第2話

 猪四郎や三浦が所属する庶務役の組頭である武藤義之助は常に上役の顔色を伺っているような、いわゆる小役人である。上層部や他の役方の動きを殊の外気にして、「家老が何と言うか」が口癖でもある。


 その武藤をはじめ三浦や役方全員が厩の周辺に陣取っているのが見えて来た。


 自分と星雲号を心配して出て来ているのは明らかだったが、かといって、今にも裏山が崩れてくるということであれば、詳しい説明などしている場合ではない。ましてや、自分が厩から馬を逃そうとしているのは馬に言われたから、などということが、到底通るとも思えなかった。


 武藤が必死の形相で睨んだ。


「星雲号はどうした。いたのか、いなかったのか」

「はい。岩沼のところにおりました。無事です」


 三浦が叫んだ。


「では、何故連れて帰らぬ。本当にいたのか」

「いたにはいたのですが、その・・」


 ザワザワという音がしてその方向に猪四郎は視線を向けた。裏山から多くの鳥たちが飛び立っている。これは、本当に崩れるかも知れない。


「早く訳を申せ、何故星雲号を置いて自分だけ戻ったのだ」


 三浦が大きな体で圧力を掛けるように詰め寄って来た。だが、猪四郎は全神経を裏山に集中せざるを得なかった。これで、獣らが逃げ出すのであれば崩れるのが確実になるのだ。見逃すまいと小さな目を大きく開いて裏山の方向を注視した。


「おい、猪四郎、どこを見ている、真面目に答えろ」


 三浦が猪四郎の肩に手をかけて揺する。その時、裏山の方角から猪やウサギが方々に散って行くのが見えた。


「あ、あ、お待ちくだされ、訳は後ほど説明いたしますゆえ、御免」


 猪四郎は三浦の手を振り払って、急いで厩に入った。丸太の策を取り払って馬を外に出し始めた。猪四郎の耳に、場が混乱しているざわめきと武藤の何かを叫ぶ金切り声が聞こえたが、無論、手を止める訳には行かない。一頭、また一頭と馬を外に出した。


 あと一頭というとき、三浦が大きな体を揺すりながら厩に入って来た。


「馬鹿ぁ、やめろ、何をしている、やめろ。組頭の命令だ」


 猪四郎はハッとして三浦を見た。上司の命令に逆らうなど想像すら憚られる禁断の行為であった。これまで、心の中に反発するものを抱えていても常に我慢を重ねて上司への服従の姿勢を示して来た。これでは役人としての御法度を破ることになる。


 三浦が両手で猪四郎の肩を掴んだ。

「お前は上役の命令に逆らうのか」


 猪四郎は残っている一頭に視線を移した。ここは、上司に逆らっても、何としても馬を出すことが優先される。だが、命令に逆らうことを拒んで体は止まっている。


「裏山が崩れるのです。この厩が潰れます。馬だけは逃さないといけません」

「何を寝ぼけたことを言うか」

「もう余裕がありません、訳は、訳は後ほど・・」

「お前、容姿が貧弱なだけでなく、頭もおかしくなったか」


 猪四郎の中で何かが弾けた。ヒョイと屈んで三浦の手を振り払い、サッと馬に駆け寄ってその尻を思い切り叩いた。馬が三浦の横をすり抜けて勢いよく外に出て行った。三浦が馬を避けようとして尻もちをつき、裏返った亀がもがくように手と足をバタバタさせている。


 その姿を見て、猪四郎にやるべきことはやったという安堵感が満ちて来た。同時に、やや後悔の念も去来した。いくら説明したところで納得してもらえるとは思われない。これで、自分の役人としての人生も終わるかも知れない。いずれにしろ、自分たちも早く逃げねばならない。


 猪四郎は三浦に近づいて立ち上がるのを手助けしようと手を差し伸べたが、三浦が眉間にしわを寄せて睨み、その手を跳ね除けた。


「このような事をして、後で泣き面かくなよ、後悔しても遅いぞ」


 それは十分に理解できる事だった。このまま裏山が崩れないで何事もなければ、もう何を言っても無駄だろう。


 二人で厩の外に出た。途端に、役方全員の錐のように鋭い視線が体に突き刺さるのを感じた。猪四郎はこの息詰まる状況から解放される期待を込めて裏山を見た。しかし、山は静寂を保っている。


 三浦が武藤の側に行き、猪四郎に視線を移した。

「こいつは馬を出したのは裏山が崩れるからだと言いまして」


 どっと一同から笑いが起こった。極度に緊張する雰囲気は消えたが、代わって嘲りに満ちたざわめきの中に猪四郎は身を置くことになった。


 武藤は口を真一文字に結び鋭い視線で場を見回し、静まれと右手をあげた。

「そんなことよりも星雲号だ、星雲号の無事を確かめろ」


 武藤は上擦った声を張り上げた。

「この馬達を厩に戻して、早く星雲号を探しに行け」


 役方一同が姿勢を正して一斉に動き出した。


 その時だった。


 小刻みに地面が振動し始め、やがてゴーという太く不気味な音が聞こえだした。


 皆が音の方向の裏山を注視した。その裏山の木々がユサユサと大きく揺れたかと思うと、それらが生き物のように迫って来て、あっという間に土砂と共に厩に覆いかぶさってこれを押し潰した。土砂の流れくるドドドという低く唸るような音と、厩が潰されるバキバキという悲鳴のような音が周囲に響いた。


 蜘蛛の子を散らすように皆が逃げて、馬達も四方に散った。直後に、その一帯を土砂と倒木が埋め尽くした。間一髪で人も馬も犠牲を出さずに難を逃れることが出来た、という状況となった。


 やがて静寂が訪れた。


 猪四郎は我に返って周囲を見渡した。人も馬も犠牲は出ていないようだ。バクバクと全身に響いていた鼓動が少しずつ静まって行き、それと同時に、ジワリと心地良い安堵感が満ちて来た。


 気付くと、皆が呆然として自分を注目している。武藤も三浦も口を開けて放心の表情で立ち尽くしているが、視線は自分に向けられていた。それらの眼差しは、自分がこれまで浴びせられて来た嘲笑を含んだ陰湿なものとは明らかに違っていた。


 確かに、自分が上司の命令にまで逆らって強行したことが、最良の結果をもたらしたのだ。役方の誰もが目にしている。これで皆が自分を見直してもおかしくはない。


 だが、素直に喜べない気持ちが心の多くを占めていた。自分は馬が言った通りにしただけであり、能力を発揮したとか機転を効かせた訳ではない。上司の命令に逆らってまで馬を逃したとはいえ、三浦の言葉に思わず理性を失ったためだった。胸を張って自分の手柄と思うには無理があった。


 ただ、こうした事情は自分以外の者は知る由もない。今後は、自分を見る目は明らかに変わるだろうとも思えた。

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