第17話

第十六章

基隆(キールン)は台南の高雄(カオシュン)と並ぶ台湾の代表的な港町である。

 昼間は人の往来の少ない港のはずれにある住宅地のさらに奥に点在する家がある。そのうちの一軒の離れに、周囲を気にしながら隠れ住んでいる男がいる。羅承基だ。

 逮捕寸前にいち早く中国を脱出し、台湾に潜入し、北京で学校の同窓だった陳浩然を頼ってキールンに忍んで来た。離れの持ち主が陳だ。

 羅は台湾に向かう飛行機の中で、公安部長の犯罪の一部始終をまとめたニュース解説をまるで他人事のように眺めていた。陳の顔が浮かんだ。あいつは一連のマスコミ報道で、勿論俺のしでかしたことをとっくに知っているはずだ。でも、取り敢えず頼る人間があいつしかいない。結婚式で顔を合わせたきりの陳に取り敢えず会ってから、今後の逃亡策を考えることにしよう。そう思った。

 陳が台湾に移住したのは風の噂で聞いてはいたが、連絡先も知らず、陳の住まいを探しているうちに逮捕されてしまうのではないかという不安もあった。

 逃亡に利用した飛行機がタイペイ郊外の桃園国際空港にタッチダウンし、フィンガーに移動している最中に羅の携帯に着信があった。

 相手先の表示がないので無視しようと思ったのだが、そういう時に限って電話に出てしまう。孤独の為せる業なのか。

「もしもし……」

声を落として受話器に耳を当てた。

「ああ、羅公安部長。わかるかな? 北京で同窓だった陳だよ。陳浩然だよ」

 一瞬耳を疑った。陳の方から電話が……?。

「よく俺の電話番号がわかったな。本当に久しぶりだなあ」

 陳の笑い声が電話口で響いた。

「いやさ、公安部長さまが逃亡されているというのを小耳に挟んだからな。何か出来ることはないかと思って出しゃばったのさ。電話番号は昔結婚式でもらった名刺に書いてあった。とにかく掛けてみようと思ってな。今何処だ?」

「タイペイの空港に着いたところだ」

「そうか。あんたは台湾に来たのか。そいつは都合がいい。俺は今台湾北部のキールンに住んでいる。空港からタクシーで来ればいい。住所を念のため言っておくぞ。書き留めてくれ」

 陳の住所を知り、羅は空港前でタクシーを拾った。

 タイペイの夜景の中をキールンに向かうタクシーの中で、羅は何とも言えない安堵感に包まれていた。

最初、陳のことは諦めようと思った。第一に連絡する術がないし、あの結婚式の後交流もなく、結婚式で大恥をかいて俺を睨みつけていた陳が、今回の俺の逃亡劇で少しであれ友情を振り向けてくれるかどうか甚だ疑問に思っていたからである。

 連絡が万一取れたとして、もし断られでもしたら、沽券にかかわることである。それこそ負け犬の烙印を押されたも同然と羅は拘っていた。

たとえ最初は受け入れてくれたとしても、そのうちお荷物になり、お尋ね者の公安部長なんか早々に引き払ってもらおうと警察に垂れ込む恐れも考えられる。

 味方になってくれるかも知れない友達に対しても、そんなことを邪推するほど、羅は人間不信に陥っていたのである。

 そこに陳の方から電話がかかって来たのだから、羅は幸運が舞い込んで来たと安心したのだ。それでも、騙されることも考えておかねばならない。公安部が何らかのルートを通じて、俺と陳の関係を割り出し、陳を利用して俺を呼び寄せてだまし討ちにするというケースだって考えられる。羅は手荷物以外の旅行バッグの奥に忍ばせていた拳銃を脳裏に浮かべていた。

 陳の自宅に着き、目前に現れた陳は両手で羅の手を握って迎えた。

「いや久しぶりだな。会えて嬉しいよ」

 陳は羅を家に招き入れ、腹が減っただろうと、早朝に釣って来た魚を器用にさばいて料理を作り、上等そうな高粱酒を用意してくれた。

 その態度を見て、陳に対して抱いていた疑念も晴れて、羅は心の中で友に詫びを入れた。

「朋遠方より来たる有り。また楽しからずや、さ」

 逃亡の話には全く触れず、陳はそう言って微笑み、二人は酒を酌み交わした。

「陳、お前は独り暮らしなのか」

「ああ、釣り糸を垂れる人生さ。魚が友だよ」

 陳は刺身を口に入れ、美味そうに咀嚼しながら酒を飲み、微笑んだ。

 羅は自然と親しみながら、世の柵(しがらみ)に巻き込まれることもなく暮らしている様子の陳を羨ましく思った。

「昔は養子をもらったこともあったけど、妻が病気で亡くなってから俺は海の仕事があるから面倒見られなくなってな。どうしようかと困っていたら、その子は俺が漁に出ている間に出て行っちまった。それっきり会っていない」

