16. ある教授の日誌_2006年11月5日

 龍鎮祭が終わった。まだ頭が混乱している。豊田氏とも話をしたが、まだおう受け止めていいのかわからずにいる。

 まずは自分の見たもの、考えを整理したい。


 例祭は午後から始まると聞いていたが、朝から境内が慌ただしくなっていた。

 境内には男たちが集い、祭祀で用いる道具を運び込む。


 磐座に巻き付ける巨大なウナギの人形の藁ツナと、木を切り出して作った真新しい丸木船である。龍鎮祭では二つの丸木舟が使われる。ひとつは漕ぎ手が乗り込む舟で、もうひとつが神饌を乗せるための舟である。真新しい舟のほうが神饌を岩屋へと運ぶために使われるらしい。

 道具に問題がないか、豊田氏は点検する。

 例祭の流れについては有賀氏が解説をしてくれた。


「船頭がこぐ丸木舟に引っ張られて、捧げものを乗せた筏が岩屋へと運ばれるんです。岩屋の入り口付近は内側に向かう潮流があるので、この流れに乗って筏が岩屋の奥へと向かうのです」

「となると丸木舟の漕ぎ手は岩屋には入らないのでしょうか?」

「はい。あそこはツナラ様の住まう場所ですから。何人も立ち入ることはありません」

「なるほど。禁足地というわけなんですね」


 実際、岩屋の入り口は半分水没しており、中の様子を伺うこともできない。一度流れに巻き込まれ、岩屋に引きずり込まれたら、帰還するのは非常に困難なのだろう。


「だとしたら、岩屋にはこれまでの祭祀で使われた筏が堆積していることになりませんか?」


 この質問に深い意味はなかった。ただ岩屋の奥を想像したとき、回収もされない筏の行方がどうなるのか少し気にかかっただけだ。

 返答までに妙な間があった。


「岩屋の奥は潮の流れが激しいんですよ。なので筏も木っ端みじんになっていると考えれます。たまに筏の木片と思しきものが漂流してることもありますしね」


 有賀氏はにこやかに答えた。

 現実的に考えれば、それは最も合理的な解釈だと思われる。しかし回答の内容以上に、有賀氏の返答の間のほうが気にかかった。

 なぜ有賀氏は答えに窮したのだろうか。問いただそうとした直後、また別の一団が神社の境内まで登ってきた。

 現れたのは島の女性たちである。10代から70代までの女性たちが段ボール箱を抱えて、段差を登っていく。


「お届けにあがりました。よろしくお願いいたします」

「ご苦労様です。いま宮司を呼んでまいります」


 有賀氏に呼ばれて、神主姿の豊田氏と、巫女姿の千尋さんが境内にはせ参じる。段ボールを運んできた女性たちは千尋さんに深々と頭を下げた。


 運ばれてきた段ボールの箱は全部で七箱。豊田氏と千尋さんは緊張した面持ちで箱をひとつひとつ開けていく。

 中に入っていたのは、柔らかい布に包まれた藁の塊だった。


 藁ツナとおなじく藁をより集めて編んだ代物のようだ。

 ラグビーボールくらいの大きさをしている。塊の上部が紐で縛られているため、達磨のような恰好になっていた。豊田氏と千尋さんは藁の塊を取り出しながら、正面、上部、底部と状態を検めていく。

 ひとつひとつの検査を終えたのち、豊田氏と千尋さんは女性たちに頭を下げた。


「問題ありません。こちらで拝領いたします」


 女性たちは黙礼し、藁の塊を段ボールにしまい、境内を出て行った。

 午後になり、境内に礼服を着た人々が集い始める。役場の局長や村長、漁業組合長などいずれも島の有力者と呼ばれる人間ばかりだった。

 こちらから挨拶はしたが、みな言葉少なに応じるだけだった。中には明らかに不快そうな表情を向ける者もいた。


 龍鎮祭は次の流れで執り行われる。

 まず津奈比売神社のつなら池にて、浮き島の岩に藁ツナを巻く儀式が執り行われる。その後、神饌が入った丸木舟を台輪に乗せ、島の若い衆が丸木舟を神輿のように担ぎ、港まで運ぶ。その後、進水した丸木舟を漕ぎ手がいる別の丸木舟で牽引し、つならの岩屋まで神饌を運び入れる。


