表情にありありと浮かんでいる。


「……俺たち、助かったのか?」

「そう、らしいな……」


 絵を自慢しあっていた例の二人は異形の飛竜に少しでも抵抗するため、イデアを生み出していたらしい。でもお姉ちゃんの能力のせいか、小さな龍は男子生徒の手のひらで息絶え、小さなロボットももう一人の男子生徒の手のひらでばらばらに崩れていた。二人はそれを寂しそうな表情でみつめている。


「でもこの電車の先頭はテロリストに占領されたままなんだろ?」

「それなら結局私たちは……」


 そんな声が乗客から上がると、みんなはまたしても恐慌状態に陥っていた。実際、電車は加速を続けていてこのままだと間違いなく脱線してしまうだろう。


 お姉ちゃんは不安を隠せずにいた私の手を、ぎゅっと握りしめた。


「大丈夫だよ。お姉ちゃんがテロリストを倒して電車を止めて来るから。みんなのこと助けるから。もう昔とは違う。私は強い。分かったでしょ? この右目のスカイアイには誰も勝てない」


 お姉ちゃんがいれば相手はイデアを使えなくなる。けれどそれでも相手がテロを起こすような危険人物であることは変わらない。命の危険がないわけではないのだ。むしろ非常に危険だ。追い詰められたテロリストが何をしてくるかなんて、常人には想像もつかない。


 体が震える。お姉ちゃんが一人、背中を向けて歩いていく。


 三年前のあの日も、そうだった。お姉ちゃんが姿を消した日の朝、私はまさかお姉ちゃんと永遠に会えなくなるなんて思ってもいなくて。だからこそ「一緒に出掛けよう?」というお姉ちゃんの誘いを、眠気に負けて断った。


 ついていったとしても、あの日の私には何もできなかっただろう。でもそれでも私はずっと後悔していた。もうあんな間違いは犯したくない。大切な人を気付かないうちに失いたくなんてない。


 私は震える体を抑え込んで、お姉ちゃんに手を伸ばした。相手は昔お父さんを殺したテロリストだ。恐ろしいものは恐ろしい。けれどそれでも私は。


「私も連れて行って!」


 お姉ちゃんだけに、全てを背負わせたくない。今度こそはお姉ちゃんを助けたい。私は弱いけれど、それでもお姉ちゃんの隣を歩いていたい。

 

 振り返ったお姉ちゃんは目を見開いていた。けれど私の顔をみると「しかたないか」と肩をすくめながらも微笑んで、ぎゅっと私の手を握り返してくれる。


「姉妹でお父さんの仇、取るよ」

「うん……!」

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