 陳は寂しそうな表情を見せて箸を置いた。

 俺のように子を捨てる親が居れば、陳のように他人の子をもらって育てる親もいる。羅は自分と比べながら、箸を置いたまま思いに耽る陳を見つめた。

「ところで、あんたには娘さんの他に腹違いのお子さんがいるんだよな」

 陳が尋ねた。

「ああ、双子の息子が居たけど、施設に預けてしまって生き別れ状態だ」

「双子か。双子ってやっぱり良く似ているんだろうな」

「瓜二つだ。何でそんなことを?」

「双子でも似ているのと、余り似ていないのとがいると聞いたことがある。あんたのところはどうかって思っただけさ」

 陳は酒をグイっと飲み、羅に微笑んだ。

「もう少し刺身を作ろう。とれとれの奴がまだある。高麗酒を楽しんでいてくれ」

 陳は台所に入った。そこには包丁が数本収納箱にしまってある。陳はその中から一番刃の鋭い包丁を取り出した。細長い刃の光をじっと見つめ、切れ味を想像してみる。台所から見渡せる部屋で羅は陳に背を向けて、酒を味わい楽しんでいる。羅の首筋を眺めながら、包丁をギュッと握りしめて、刺す仕草を繰り返した。刺せば、血が噴き出し、奴は悲鳴を上げて、のたうち回るであろう。何度も刺す。死ぬまで刺す。死んでも刺す……。

愛しい妹を殺した奴が今俺の目の前にいる。やっちまえ! 心の叫びが木霊している。いや、こんなに簡単な殺し方では生ぬるい。どう殺すかはこれからじっくり考える。例

え何年かかろうとも……。

台所の壁に貼られている道教の神・竈(かまど)神の御札に目をやり、陳は一心に祈っ

た。神さん、せっかちな衝動で動かないように、後生ですからわたしに忍耐をお与え下さい。今は訪れた友のために奉仕する心の余裕を!

祈り終わった陳は包丁を静かに収納箱に戻し、今度は刺身包丁を取り出して魚を捌いた。

お前は腰抜けだ! 魚を捌くように何故羅を即刻切り刻んでしまわないのか! 

しかし、心の叫びは竈神に鎮められたのか、陳は何事も無かったかのように、刺身を新

しい皿に盛り、部屋に戻って羅の前に静かに皿を置いた。

 

 時が過ぎゆくうち、羅は持ち金が少なくなり、預金からキャッシュカードで現金を引き出そうとするが、預金の出し入れが記録に残り、潜伏場所を推定されるのを嫌い、陳に相談した。陳は、食事は原則として自宅で食べてもらい、必要な時に金を工面するからと言ってくれた。

最初のうちは厚意に甘えていたが、台湾の様子がわかるようになって来ると、陳に依存してばかりいるのが辛くなり、数か月後には働き先が出来たなどと嘘をついて、タイペイで暮らすと言い、陳宅の居候をやめた。

その後は陳にもらった現金の中から別にして貯めていた金を元手に木賃宿やネット・カフェ、サウナなどを泊まり歩いた。

しかし、その金も底をついて来ると、木賃宿に無銭宿泊したり、無銭飲食したり、さらには物品を万引きしたりして日々のやり繰りをせざるを得なかった。

いつまでこんな暮らしが続くのかと心底心細くはなったが、台湾に潜入している中国公安に逮捕されて北京送りになることだけは避けたいと踏ん張っていた。

だが、とうとうキャッシュカードに頼らざるを得ず、その出金記録ではそう簡単に逮捕にはつながらないなどと自ら強弁し、それでも出金回数を減らして一度に多額の現金を持ち歩くことにした。羅は台湾での逃亡生活にも徐々に慣れ、温泉通いがいい暇潰しになっていた。通うのは台湾原住民・タイヤル族の多く暮らす烏来(ウーライ)の湯治場だ。陳とも一年に何度か会う程度だったが、淋しくなると頻繁にキールンに出掛け、陳が釣り上げた魚で酒を酌み交わした。羅に出会うと、陳は心の中に突き刺さったままのトゲを思い出さない時はないが、親し気に自分を頼って来る羅を相手にすると、「朋遠方より来たる有り、また楽しからずや」という好きな論語の言葉が浮かび、嫌なことは暫し忘れようという不思議な気持ちになるのだった。


それから十五年の星霜が過ぎ去った。

この間中国公安部長は逃亡中の羅承基の後任・呉春林を含めて四代交代し、今現在は劉子墨である。劉はウイグル人に対する弾圧強化方針を打ち出し、新疆ウイグル地区の対立は一層激しさを増していた。

 その一方で劉は公安部長四代に亘り、懸案になったままの「羅元公安部長逮捕」という手柄を目指し、台湾に密かに送り込んでいる海外諜報特殊部隊に連日発破を掛けていた。 

特殊部隊は少数精鋭の隠密行動ながら長い年月をかけて台湾の主な都市を中心に捜査網を広げ、キールンにも捜査が及んで来ていた。

 陳の自宅もようやくローラー作戦で捜索の番が回って来たのだった。そのタイミングで羅は長らくご無沙汰していた陳宅を訪れ、数日を過ごしていた。

 諜報特殊部隊長・李新念が家の呼び鈴を押したが返答がない。その時、陳は漁に出ており、羅が留守宅を守っていた。

「おい、裏に回れ!」

 諜報員が裏に回ると離れがあった。

 離れの扉をそっと開くと、男が布団にくるまって壁の方を向いて体を横たえていた。

 諜報員が部屋の中に足を踏み入れようとした途端、男は跳ね起きて諜報員と対峙した。

 銃口が諜報員に向けられている。

「両手を上げてこっちに来い!」

 羅は諜報員を後ろから抱きかかえ、銃口を諜報員の頭に突き付けたまま離れの外に出て来た。

 距離を置いて周りを囲む諜報員の中に部隊長の李新念の姿があった。羅が公安部長だった時代に長年羅の直属の部下だった男が、今特捜隊に配転され、目の前に居る。

 李は羅を目の当たりにして、未だに実力ある公安部長というイメージから抜け切れていないのを感じ、逮捕にやって来たにも拘わらず、どう対処すべきかと動揺が走っていた。 

「羅部長、銃をお捨て下さい!」

長年の習慣から羅の顔を見ると、思わず羅部長と口走ってしまう。しかも命令形で「捨てろ」とは言えず、どうも歯切れが悪い。昔なら間違って羅に向かって命令口調を口走ろうものなら、たちどころに羅に張り倒されてしまっただろう。