 参列者はみな黒い服に身を包んでいる。まるで喪服のようだ。祭り特有の華やかさがどこにも見当たらない。

 やがて最初の藁ツナを巻く儀式が執り行われる。

 つなら池の前に集う参列者たちに混ざり、私もカメラを持って参加した。参列者の中には祥子さんと一緒にいる珠代ちゃんの姿もあった。


 太鼓の拍子が鳴る。

 禰宜の有賀氏が打ち鳴らす太鼓に合わせて、門の入り口から豊田氏と千尋さん、さらに藁ツナを抱えた和装の男たちが入場する。豊田氏は正装である冠衣単に身を包んでいた。


 一方の千尋さんは巫女の衣装を着ていた。白衣に緋袴、さらに白衣の上から白無地の千早を羽織っている。頭には金色の前天冠をつけていた。


 千早には文様が描かれていた。流れるような筆致の線は複雑に絡み合っており、不思議と躍動感にあふれていた。どことなく龍の姿に似ている。


 豊田氏と千尋さんは池のほとりに建った鳥居の前にたどり着く、深々とお辞儀をすると大祓詞を唱えた。


 千尋さんは凛とした表情のまま、お辞儀をすると、神楽鈴を取り出した。

 太鼓のゆっくりとしたリズムに合わせて、千尋さんは舞いを始めた。

 

 鳥居に向かい、神楽鈴を鳴らし続ける。

 シャンシャンという鈴の音が静謐な空気をつくる。

 

 そこへ太鼓の音がドンッと雷鳴のように鳴り響いた。

 いきなり太鼓の拍子が早くなる。


 すると男たちが藁ツナを抱えて現れた。

 藁ツナは荒れ狂う龍のようにうねりながら、千尋さんを周回し、ぐるぐると回り続ける。

 まるで藁ツナが千尋さんを飲み込もうとしているようにも見えた。


 ひっ、と泣き声が聞こえた。

 参列者の中にいる珠代ちゃんが怯えた目で藁ツナを見つめる。

 藁ツナの頭に向かって、千尋さんは鈴を鳴らし続ける。鈴の音が響くにつれ、だんだんと藁ツナも大人しくなる。


 千尋さんは藁ツナの頭に手を添える。やがて藁つなと千尋さんは鳥居をくぐり、舟に乗り込む。池に浮かんだ舟は浮島へと渡った。

 浮島に着いた千尋さんは岩の前で舞いを続ける。


 藁ツナを運んできた男たちは岩に巻かれた古い藁ツナを外していく。岩から解き放たれた古い藁ツナが男たちの手で持ち上げられる。その姿はゆらゆらと宙を舞っているように見えた。

 そして古い藁ツナが池へと捨てられる。頭部が重しになったのか、古い藁ツナは頭から突っ込むように底へと沈んでいった。

 一瞬、大きなウナギが泳いだかのように錯覚する。


 そのまま、新しい藁ツナが岩に巻かれた。千尋さんは岩の前にひざまずく。そこで太鼓の音が終わり、豊田氏も祝詞を唱え終えた。千尋さんと男たちは舟に乗り、池のほとりへと帰還する。

 

 ここで神楽の儀が終わった。

 そのまま龍鎮祭は奉納の儀に移る。


 参列者たちは神社を降り、駐車場に停まっていたバスに乗り込んだ。千尋さんと豊田氏は別の車で向かうらしい。最前列には祥子さんと珠代ちゃんが座る。私も二列目の席に座った。バスに揺られながら、参列者たちの話し声が聞こえる。


「千尋様、早苗様に似てきたな」

「ああ。今日の神楽も堂々としてらした。ツナラ様もお喜びになるだろう」

「早苗様がヒメコ様になったのも、あれくらいの年だったか?」

「ヒメコ様は代々そうだ。春子はるこ様のときも早かった」


 春子というのは先々代のヒメコであり、千尋さんの祖母に当たる。

 千尋さんが生まれるずっと前に亡くなったと聞いていた。


 最前列に座る珠代ちゃんはずっと涙ぐんでいた。よほど神楽の様子が怖かったのだろう。祥子さんが懸命に慰めている。


「大丈夫だよ、タマちゃん。お姉ちゃん、ちゃんといるからね」

「ほんとに? チーちゃん、ツナラ様になってない?」


 珠代ちゃんの言葉に、祥子さんも黙って背中をさすり続けていた。

 ツナラになる、とはなんだろう。

 車内の参列者たちは口をつぐむように沈黙していた。


 バスは山を下り、綿土湾を回る。綿土湾の端にある岸壁にたどり着く。もともと集落がほとんどないあたりだが、岸壁の近くには提灯が並んでおり、屋台も出店していた。島の人たちも集結している。

