第17話
今の生活が、どこか他人事のようだった。
訓練という名前だったものが、授業という名前に変わっただけ。言われた場所に行って、言われたことをする。
ただその言われる内容が曖昧であったり、自由な時間というものが多かった。
『好きなように生きるために、まずは貴女は人を知りなさい』
それまでいた暗い場所に来た、やはり闇の似合う人は、どこか悲しげに、懐かしそうな顔をしながら少女を見つめ、そう言った。
だから少女はここにいる。
その時に撫でられた温もりが、随分と暖かくて、日当たりのいい場所で寝るのが心地いいのは、やることがない意外にも同じような温もりを求めているのかもしれなかった。
これまでの人生で表情を変えることもなく、感情を表すことも求められなかった少女は無表情の裏で、戸惑っている。
◇◆
放課後。
いつものように、夕凪の中、学園の片隅、小川の土手でノイン・シュバルツは眠っていた。
退屈な授業、実践形式ではなかなかの動きをするものの相手がいて面白くも思うこともあったが、夜闇を気配なく忍び寄り、一撃で切り裂く術をもつ彼女には、日の当たる場所での訓練はどうでもいいもののように思える。
死を待つだけだと思っていた中で降って湧いた自由というものだったが、ノインにはまだ実感というものが無かった。
――――ふと、音色が聞こえた。
(ん……?)
ノインは、気まぐれに耳を済ませてみる。
――――再び、音色。
綺麗な音がした。
音楽に対しての造詣は無い。不必要なものはノインには与えられていなかった。
でも、その音がとても真っ直ぐで、澄んだ純粋な色をした音だということはわかった。
ノインは起き上がり、音色の主を見る。
すると、音色が止んだ。
名前すら思い出せないクラスメイトの少年が、楽器を手に少し頬を赤らめてこちらを見ていた。
これまでノインが近くにいたことに気付かなかったようだ。むしろ、気配を消したノインを感じ取れるものなど少ないため、これは致し方のないことだと思うが。
「やめるの?」
ノインは、音が聞こえなくなったことを残念に感じ、そう聞いた。
「……え、あの……ノインさん、ですよね?」
少年が、まだ赤い顔をしたまま、そう尋ねてくる。誰も名前など聞いていなかった。見ると落ち着きの無い状態のようだ、聞こえていなかったのかもしれないと思い、もう一度尋ねる。
「やめたの?」
「……すみません、うるさかったでしょうか? 人がいると思わなくて」
少年のその言葉に、周りに人がいてはまずいのかとノインは思い、更に明確に気配を消した。
だが、少年は気づいた様子もなかった。仕方がないのでそれを伝えてやる。
「私はいないものと思っていい。ほら、気配も消した。だから――」
「……あの……」
なのに、少年はあたふたしたまま立ちすくんだままだった。
「弾かないなら、いい」
そういって彼女は再び背を向け、眠りにつく。
少し、先ほどの音に興味があっただけ。鳴らないならば、もうどうでもよかった。
沈黙の後、迷ったような気配を醸し出しながら、少年がふう、と息を吐くのが聞こえた。
音色が奏でられ始める。最初はたどたどしく、しかし時間を追うごとに洗練されたそれになっていく。空気が、透き通り――
暫くの間、ノインは横になってはいるが眠りにつくこともなく、その少年から奏でられている音に耳を傾けていた。
演奏が終わり、再び静寂が訪れる。
ノインは、起き上がり、改めて少年を見た。
中肉中背。性別は男。茫洋。右利き。
実技でも見るべきところはない、特筆魔術が使えるというわけでもない。戦闘をすれば、すぐに無力化できる。
今までの経験からノインは少年の戦力をそう判断した。そして、不思議に思う。
(この男から、綺麗な音色が聞こえる。不思議。きれい、綺麗? これが綺麗)
そして、ノインには珍しく、言葉を紡いだ。
「不思議。貴方の音色は心地いい。平和過ぎて聞いていられないようで、耳から離れない。仕事に役に立つことではない。お腹も膨れない…………そんなことを私が考えている、変……ふぅ」
「あの……どう、しました?」
文句では無さそうな言葉だが、抑揚なく告げられるノインの言葉に戸惑いながら、少年は最後のため息に尋ねる。
「しゃべりすぎて疲れた、寝る…………」
そう言って、横になるノインに、少年は少し困ったようにして微笑んだ。
「そうですか、寝るところの邪魔してすみませんでした」
「いい、邪魔とは違った。あ……」
眠りにつこうとするノインを見て、立ち去ろうとする少年に、ノインは声をかけた。
「えっと、何でしょうか?」
それにまた、意外そうに少年は首をかしげて尋ねる。
「……名前」
「え……あぁ、僕のですか? そうか、そうですね、僕はテオ。テオ・マルシャンと言います」
そして、ノインの端的な問いに、少し慌てたように自身の名前を告げる少年。
そんな少年の名前を聞き、ノインは頷いた。
「テオ。テオ・マルシャン……テオ、また、弾く?」
「そうですね。基本的にはエミールさんいることも多いのですが、一人の時間が出来たらまた、ここに来ると思います。ここは、とても風が気持ち良い場所で、楽器の調子がいい気がするのです」
「そう……」
それは、十数分に過ぎない邂逅。
最も平凡とは程遠い、人形と呼ばれた少年と、色の強いクラスメイトの中で、最も平凡と呼ばれた少年の。
少年も、そして少女も知らなかった。
少しだけだが、少女の口元が緩んでいたそれは、もしかしたら笑みというものだったことを。
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