李を睨みつけて羅が叫んだ。

「車をこの前につけろ! 変なマネしたらこいつを撃ち殺すぞ!」

 車が用意されると、捕らえられた諜報員に運転を命じ、銃口を突き付けたまま、羅は助手席に乗り込んだ。

「さあ、早く出さんか!」

 車は二人を乗せたまま走り出した。

 置いてきぼりを食った諜報員はタイヤ目がけて拳銃を撃ち込んだが命中せず、車は走り去った。

 陳は帰宅後に諜報員から事情を訊かれたが、昔の友達に寝場所を提供しただけと供述し、逆に諜報員に尋ねた。

「あんたら何処から来なさった。こっちの人間じゃないな。向こう岸からか?」

 向こう岸とは中国本土のことである。

 これ以上この男と関わると、地元の警察に通報され、痛い腹を探られると感じた諜報部隊は早々に引き揚げて行った。

さて、そもそも羅は何故台湾に逃げて来たのか。陳の顔が浮かんだだけではなかろう。もっと深い事情があるはずだ。

羅は長い公安部の経験で、中国本土と台湾の政治的な厳しい対立により、台湾警察の捜査協力を得られないことを見越していたのである。

従い、派遣された諜報部隊は台湾では隠密行動を強いられ、行動が台湾当局に知られれば、物議を醸すことになりかねないという微妙な存在であった。

中国は台湾が中国の一つの省に過ぎないと主張する割には、台湾に逃亡した犯罪者の捜査と逮捕について、台湾警察にお願いして協力を求めるのはプライドが許さないのかも知れない。

対する台湾はもしも中国が捜査協力を仰いで来たとしても、事件処理の主導権や指揮権を中国に握られるのだけは許さないであろう。

羅はタイペイまでドライバーの諜報員に銃口を突き付けたまま移動し、中心街の裏通りに車を止めるように命じて下車の準備をし、車が完全に停まってからドアを開ける瞬間に諜報員の頭を拳銃で殴り、気絶させてから車から出た。

念のため公衆トイレに入り、ドアを閉めてサングラスとマスク、それに付け髭で変装して中心街の通りに出た。

制服警官の姿を見ても、羅は一向に動じない。自分を追っているのはほんの少数の中国公安部の諜報員であり、台湾警察ではないからだ。


 玲とアンナは古賀と相談して、そろそろ大阪に帰ることをマーと両親に伝える機会を持った。

 大阪から始まり、台湾で終わろうとしているマー少年を巡る一連の体験は、ボランティア経験の浅いアンナにとっても、ベテランの玲にとっても、危険と隣り合わせではあったが、得難いものであった。

 特にアンナにとっては、そもそもマーに大阪の商店街で声を掛けたことがきっかけで、今回の全く思いがけない「冒険」が実現したことは感慨無量だった。それについては経験少ない自分を初めての海外出張に行かせてくれた理事長の古賀に感謝した。

 旅の間マーとも打ち解けて、ここ台湾で別れてしまうのは少々寂しい気持ちもある。

 アンナは改めて懐かしさを込めてマーを見つめて微笑んだ。

「マー君、本当によかったね。これで、また親子一緒に暮らせるね」

マーは何かを思い詰めたような表情をしている。

「……あのう……」

「どうしたんや」

 古賀が尋ねた。

「ボク、大阪のヘルプで働かせて下さい。古賀さんや、黒澤さん、アンナさんらに大変お世話になった。その恩返しもしたいし、民族差別を受けて苦しんでいる同胞のためにも働きたい。古賀さん、お願いします!」

玲とアンナは驚き、また喜んだ。

父親・アラはまた違う驚きで息子の言葉に首を傾げていた。太い声がいつもよりしゃがれ、アラは咳払いをした。

「グアンピン、お前の気持ちもわからんではないが、記憶も身体の調子もまだ安定していないかも知れん。それにお前が日本に行ってしまったら、また母さんが心配するぞ」

ティラが傍らで盛んに頷いた。

「記憶は美人窟の菩薩さまと祈ってくれた父さん、母さんのお陰ですっかり元通りになったよ。もうボクも来月で十八になる。親から独立する年齢だ。連絡はきちんとするから台湾で見守り、ボクの望みを叶えて欲しい。お願いだ」

 両親は困惑した表情で口を閉ざしている。

親子の会話に耳を傾けていた古賀が口を開いた。

「お父さん、お母さん、マー君もああ言っていますから、彼のことはわたしたちにお任せください。彼にわがNPO法人で働いてもらい、民族差別で虐げられている人々に救いの手を伸ばせるように指導していきたいと考えています。彼は自分の記憶を回復させるのは自分しかいないと踏ん張り、危険を顧みないで独り美人窟の菩薩に会いに行きました。そしてついに念願を果たしたのです。どうか忍耐強い彼の願いを聞き入れてやって下さい」