 すでに日は暮れており、海は闇に包まれようとしている。

 祭りにいる人々を撮影していると、宮川氏が声をかけた。


「先生、いらっしゃったんですか! 祭り、楽しんでますー?」


 宮川氏はビールを飲み、赤ら顔になっている。私は捧げものとなる牛を探したが、どこにも見当たらない。


「ああ。あれはもうヒルコになったよ。先生見なかったの?」

「ヒルコ?」

「そう。藁の人形があったでしょ?」


 ようやくそこで私は藁の塊――ヒルコが捧げものであったことを知った。昨日の牛は殺され、干し肉になっていた。

 あの藁の人形の中には干し肉が詰め込まれているらしい。


「あとで余ってる肉をサイコロステーキにして振舞ってくれるんじゃないかな。いい肉を使ってるはずだから、美味しいと思うよー」


 あっけらかんと宮川氏は話すが、相槌を打つことしかできなかった。


 しばらくして、太鼓の音頭が鳴った。

 それまで祭りを楽しんでいた島民たちが歓談をやめる。太鼓の拍子に合わせて、提灯を構えた豊田氏と千尋さんが現れる。

 

 2人の後には神官装束を着た7人の女性が続く。

 彼らはみなヒルコを抱えていた。

 

 岸壁のそばには2艘の丸木舟が浮かんでいる。女性たちは漕ぎ手に次々とヒルコを渡していった。7体のヒルコを載せた丸木舟はもう1艘の丸木舟にロープでつながれる。


 そして船頭が乗り込むと、ヒルコを載せた舟を牽引しながら、つならの岩屋へと漕ぎ出していった。

 岩屋へ向かう2つの提灯を見送りながら、豊田氏が祝詞を唱える。


 津奈来命、津奈来命、守り給え、幸え給え


 古事記によれば、イザナギとイザナミの間に生まれた最初の神が水蛭子と呼ばれていた。しかし「わが生める子よくあらず」といわれたヒルコは葦船に乗せられ、流されてしまった。

 これが転じていつしか「亡くなった赤子」を水蛭子、水子と呼ぶようになった。


 つまり、ヒルコとは水子である。


 島の人間たちは亡くなった赤ん坊を神に捧げていたのだ。

 神への祈りが朗々と海に響き渡る。やがて二艘の舟が岩屋の入り口にたどり着いた。船頭はヒルコたちを載せた丸木舟をロープから外した。


 提灯のひとつが岩屋の奥へと消える。

 明かりごと飲み込まれたかのように見えた。

 島民たちは岩屋をじっと眺める。物音ひとつ立てようとしない。

 最初は舟に乗せられたヒルコの姿に死者を悼む気持ちを重ねているのかと考えた。だが、島民たちの表情を見て、違うと悟った。


 みな、恐ろしいモノに気づかれないように息を潜めている。

 異様な緊張が場を包んでいた。

 これは断じて哀惜の念による表情ではない。


 畏怖とも違う。恐怖だ。

 彼らは津奈来命に怯えているのだ。

 

 ヒルコを送った舟が港へ帰還する。

 しかしそれでもなお千尋さんと豊田氏は岩屋を見つめていた。まだ奉納の儀に続きがあるのだろうか。そう思ったときだ。


 グワアアァーーーーーーーーン

 グワアアァーーーーーーーーン


 岩屋の奥から異様な音が響いた。鐘の音のような重低音が港の空気を震わせる。

 まるで岩屋そのものが咆哮しているかのようだった。

 島民たちは身じろぎもしない。ただ、引きつった顔で唇を固く閉じている。

 

 その中で、千尋さんだけが凛とした顔で岩屋を見つめていた。

 岩屋の音を合図にしたかのように、千尋さんは手にした鈴を鳴らす。


  シャリン、シャリン、という柔らかい音に不思議な心地よさがあった。

 島民たちは一斉に、千尋さんにお辞儀をした。懸命に手を合わせる者や、涙を流している者もいた。

 

 千尋さんは島民たちに向き直る。太鼓の音頭に合わせ、千尋さんと豊田氏は厳かに港から立ち去って行った。

 

 千尋さんたちがいなくなると、島の人たちは誰かれともなくその場を後にする。

 私はまだ、自分が見た光景の意味を理解しきれず、困惑していた。

 

 豊田氏と千尋さんは村の顔役たちとの会食があるため、すぐには会えない。ひとまず祥子さん、珠代ちゃんとともに邸宅へ戻ることにする。

 

 車の中、珠代ちゃんはずっと夜の海を眺める。すっかり日が暮れており、夜の闇で空と海の境目が完全に溶け合っていた。

 なにを見てるの、と尋ねると、珠代ちゃんはこう答えた。


「ツナラ」


 なぜかそれを聞いたとき、背筋を冷たいモノが走った。

 自分がなにに恐怖しているのか、まるでわからなかった。


 邸宅に帰宅したのちも、珠代ちゃんはすぐに寝ようとしなかった。

 口にこそ出さなかったが、千尋さんたちの帰りを待っているようだった。私も風呂をいただいたのち、手持無沙汰になっていたので、珠代ちゃんとともに居間でテレビを眺めていた。

