第2話天秤は絶対、魔王も絶対

「魔王様だ!」

「魔王様がいらしたぞ!」

 

 脱走犯を囲むようにしていた大勢の悪魔たちがさっと道を開けた。悪魔を束ねる王として敬意をこめて、サタンは『魔王』と呼ばれている。彼は煉獄の白いタイルに靴音を響かせ、黒い翼を背に畳みながら騒動の中心へと向かった。


「サタン様」

 

 暴れる死者を押さえつけていたクロムの薄墨色の瞳が、今日も無表情でこちらを見ている。その表情の乏しさから冷酷な悪魔に誤解されがちな彼だが、意外にも争いは好まない。


 しかし、筋骨隆々とまではいかないが引き締まった体躯と二メートル近い長身から伸びる長い手足は荒事にはうってつけだ。実際、クロムの身体の下の男はまるで身動きが取れていなかった。


「脱走犯だって?」

「ええ。こいつが」


 クロムが死者を押さえつけていた手を少しだけ緩める。目の前に立ったサタンの圧倒的なオーラと威圧感を前に、死者の顔が引きった。上の者を出せとは確かに言ったが、こんな恐怖の塊のような悪魔が出てくるとは思っていなかったのだ。


 対してサタンは立ったまま彼を見下ろした。その金の瞳は真冬の月のように冷たく澄んでいて、全く温度が通っていないように見える。その存在を前に、死者は震えていた。


「お前か? 地獄行きに納得いかねぇって奴は」

「……はい」

「まぁ、まずは立て。話はそれからだ」

 

 クロムの手が完全に離れ、よろよろとせ細った青年の形をした死者の魂が立ちあがる。それを見て、サタンは意外そうに瞬いた。今まで地獄行きが嫌で抵抗してきた多くの脱走犯は腕に覚えのあるタイプが多かったのだが、彼は随分と気弱そうだ。サタンは同じく立ちあがったクロムに向かって小声で話しかけた。


「(あー……こいつがなんだって?)」

「(二人殺して地獄行きです)」

「(殺してんじゃねぇか)」

「(そこの知り合いの判定を聞いてしまったので、判定基準に不信感が生まれてしまったようですね)」


 クロムが振り返り、気弱な青年の後ろを見た。サタンがその薄墨色の瞳の先をたどると、確かにそこに、もうひとりの死者の魂が腕を組んで立っている。スキンヘッドに吊り目、頬に大きな切り傷。彼は先ほどの青年の魂よりも、よほど凶悪な顔をしていた。


「(あいつの判定は?)」

「(五人殺したのに天国行きになったと)」

「(まじか。すげぇな)」


 再び素早くクロムから情報を仕入れ、サタンはスキンヘッドの男に再び視線を向けた。判定が間違っているとは微塵みじんも思わない。しかし珍しいパターンであることは事実だ。


「お前五人殺したって?」


 サタンは男にそのまま話しかけた。気弱そうな青年と違い、彼の凶悪な顔には戸惑いのひとつも現れていない。損なタイプだなとサタンは思った。この顔で殺人を犯してもなお天国に行けるほどの善人。さぞかし生前は人間関係に苦労したことだろう。


「安心しろ、判定はくつがえらねぇ。ただ、何か言いたい事があるんじゃねぇかと思ってな」

「……何も無い。理由があったとはいえ、俺が多くの人間を手にかけてしまったことは事実だ。今からでも地獄に堕ちろというのなら従おう」

「良い奴って大抵そう言うんだよな」


 サタンは納得したように頷いた。おそらくやむを得ない理由があっての人殺しなのだろう。天秤は本心を覗き、人の心を量る。誰かを守るため、家族を人質に取られてやむなく、殺しの理由も様々だ。サタンは地獄行きになった、気弱そうな青年の方を見た。


「で、お前は納得いかないと」

「だ、だって……彼は、僕と僕の家族を殺したんだ! 仲が良かった……大切な家族だった……それを、彼が!」


 おっとこれは予想外、とサタンは再び瞬いた。青年は涙を浮かべて叫んでいる。その姿は自分と家族を殺されて失意の中にいる一人の人間そのもので、嘘をついているようには全く見えない。彼を気の毒に思った周りの天使や悪魔が、ざわざわと話し始めた。


「(何か可哀想ですね)」

「(天秤が間違ってるんじゃないんですか?)」

「(でも天秤の判断は絶対っていうだろ)」

「(じゃあ何で家族皆殺しにした方が天国に行けて、被害者のあの人が地獄行きなんだよ!)」


 一家全員を殺された上に地獄堕ちが決まってしまったかわいそうな青年は、周囲の同情を大いにかった。サタンは腕を組んでそんな周囲の反応を見まわし、隣に立っているクロムに声をかける。