 古賀は両親に頭を垂れた。

古賀の言葉に誠意を感じ、安心したのか、両親の表情が緩み、古賀に頷いた。

両親の許可をもらったマーが古賀に言った。

「ありがとう、古賀さん。いや理事長さん」

 みんながどっと笑った。

アラがみんなを見渡しながら言った。

「ありがとう。グアンピンのことをよろしくお願いします。タイペイにも反ウイグル組織があり、息子もわたしたちの巻き添えを食って大けがをしました。わたしも妻も、本当は安全な日本に行きたいのですが、こちらの支援組織の方々にも恩義というものがあります。わたしらはもう老い先も短い。まもなくマーの時代になるでしょう。息子には民族の誇りを持って、強く生きてもらいたい。きっとこれからもマーの身柄はあの美人窟の菩薩さまが守ってくれるでしょう」

ティラが立ち上がり、息子の両手をしっかりとつかんだ。

「グアンピン、何か問題が起こったら、直ぐ母さんに知らせるんだよ。わかったかい?」

マーは何度も頷いた。

「ありがとう、父さん、母さん」


 北京にある八宝山人民公墓に羅の一人娘リンユーの姿があった。この春大学に入学した彼女は色白肌で短く切り揃えた黒髪から耳を出し、母親似の一重瞼で切れ長の目、きりっとした鼻筋、清楚な口元を受け継いだ顔は卵型で愛らしい。入り口で花と月餅を買い、向かった先は母親ホンファが眠る墓である。しかし、羅家歴代の墓に詣でると、やはり父を巡るあの忌々しい出来事が否応なしに心に浮かんで来る。リンユーはそれに抗うように、必死に墓前で母親の顔を浮かべ、膝をついてお辞儀を繰り返した。

 高校生だったある日の放課後、級友の女の子から空いている教室に突然呼び出され、数部の新聞を見せられた。そこには裕福な家の娘としてリンユーを妬んでいる女の子が集まっていた。

「これあんたのお父さんだろ?」

 古びて変色した新聞の大見出しが目に飛び込んだ途端、リンユーは眩暈(めまい)がして、倒れそうになり、思わず傍にあった机に片手をついて体を支えた。

『羅公安部長に逮捕状 愛人の殺害など二件の殺人に関与か 公金横領も発覚』

 最近の日付の新聞にはこんな特集記事が載っている。

『愛人妻殺人から十四年 羅元公安部長は何処に』

「あんたら何処でこんなものを……」

 リンユーが声を殺して尋ねた。

「家で教えてもらったの。あとは図書館のアーカイブで調べたわ。あんたの父さん、人殺し。ああ怖!」

 その女の子はニヤニヤしながら身震いして見せ、じっとリンユーの反応を見ている。

「お金も盗んで逃げているって。そういうと、参観日でもあんたの父さん見かけたことなかったよな。道理でね……」

「よく平気な顔して学校に来ているわね。人殺しの娘が……」

 女の子は口々に悪口を浴びせかけた。

 リンユーはその教室を走り出てクラスに戻ったが、クラスのみんなは彼女の姿を見た途端に口を閉ざし、目を逸らせた。

 涙を抑え切れずに家に走り返り、母のホンファに向かって泣き声を振り絞った。

「母さん、父さんのことどうして黙っていたの? わたしも何度聞こうかと思ったけど、母さんが嫌な顔をするからそれ以上聞かなかったのよ。でも、今日学校で父さんのことが載っている新聞を見せられたわ。みんなで父さんが人殺しだとか、不倫しただとか言うのよ!」

 ホンファは嗚咽する娘の体を引き寄せて抱いた。

「ゴメンね。あなたを苦しめたくなかったのよ」

「でも! でも! こんなこと!」

 興奮は収まらない。

 母は娘を抱きかかえ、背中を擦った。娘の涙が母の胸を伝って流れていた。心配な母娘の様子をホンファの父母が顔をしかめて遠巻きに見つめていた。

 翌日からリンユーは登校拒否をし、自室に閉じこもってしまった。ホンファの呼びかけにも応じず、自室の鍵を閉めたまま出て来なくなった。

 食事を扉の傍に置いておいたら少しは食べた形跡がある。勿論トイレに出て来るが、終わると直ぐに部屋に引きこもってしまう。そんな日々が続いた。

 ホンファは娘のショック、苦しみは痛いほどわかるので、気の済むようにさせておいた。

 そのうちにホンファは心労から体調を崩し、神経性の病に罹り、ある日肺炎を併発して入院し、あっという間に亡くなってしまった。

 リンユーは母親の供養にやって来たものの、どう母に声を掛けたものか、ためらっていた。

 亀の甲羅に似せた墓石の前で母親の霊に何度も手を合わせた。プレートに張り付けた母親の写真がこちらを見て微笑んでいる。

 お母さん、女狂いであなたの寿命を縮めたあの人が驚くような酷いことをしていたことが明らかになり、わたしは娘として本当に恥じ入ります。一体これからどうして生きていけばいいのかわかりません。お母さんはわたしのようにあの人の醜過ぎる姿をこれ以上見ずに済むのは、ある意味で幸せなことかも知れません。でも、わたしはこれからもこの重い事実を背負って生きて行かなくてはなりません。どうすればいいか教えてください。お母さん、とにかく、あんな人のことはすっかり忘れて安らかにお休み下さい。何が起ころうとも、もうわたしはこれ以上驚いたりしません。だってこんなに酷いことがわたしの家族の中で起こってしまうなんて夢にも思いませんでしたもの。もうこれ以上の驚きと悲しみはありません。