 22時を回り、珠代ちゃんも限界を迎えたのか舟を漕ぎだしたあたりで、ようやく豊田氏と千尋さんたちが帰宅した。

 

 大役を務めたせいか、千尋さんの顔に疲れが見られたが、二人が帰宅してすぐに駆け寄った珠代ちゃんに顔をほこらばせる。

 

 すぐに休むという話だったので、千尋さんたちに「おやすみ」と告げた。千尋さんたちも「おやすみなさい」と云って、部屋に引き上げていく。

 

 豊田氏も今日はずっと動きっぱなしだったはずなのに、疲れを微塵とも感じさせない顔で私に問いかけた。


「お祭りはいかがでしたかな、先生」


 私はなんと答えるべきか迷った。昨日の豊田氏の言葉を思い出していた。

 ここで答えるより明日の催事を直接見たほうがいい。

 

 豊田氏はわかっていたのだ。

 私がなにを感じるか。この祭祀になにを見出すのかを。


「ヒルコというのは水子の代わりですよね? この島では亡くなった赤ん坊を捧げていたのですか?」

「おそらく違います。捧げていたのは、亡くなった赤ん坊ではありません」


 豊田氏の言葉の真意に気づき、慄然となった。

 津奈来命は豊穣の神である。しかし、いつも実りの多い年を迎えられるわけではない。それは飢饉の危機と表裏一体であったはずだ。

 そして食料が足りなくなったとき、共同体がとる手段はひとつしかない。


「口減らしのために生きた子供を供物として流していた?」

「記録も伝承もありませんがね。少なくとも、我々が行っているのは水子供養の類じゃない。そう考えるのが自然ではないかと」


 自分の社で奉る神なのに、豊田氏はどこか他人事のように云う。


「ヒルコの奉納はいつから始まったのでしょう」

「わかりません。藁人形を用いるようになったのは近世に入ってからのようです。ちょうどこの時期に島で牛の飼育が始まったと記録に残っているので」

「そこです。それが気になっているんです、私は」


 つい興奮して、豊田氏に詰め寄った。


「なぜわざわざヒルコに牛の肉を仕込むのですか? ヒルコはあくまで水子の見立てのはずです。肉が神饌なら、肉を包み隠すのは理屈に合ってない」

「なぜ包み隠すのが理屈に合わないとは?」

「神への捧げものであるなら、供物は目に見える形でなければなりません。神事とはそもそも一種の見立てなのですから。第一、この島に畜産の文化はない。ヒルコ奉納のルーツが間引きだとしたら、わざわざ牛の肉を仕込むのはあまりにもおかしい」


 いつのまにか息を切らしていた。こんなに熱弁をふるったのはいつ以来だろう。講義や研究室でもこんなふうに話したことはない。

 豊田氏は云った。


「私の書斎に来ていただけますか。お見せしたいものがあります」


 豊田氏の書斎は奥座敷の隣にあった。こじんまりとした和室だが、本棚には民間信仰の研究書が並んでおり、机には最新のノートパソコンが置かれている。部屋の造りに親近感を抱いた。