「あいつ何層?」

「中層の下の方です」

「そこそこわりぃじゃねぇかよ」

「そうは見えないところがタチ悪いですよね」


 疑わしげに青年の方を見ながらそう言ったクロムは、天秤の判断を全く疑ってはいないようだ。そういうところも信頼に値すると、サタンは密かに安堵した。


「(お前まで天秤が間違いとか言い出さなくて何よりだ)」

「(何年この仕事やってると思ってるんです)」

「(だよな。じゃさっさと終わらせるか)」


 サタンは青年の前に立ち、はっきりと宣言した。


「お前は地獄行きだ。死んでまで騒動を起こした分も加算して下層が妥当だな」

「そんなっ! お、横暴だ!!」

「うっせぇな。ぐだぐだ言っても判決は変わんねぇんだからさっさと行けよ」

「僕は地獄なんかに行かない! 天国へ行って……家族と仲良く暮らすんだ……」


 青年はついに泣き崩れた。その姿は家族を皆殺しにされ失意の中にいるかわいそうな人間そのものだ。しかも殺した相手は天国に行って何ら不自由のない楽しい死者ライフが約束されているというのに、自分は地獄行き。泣きたくもなるだろう。


 しかしこんな事はここ煉獄ではよくあることだ。何千年も仕事をしているベテランの天使や悪魔は天秤の正確さをよく知っているのでこの騒動を冷めた目で見て通り過ぎたが、まだ経験の少ない若い天使や悪魔は判定の方を疑ってしまう。

 

 そしてついに、見ていられなくなった若い天使が二人駆け寄り、青年の両側に立ってその涙に濡れた顔を覗きこんだ。周囲から放たれる彼への擁護の声もどんどん大きくなっていき、全く関係のない者まで続々集まってくる始末だ。サタンとクロムは顔を見合わせ頷き合った。指導不足だ。この騒動が終わったら、すぐに天秤の重要性を叩き込まなくては。


「かわいそうに。大丈夫ですか?」

「サタン様、やはり天秤が間違えているのでは……?」

 

 青年の両隣で彼を支える天使たちが勇気を出してサタンに意見した。しかしサタンは彼らと視線を合わせない。いちいち死者に感情移入して判断を誤る者は煉獄には不要だ。サタンが天国の王ミカエルであれば、即座に彼らをクビにするだろう。


「いいかお前ら。『天秤は絶対』だ。信じられねぇ奴は今すぐ煉獄ここから出てけ! 辞表は後でいい」


 周囲に響く声でサタンは警告した。滅多に無いその剣幕に「魔王様の言うことに間違いは無い」と幼い頃から言い聞かせられている悪魔達は慌てて口を閉じたが、まだ彼のことをあまり知らない若い天使たちはやはり彼に同情していた。なかでも死者に駆け寄ったふたりの天使は、負けじと死者を擁護する。死者の青年はもう、顔を上げられないほど憔悴した様子で地面を見つめていた。やはり、地獄行きになるようには見えなかった。


「こんなのあんまりです! 何故彼が地獄行きなんですか!」

「家族と会わせてあげたいと思わないのですか!」


 二人の天使はサタンを睨むように見た。反抗的なその態度は、もう若いからで済ませられるものではない。サタンの声が冷たく響いた。

 

退け」

「嫌です!」

「彼は天国に行くべきです」

「百万歩譲って同情するのは勝手だがな。仕事の邪魔をするのは許さねぇ」

「お願いです。連れて行かないであげてください」

 

 四角いフレームの眼鏡をかけた真面目そうな印象の天使が、震えながら死者の前に立ち、彼を必死に庇っている。大きな丸いピアスをつけた快活そうな天使は、死者の背に手を置き、励ましの言葉をかけていた。初対面の死者に感情移入し幸せを願う姿は慈悲の象徴である天使そのもの。しかし、ここ煉獄にいるのは善人ばかりではない。


「……お前らには、煉獄ここで働く資格はない」

 

 サタンが静かに言った言葉に、二人の天使がびくりと震えた、その時。今まで黙っていたスキンヘッドの男が慌てたように口を開いた。


「駄目だ、離れろ」

「あ?」


 サタンがそちらを見ると、彼は気弱な青年を、殺意を込めた目でにらんでいる。その目は今にも殺人を犯しそうなほど鋭く、周囲で騒動を見ていた天使たちは、皆彼が青年に襲いかかるのではと思い身構えた。

 

「早く! そいつから離れろ!」


 再び男が叫ぶ。周囲の視線がスキンヘッドの男に集まる中、サタンとクロムだけは彼の言葉を信じ、気弱な青年の方へと飛んだ。しかしふたりの天使が邪魔ですぐに彼のもとへとたどり着けない。


「邪魔だ、退け!」


 クロムが叫びながら青年の魂に手を伸ばす。しかし彼がその身体に触れるより早く、青年はピアスの天使の腕を思い切り噛み千切り、眼鏡の天使の腕を反対方向に折り曲げた。


「うわぁぁあぁぁーーー!!」

「あぁぁあぁっっ!!」

 

 ゴキっという鈍い音が鳴り、白いタイルが紅に染まった。少し遅れて周囲がパニックにおちいる。煉獄の騒動は、大惨事に変わった。


「きゃ――――!!!!」

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