 リンユーは膝をついたまま何度もお辞儀を繰り返し、母親に心の中で話しかけた。


マーが台湾に残る両親と暫しのお別れになるので、最後にみんなで温泉にでも入ろうと玲らが小旅行を計画した。アルキンも参加することになった。

 アンナが中心となって決めた温泉地は烏来(ウーライ)だった。

 原住民タイヤル族の集落が残り、今では俗化された観光地でもある。

 バス停から川沿いに温泉場が並ぶ中心街に出ると、両側にタイヤル族の民族料理店や手工芸品の店が立ち並び、温泉の湯治客がテイクアウト出来る食べ物をつまみながら歩いている。

 一軒の温泉をみんなで選び、男女に分かれて湯船に向かうと温度が中くらいの「中温池」と、低い「低温池」、それに打たせ湯がある。「温池」とは風呂のことである。

 古賀と赤間は両方の風呂に代わる代わる浸かり、赤間の今後の身の振り方を話し合っている。

「俺は中国でお尋ね者になってしまったから、中国にはもう戻れない。日本で暮らすしかないよ。だから東京に戻ってコンサルタント業務でもやろうかなって思ったりしているんだ」

「東京なんかやめて大阪に来いよ」

 古賀がすかさず言う。

「一度マーケットとして研究してみないとな」

「今回の騒ぎで思いついたんやが、赤間さんと何かコラボしてやってみたいんや」

「それも面白いね。何か考えてみよう」

 久しぶりに出会ったアルキンとマーは背中が痛くなるほどの勢いで湯が噴き出している打たせ湯を交代で使っている。

「アルキン、相変わらず霊界に行ったお母さんと話してるの?」

「うん。でも、霊界トークはパワーが要るんで毎日はやっていない」

「大汗を掻くってこと?」

「もうハンパじゃないよ」

 暫くすると打たせ湯にも飽きて風呂に浸かり、のぼせそうになって急いで湯船から出た。

 二人は養生茶のサービスがあるという待合室に行った。だだっ広い部屋の片側に大きな窓が幾つも並び、部屋には長机に椅子が並べてある。窓からは回遊式庭園が広がり、常緑の大木が立派な枝ぶりを見せている。

 窓は全部閉じられていたが、マーはひとつを少しだけ開いて火照った体を冷風に曝した。

「ああ、気持ちいい!」

「どれどれ?」

 アルキンが真似をした。

 マーは先ほどから気になっている人物がいた。

 離れたところの椅子に座り、浴衣を上半身脱いで、頭に手拭いを載せている。手拭いから白髪混じりの毛髪が覗き、体幹が筋肉質の割に、覗いている脚が細い。何が気になると言って、特段珍しい風貌でもなく、とにかくその存在から滲み出る何かが先ほどから気になっていたのである。

男は時々紙コップに入れた養生茶を飲み、窓から庭園を眺めている。

 傍らの長机にはかなり物を詰め込んだと見えるリュックが置かれている。

「あっ!」

 アルキンが叫んだ。

「お茶をこぼしちゃった」

 紙コップが床に落ち、養生茶がこぼれて湯気が上がっている。

 男が瞬間振り向いた時、目の刺すような鋭さにドキッとした。森林地帯に生息し、何処までも獲物を追い続けるチベット狼の目に似ている。

 男は再び窓から庭園を眺めていたが、その横顔を見ているうちに、ある記憶が一瞬蘇った。マーはどうしたものかと迷ったが、思い切って男の傍らに行って声を掛けてみた。

「ひょっとして、おじさんは……」

 男は太い眉をしかめて鋭い目をマーに向けると直ぐにリュックを持ち上げて立ち上がり、浴衣を上半身脱いだまま、そそくさと待合室を出て行った。

「どうしたの?」

 アルキンが尋ねた。

「いや、何でもないよ」

 その時、玲ら女性陣が湯から上がり、養生茶を飲みに待合室にやって来た。

 マーは去って行った人物に何故引かれたのかがわからないまま、みんなと雑談を始めた。


 公安の諜報部隊は羅に対する捜査範囲を当面タイペイ首都圏に絞り込み、羅を追い続けていた。

 北京の公安部長室で部長の劉子墨が諜報部隊長の李から報告を受けていた。

「お前らは一体台湾まで出かけて何をしてるんだ! やっと見つけた羅を取り逃がしてしまうとはな!」

「申し訳ございません」

 李は平謝りだった。長く仕えた公安部長がある日突然殺人犯になったからといって、直ぐに頭を切り替えることが出来なかったとは思いたくない。

しかし、もしもその犯人が全く知らない人物だったとしたら、取り逃がすなんてことはあり得たのだろうか。そう思うと自信がない。

「恐らく羅部長、いや羅はタイペイ近辺に潜伏しております。あともう一歩です。劉公安部長のお手柄も間もなくと思われます」

「余計なことは言うな! 今度こそあいつの首に縄を巻いて連れ帰れ! よいな!」

「ははあ!」

 余計なことと言いつつ、新任で早速手柄を立てたいという功名心は燃え盛っており、部下のちょっとしたお世辞にも満更ではないと劉はほくそ笑んでいた。 


 羅はタイペイ市内の木賃宿を転々としていた。時にはネット・カフェで何日も身を隠すこともある。しかし捜査が及ぶのを気にして、塒(ねぐら)は出来るだけ早めに変えるようにしていた。外出する時は変装し、変装用の様々なグッズをまとめた小さなバッグをリュックに入れていた。