 豊田氏はファイルを取り出す。中には印刷したデジカメ写真がしまわれていた。


「当社に古くから伝わる垂迹画すいじゃくがです。本土からきた画僧が描いたものらしい。時代はわかりませんが、おそらく中世、室町時代の頃ではないかと」


 垂迹画とは神像を描いた絵画である。

 本来、神道において神の姿を現すのはタブーとされていたが、仏教の影響を受けて、神社の神域や神像を描くようになった。


 古い掛け軸に描かれた水墨画の写真。

 描かれているのは綿土湾だろう。海から巨大な何かがせり上がっている。龍のように胴体が長い。白い鱗が細かく描画されている。

 胴体の両脇からは白い手が伸びている。その手が掴んでいるのは着物の人間だった。

 人間を掴むこれがなにかはわからない。顔に当たる部分が顔はわからない。まるで顔だけ削り取ったかのように白くなっていた。


 垂迹画と云われなければ、妖怪画だと思っただろう。


「これは、津奈来命ですか?」

「わかりません。なにを描いたのか、なぜ描かれたのか、その由縁が当社には伝わっていないのです。ただ代々のヒコ、宮司たちは掛け軸を守り続けてきた」

「そんなことがあるのですか?」


 この掛け軸は代々伝えられているという。神社の由縁を伝えるものとして扱われているからだ。その掛け軸に由縁がないということがあるのか。

 掛け軸だけではない。ヒルコの奉納もいつから始まったのか、どのような由縁に基づいて行われているのかがわかっていない。

 それなのに島の人々は津奈来命を恐れ、祭祀を執り行っている。


 なぜヒルコには肉が仕込まれているのか。

 なぜ垂迹画に描かれた存在は人間を掴んでいるのか。

 それに岩屋の奥から聞こえた奇妙な音。


「豊田さん。教えてください。津奈来命とはなんなのですか? あの岩屋の奥には、なにがいるのですか?」


 そう問いかけたとき、豊田氏の顔を見て、息をのんだ。豊田氏の頭には汗が浮かんでいた。ひどく緊張した面持ちで私を見返している。


「それをあなたに突き止めてほしいんです」


 豊田氏はファイルを閉ざすと、ハンカチで汗を拭った。


「私が島に婿養子としてきてから、20年が経ちます。ヒコさんなどと呼ばれていますが、ここでの私はあなたと変わらない。よそ者なんです。よそ者なりに神社に仕えてきたが、ずっとわからないままだった。津奈来命とはなんなのか。島の人たちは何を恐れているのかが」

「奥様から伺ったことはないのですか? 先代の宮司さんもいらっしゃったのでは?」

「家内の母、先々代のヒメコは家内が幼い頃に亡くなったそうです。彼女の父も、ちょうど彼女が在学中に亡くなりましてね。私が婿養子としてここに来れたのも、彼女を補佐できる人物が必要だったからなんです」


 ヒメコもヒコも代々、命が短いらしい、と豊田氏は云った。


「ただ、家内はこんなことをよく話していました。私はいずれ、ツナラさまに還ると」

「ツナラさまに還る?」

「どういう意味かはわかりません。ただ代々ヒメコとはそういうものらしい。亡くなったのち、ツナラさまのもとへ還る。そうして初めてヒメコは役目を全うできるのだそうです」


 私は今日の珠代ちゃんの言葉を思い出していた。

 お姉ちゃん、ツナラ様になってない?


「千尋さんはなんと言ってるのですか?」

「いまのところ、あの子からはなにも聞いていません」


 ただ、と豊田氏は付け加えた。


「ヒメコを継承してから、つなら池に向かって話しかけることが増えました。まるで誰かと話しているかのように。思い返せば、早苗も生前の頃はおなじことをしていた」


 ようやく私は豊田氏がなにを怯えているのかを察した。

 これから先、千尋さんになにが起きるのか。

 それを突き止めるために、豊田氏は私を島に呼び寄せたのだ。


 もともとツナラ信仰に興味を持ったのは、ツナラ信仰に日本の原始的な信仰の形態があると考えたためだ。

 しかし、はたしてこれは信仰なのだろうか。

 信仰とは姿なき神への祈りが根源にある。それなのに、津奈島では実在する存在の影を強く感じてしまう。


 津奈来命とよばれるなにか。化け物の姿をしたなにか。


 そのときだ。

 外から赤ん坊の泣き声が聞こえた。こんな深夜にでも泣いているのかと思ったが、目の前の豊田氏は強張った顔をしていた。

 なぜか豊田氏は慌てた様子でファイルを本棚にしまった。


「今日はもう遅いですから寝ましょう。明日には出発されるのでしょ?」


 なぜか私を書斎から出し、それ以上の会話は打ち切ろうとする。

 結局、話はおしまいとなり、こうして離れで日誌を書いている。

 まだ頭がぼうっとしている。朝から祭祀に立ち会い続けてきたため、疲れが出てきたのかもしれない。


 明後日には東京へ帰る。まだ豊田氏と話をする機会は残されている。可能であれば千尋さんからも話を伺おう。


 ツナラに還る。彼女はこの言葉の意味を知っているのだろうか。

 とにかく今日はここまでにしよう。


追記


 どうしていままで気づかなかったのか。

 この近くに民家はない。


 赤ん坊の声など聞こえるはずもないのだ。

 だから豊田氏は話を打ち切ったのだ。


 それなのに、いまも聞こえる。


 赤ん坊が泣き続けている。

 民家じゃなかった。


 古井戸だ。離れのそばにある古井戸の底で、赤ん坊が泣き続けているのだ。

 それとも泣いているのはヒルコ? あるいは津奈来命、ツナラ様なのか。

 私は触れてはならないものに触れてしま


 泣き声が大きい


 どんどん近づいてる


 赤ん坊が

 ひとりじゃない

 複数

 天井 アレは

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