 食事は出来るだけ人目につかないように、台湾によくある朝食の店には行かず、変装してスーパーで買い求めて、ネット・カフェの個室で食べた。ネット・カフェをよく利用するのはネットニュースで自分のことがどう報じられているのかをチェックするためでもある。

 公安捜査のやり方は自分が熟知しているので必要はないが、ニュースでは重要な事態が動く時に少しでもその兆しが読める場合があるので意識してチェックしていた。

 ある日、宿泊中のネット・カフェに私服の諜報部隊が訪ねて来た。羅は二階の階段の端から一階受付の様子に目を凝らした。部隊長の李が羅の写真をスタッフに見せている。

「名前は違いますが、二階に似た人がここ一週間ほど宿泊されています」

「二階の何番でしょうか?」

「二〇六番です」

 羅は個室の並ぶ通路を階段とは反対の方向に回り、急いで個室に戻ってリュックを背負い、中央階段を上がって来る李らに気付かれないように一階に降りた。

 受け付けのスタッフが羅に気付き、二階を気にしながら羅の支払いを待っていた。

「おい、早く精算してくれ!」

 羅は二階を気にしながらスタッフをせかせた。スタッフがレジスターで計算しているうちに二階から李らが降りて来る足音がしたので、羅は大きな札をカウンターに放り、釣りも受け取らずに外へダッシュした。

 

 マーはみんなとウーライの温泉郷から戻り、翌々日日本に向けて飛び立つ予定になっていた。

 ところが、温泉の待合室で出会った中年男のことがずっと気になって落ち着かない時間を過ごしていた。あの男に出会った瞬間に感じたあの感触は、遠い記憶の奥底に沈んでいたものが突然目の前に姿を現したような不思議な感覚だった。

 か、と言って興味があるのはその男が誰かということだけではなく、その遠い記憶の奥底に沈んでいるものそのものである。

 マーは記憶を捜し、取り戻してから一種不思議な感覚が芽生えて来たのを感じている。

 それは記憶が元通りに回復したというよりも、より過去の記憶、すなわち自分がこの世に生を受けてから後の記憶の限界の彼方に失せたはずの記憶まで目を覚まし始めているような感覚である。

 喪失した記憶を取り戻すことが、それに留まらず、さらに過去の記憶をも呼び起こし、フラシュバックしているような感覚だ。

 ある意味、それは記憶障害の副作用であり、後遺症と呼べるものなのかも知れない。

 マーは気分を変えようと、ホテルの部屋のディレクトリーに載っていた付近のサウナに足を運んだ。

 台湾のサウナと言っても、いかがわしいところばかりではない。健全なサウナもある。

 マーは湯に体を浸したあと、数人程度入れる部屋に入った。

 一人先客があり、それが少し驚いたことに、先日ウーライの温泉郷の待合室でマーが声を掛けた男だった。その男は石の熱気と蒸気の中に暫く居るせいか、かなりの汗を流している。

 男はマーが入って来たのをドアが開いた音で知り、少し座る席を譲るように体を移動させた。

「先日ウーライでお会いしましたね」

 声を掛けると男は驚いたようにマーの顔に鋭い視線を浴びせたが、直ぐに目を閉じた。男の通った鼻筋を覆うように粒状の汗が溜まっている。この男とボクを短期間に二度も

会わせたのは、きっとあの美人窟の菩薩さまだ。マーは咄嗟にそう感じた。

 それ以上男に言葉を掛けたら、きっとこの前の待合室の時と同じように、そそくさと部屋を出て行ってしまうに違いない。

 そう思った途端、マーは口を閉ざし、温まってやがて汗が流れ出すのを待った。

 十分、二十分と静かに汗と共に時が流れて行った。

 突然男は立ち上がり、黙って部屋を出た。

 マーは暫く独りで汗を流しながら熱気に耐えていたが、我慢の限界も来て、部屋から出た。

 化粧室兼休憩室に入り、椅子に座って鏡にわが身を映していたら、あの男が下半身にバスタオルを巻いた姿で休憩室に入って来た。

 おもむろにマーに近付き、隣の椅子に座って口を開いた。

「お兄さんはウーライで俺にこう言った。『ひょっとして、おじさんは……』。あれはどういう意味だったんだ?」

男はいつもの鋭い目で睨んでいた。声を掛けて来たのは、すなわちこの男もマーに対する興味を抱いているということを暗示していた。

マーは何と言えばいいのか困惑して、黙っていた。

 男は床に目を落として、歯を食いしばるように声を絞り出した。

「お前は密告屋か。俺を警察に売り渡してたんまり儲けようというのか」

 思いがけない言葉を聞いて、驚いて男を見た。

「一体何をおっしゃっているのかわかりません」

「じゃ、お前は何を言おうとしたんだ。言ってみろ!」

 男は凄んで見せた。太い眉の辺りが神経質そうにピクピク動いている。

 その時サウナの客が待合室に入って来たので、男は姿勢を正した。

「いや、ひょっとしたらおじさんは昔ボクが知っていた人のような気がしたんです」

「何だって?」

「ボク、暫く記憶を失くしていたんです。でも、記憶が回復してから、記憶がリバウンドしたって言うのか、記憶が戻り過ぎたと言うのか、今までボクの記憶の奥底に沈んで浮かび上がって来なくなってしまっているような記憶までが蘇って来ているような感じがあるんです。普通人間って記憶があるのは早ければ三才頃からって言いますよね」

「それで俺はお前の何だと言うんだ?」

「いや、それはわかりません。でも、何らかの形でボクはおじさんのことを知っています」

 男はそのマーの言葉を、自分の過去を知っているという風に理解した。

 この若者が知っているのは俺の過去の栄光なのか、転落なのか。

 男はマーの横顔を眺めていた。もう少しゆっくりとこいつと話がしてみたい。こいつは密告なんかするような奴じゃないことがわかった。   

そう思い、男は趙と名乗った。

趙は宿泊している木賃宿の名前と住所を紙片に書いてマーに手渡し、翌日訪ねて来るように言い残して去って行った。


マーはホテルに戻り、古賀に一緒には大阪に帰れないと伝えた。

「一体どうしたんや」

古賀がマーの顔を覗き込んだ。

どう言えばいいのか即答出来なかったが、暫く考えて言った。

「気になるおじさんがいるんです。回復したボクの記憶の中で、さらに遠くの記憶の奥底からそのおじさんが突然ボクの目の前に現れたとでもいいますか。だからそれを自分なりに納得出来ないと、ここを離れられないんです」

 マーは言い出したら聞かない性格であることを古賀は玲から聞き及んでいた。

 今の様子では、その男に会うのを諦めて一緒に大阪に帰ろうと説得してみても無駄だという気がした。

「マー君、そのおじさんというのがどういう人物なのか俺には見当がつかん。ただ、君は未だに中国の公安当局から追われている身や。そやから俺が言えることは、警戒だけは絶対に怠るなということや。もしその男とトラブったら、直ぐにご両親か赤間さん、あるいは玲に相談するこっちゃ……」

「わかりました。そうします」

 マーはこっくり頷いた。

古賀はまず玲や赤間と相談し、マーは台湾に残し、玲とアンナを後見人として引き続きタイペイに滞在してもらうこと。今後の生き方をゆっくり考える時間が欲しいという赤間には全体の補佐役としてタイペイに留まってもらうよう依頼することを決めた。またマーの両親にはマーの意向を尊重したいので、大阪行きは暫く延期すると伝え、両親も納得した。

古賀自身は大阪に帰り、溜まった仕事をこなしながらマーの大阪暮らしの段取りをつけることとなった。


翌日の午後、マーは趙が指定した木賃宿に出かけた。趙から受け取った木賃宿の名前と住所を頼りに訪ねて行くと、宿はうらぶれた雰囲気が漂う地区にあった。

やっとそれらしい建物を見つけて見上げると、切妻屋根の瓦があちこち抜け落ち、少し強めの風でも吹けば、直ぐに滑り落ちそうに瓦が突き出ている。

玄関前にある木製扉は長年雨に打たれたせいか中央付近が腐ってぽっかり穴が開いている。珍しそうに扉の裏側を覗き込むと、左側の扉の金具に少々湾曲した閂(かんぬき)が突き刺さっている。左右の扉を閉めて、閂を差し込もうとしても無理なのが容易にわかる。

玄関横には生ごみが山と積まれ、鼻を衝く臭いが立ち込めていた。

玄関を入ると左奥にフロントがあり、顔を出すと老婆が立ち上がって仏頂面をこちらに向けた。

マーは恐る恐るお婆さんに近付き、尋ねた。

「ああ、趙さんかい。六号室だよ」

 一階の一番端にある部屋に向かうと、廊下には半端な木材が積まれ、ただでさえ狭い廊下が益々通りにくくなっていた。

六号室の入り口の木戸を何度かノックし、暫く待っていたら趙が眠そうに目を擦りながら、マーを見て頷いた。

「まあ、入れや」

 室内は簡素そのもので、左側の壁沿いにシングルベッドが置かれ、足元に小さな引き出し家具がある。右側には窓の傍に椅子が二つと小机があり、木製の小さなゴミ箱が転がっていた。

趙は茶を沸かし、椅子に座ったマーと自分の茶を小机の上に置いて、マーの向かいに腰を掛け、チラリとマーの顔を見て切り出した。

「あんたは俺のことを知っていると言ったが、どんなことを知っているというんだ?」

マーは茶を一服飲んで、茶碗を小机に置いた。

「いや、これこれのことを知っているとか、そういう意味ではありません」

「じゃあ、どういう意味なんだ?」

 趙が眉間に皺を寄せた。

「おじさん、まさか今までに記憶喪失になった経験はないでしょ?」

「ああ、ないよ」

「ボクは金属棒で思い切り頭を殴られて気絶し、目が覚めたら記憶が無くなっていたんです。それで何とか記憶を取り戻そうとして、敦煌の近くを行き来していたら、莫高窟の菩薩さまが頭に浮かんでその菩薩さまがボクを助けてくれると思うようになって菩薩詣でを始めたんです」

「莫高窟のどの窟のことだ?」

「美人窟です」

「五十七窟だな」

「行かれたことがあるんですか」

「いや、参ったことはないが、あそこの菩薩は有名だ。観光客も挙(こぞ)って参拝する」

「ボクはその菩薩さまに記憶を回復してもらいました。今では記憶が前以上にしっかりして、記憶の奥底に沈んで、消えてしまっていると思っていた幼児の頃の記憶も浮かぶようになったんです。それでおじさんもその頃に知っていた人なんだとわかったのです」

「あんた名前は何と言う」

「マーと言います」

「名前からすれば回族だな」

「ええ」

「マーは姓だろ? 名前の方は?」

「グアンピンです」

 回族のマー・グアンピン。ひょっとしたらわが息子かも知れないと一度は思ってはみたが、とんだ見当外れだった。だからそういう意味ではこの若者に対する興味は薄れた。

ただ、孤独な逃亡生活を送っている俺にとって、いつも会って話が出来る相手は欲しい。

その相手にしては少々もの頼りない気はするが、こんな形でいつも会いたい時に会えるという関係だけはこの若者と維持しておきたい。

趙は「良ければまた気の向いた時に会ってくれ」と言い、マーも頷いた。

その時だった。木賃宿のフロントあたりが騒がしくなった。

趙はピンと来て、ベッドの脇に置いていたリュックを急いで背中に担いで、窓を開けて外に飛び出した。

「趙さん、どうしたんですか?」

 驚くマーをあとに、趙は木賃宿の塀を乗り越えた。

 直ぐあとから拳銃を両手で握った男が数人塀沿いを脱兎のごとく走り、塀の上から趙の逃げた方向に拳銃を数発発射した。

 マーは怖くなって部屋のベッドの下に潜り込んだ。

 暫くしてその男のうち一人が部屋に入って来て、部屋を調べていたが、直ぐに出て行った。他の男らは趙さんのあとを追って行ったのだろう。

 おっかなびっくりフロントに行き、独りで文句を呟いている老婆に尋ねた。

「一体何があったんですか」

 文句をぶつける相手が現れ、老婆は堰を切ったように話し始めた。

「あいつらは前もここに来たことがあってね、その時にどうもあいつらは向こう岸の、いや大陸の臭いがしたもんだから、こっちからお前ら何しに来たって尋ねてやったんだよ。そしたらわたしに向かって暴言を吐いて、この頬を思いっきり打ったんだよ」

老婆は指で頬を触りながら続けた。

「そしたらまた今日現れただろう。わたしはあいつらの面を覚えていたから、文句を言ってやった。そしたらわたしに銃を突き付けて、写真を顔に押し付けて、この男は何処にいるのか。泊っている部屋は何号室だと聞いたんだ。わたしも命は惜しいから、趙さんに悪いけど本当のことを言っちゃった。趙さん、ご免!」

 老婆は趙の部屋に向かって両手を合わせた。

「趙さんって中国本土の男に追われているんですか?」

「あたしゃ詳しいことは何も知らないよ。だけどね、向こう岸の奴らに追われているんだから、趙さんはきっといい人だよ」

 趙は誰に追われているのか、何故追われるのか、次に本人に会う機会に尋ねてみようと思った。


発砲事件が起こったことは、台湾警察の知るところとなり、早速捜査員が木賃宿に事情を聴きにやって来た。

「女将はわたしだよ。何でも聞いておくれ」

 老婆は太い両腕を脇腹に置いて、ぽこんと出た腹を突き出しながら捜査員の相手を始めた。女将の証言から得た男らの特徴や情報で、台湾警察は人相書を作り上げ、捜査網を広げて行った。

 もしもこの発砲事件の捜査の過程で中国本土の公安が密かに台湾で暗躍し、発砲事件を起こしたことが明るみになれば、台湾政府が黙っていない。

 そういう意味でこの発砲事件は単なる事件ではなく、中国政府と台湾政府双方を巻き込む深刻な問題を引き起こす導火線になりかねない危険性を孕(はら)んでいたのである。

 マーは一旦ホテルに戻り、玲と赤間に会って、趙についての記憶を探るため、暫く彼と行動を供にしたいと告げた。二人は大阪に戻った古賀に連絡し、許可をもらい、暫くの外泊を認めた。マーは玲らが心配するので、趙が何者かに追われていることは内緒にした。


台湾警察の人相書による手配は、羅を追う諜報部隊に更なる足かせをはめた。

部隊長の李が発砲の事情を説明しようと公安部長の劉子墨に連絡しようとしたら、劉本人から連絡が入った。

 劉の声は怒気に満ちていた。

「二度も羅を取り逃したらしいな。どうもお前は元上司の羅に遠慮があるな……」

「いえ、決してそんなことはありません!」

 と言いながら、李は内心それを認めざるを得なかった。公安部長当時の羅との公私に渡る関係を安易に吹っ切って羅の逮捕に専念することなぞ李にとっては意に反することでさえあった。

「それに傍受した台湾警察の動静では、街中で発砲事件があったそうだな。お前の報告では諜報部員が羅に向けて発砲したという。まだわが公安部の発砲とは断定されていないが、もしも捜査の結果そうなれば国を巻き込む大問題になる。そんなことになればどんな結果を招くかぐらいわからんのか!」

「申し訳ありません!」

「お前を含めてスタッフを総入れ替えすることにした。新しい諜報部隊は楊部隊長以下全員がMホテルに既に待機している。直ぐにホテルに向かえ! そして引継ぎをしたら連絡せよ!」

 プツンと電話が切れた。これで俺は間違いなく閑職に回される。でも、羅部長逮捕だけはせずに済んだ。李は一種の安堵感に浸っていた。

しかし、新部隊長に抜擢された楊応州は、まだ若造だが大胆細心のエリート捜査員だ。あいつの手にかかったら、さすがに羅部長も逃げ切れないだろう。

 安堵と不安とが李の心の中で渦を巻いていた。

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